洗脳試験 千里眼
 
  100万部突破のシリーズ 最新・最速・最高傑作 !取り扱いに注意 <危険な暗示が含まれています>決して、声に出して読まないでください。  
著者
松岡圭祐
出版社
小学館
定価
本体価格 1700円+税
第一刷発行
2001/4/20
ISBN4−09−386073−4


舞踏

友軍佐知子は壁一面を覆った巨大な鏡の前で、クリスチャン・ディオールの新色のルージュを手にとり、唇にうすくひいてみた。
ゴールドベージュは自分の顔に馴染まないと思っていたが、そうでもない。色彩だけでなく、ノーメイクよりも軽く思えるほどのっけごこちのよさがある。
淡いいろのルージュは顔色がくすむので嫌いだったが、これはそうでもない。さすがディオール。わたしの選択眼にかなっただけのことはある。

そう思った。鏡のなかの自分をみつめた。斜に構えてみると、ミディアムにまとめた髪型が計算どおりに横顔を美しくうかびあがらせているのがわかる。
やや前下がりにレイヤーをいれて、前髪を短めにしてある。締麗なフェイスラインをありのままにみせるコツだった。むろん、そもそも美というものに無縁な女には意味をなさない髪型だろう。自分にとってこそ価値がある、そんなヘアスタイルだった。

身にまとっている紫のネグリジェは、どちらかといえば厚手で、シルクのしなやかな光沢と肌触りがあった。そのシルエットには抜群のプロポーションがうかびあがっている。
顔に手をやると、ネグリジェの袖がするりと落ちて手首があらわになった。ホワイトゴールドのブレスレットが鋭い輝きを放つ。

胸もとのペンダントと同系色だった。古風なデザインのイヤリングにもマッチする。あいかわらず、自分が身につけるものはふしぎな一体感を持って溶けこみあう。その触媒の役割を果たすのが、自分の美であることは疑う余地はない。友里はそう思っていた。
顔をみた。端正で、一分の隙もない。五十歳を間近に控えているという実年齢は、どこかへ消し飛んでしまっている。目の前にあるのは、三十代の若くつややかな肌を持った女性の顔だ。

大きな瞳、高く筋の通った鼻、硬さとやわらかさを併せ持った唇。それらはディオールのメイクと完壁な合奏曲を奏でている。芸術の高みへと昇りつめた表情、それがここにある。
これが鏡でなくキャンバスだったら、描いた画家にとっては最高の栄誉だろう。なにより、究極の美を後世につたえることができる喜びにうちふるえるだろう。女医として世間に名が売れていたころにはよくいわれたものだ。

友里は整形している、鼻には人工軟骨が入っているし、顎も削っていると。美と才能をほしいままにしている友里に対する世間の羨望はすさまじかった。
愚かな庶民。偶像に唾を吐きかけたところで、自分の醜さに歯止めがかかるわけではなかろうに。友里はいちども整形など受けてはいなかった。ここにある美はすべて天然のもの、神から授けられたものだ。

神というものが、自分のほかに存在するならの話だが。友里は笑った。しばらくのあいだ、友里は自分の顔にみとれていた。それはいつものように、甘くせつない時間だった。
人類はこのように、慈しむべき美という存在に触れる機会を失っている。自分ひとりだけが、鏡の前に立つことで毎日、この美しい女性と会い、心ゆくまで鑑賞することができる。なんと栄誉なことか。なんと罪深いことか。例によって、喜びと苦しみは表裏一体なのだ。

そんな時間が過ぎていった。どれくらい経ったのだろう。その顔に繋りがさした。どうしたのか。自分でもよくわからなかった。ただ鏡のなかの自分に、奇妙な違和感を覚えた。
それが自分でなく他人であるかのように錯覚することは、いままでにもよくあった。あまりにも美しすぎるから。しかし、いま友里の胸中をよぎった感情は、それとは異質のものだった。

鏡のなかの顔はだれかに似ている。そう思った。それがだれなのか、意識のなかで急速にあきらかになりつつあった。それは美に酔う時間を打ち砕く破壊者、邪悪な侵入者にほかならなかった。
岬美由紀。あの小娘。次の瞬間、友里はわきにあった椅子の背をつかんだ。細い肘掛けのついた上質な調度品のひとつだった。それを両手で抱えた。頭上高く抱えあげた。

友里は自分の絶叫をきいた。怒りとともにほとばしる声。椅子を鏡に叩きつけた。鈍い音がして、放射線状にひびが走った。何度も鏡を打った。ひびはくもの巣のようにひろがっていった。
細かな破片が、きらきらと光を放ちながらこぼれ落ちる。しかしそれは一部だけだった。鏡は砕かれながらも、壁にへばりついたままはがれ落ちようとはしなかった。

友里の前に、存在しつづけた。甲高い音がした。椅子の脚が折れ、後方へ飛んでいった。椅子自体も、もはや使いものにならないほどに変形していた。壁にぶつけてもしなるばかりになっていた。
友里は、椅子を放りだした。息を切らしていた。静まりかえった部屋のなかに、自分の呼吸音だけがせわしく響いていた。視界には、壊れた鏡のなかで醜くゆがんだ岬美由紀の顔があった。

ざまをみろ、そう思った。が、すぐにそれは自分の顔だとわかった。そうだ、これはほかならぬわたしの顔だ。そう気づいた。悲しみがこみあげ、涙に視界が揺らいだ。頬にしずくが流れおちるのを感じた。
泣いている、自分でそう感じた。ところがそれは、相反する別の感情とまざりあっていた。友里は笑ってもいた。肩を震わせ、笑った。涙を流しながら笑い声をあげた。岬美由紀の顔にみえた。

自分の顔が、あんなに下品で卑しく、意地汚い小娘の顔に。愚かしい。ばかげている。冗談にもなりはしない。そう、あの女は化粧ひとつできなかった。男のように力仕事をしているのが性にあっているような 女だった。メイクも、美という概念自体も、友里が教えた。あの小娘は、そのただの受け売りにすぎない。

クリスチャン・ディオールが肌になじんでいるからといって、あんな小娘と自分を同一視するなど、自分はどうかしている。黒真珠とゴキブリを見まちがうようなものだ。
ひとしきり笑ったあと、奇妙に上機嫌になった。流れた涙を手でぬぐった。せっかくのメイクが台無しになった。それでもかまわなかった。美は永遠だ。それはいつも、自分とともにある。室内を振りかえった。

広々とした部屋。閑散としている、といえるかもしれない。黒ずんだコンクリートに囲まれた、薄汚い空間。天井にはむきだしの送電線や水道管が縦横に走り、裸電球がいたるところにぶらさがっている。

床はごつごつとしたセメントだった。この場に不似合いな高級品のクローゼットやベッド、テーブルや椅子が点在している。鏡を張った側以外の三方の壁面は、赤や緑でスプレーした落書きで埋めつくされていた。

落書きはすべて、友里の手によるものだった。下水の臭いが鼻をつく。このところ気にならなくなっていたが、また悪臭が強さを増したようだ。工場廃水によるものだろう。けっこうだ、友里はそう思った。

事実、ここは自分にとって地上のどこよりも居心地がよい、この世に残されたたったひとつの楽園だった。陽のささない、地中深くの楽園。この居場所を見いだしたとき、自分の新しい人生ははじまった。いや、伝説は、歴史の新たな一ぺ-ジはここからはじまるのだ。そう思うと、いっそう気分が高揚した。

友里は部屋の片隅に集められた機械類のほうに駆けていった。低いテーブルに、四台のデスクトップ型パソコンが並んでいる。そのうちの一台に手を伸ばした。キーを叩くと、モニタには最新型のDADSと呼ばれるソフトが表示された。

これにより、コンピュータ上でロボットの作動状況を正確に確認できる。慣性モーメントや質量など、ロボットの個々の物理的な特性やジョイントの状態、バネや粘性などの力学要素を数値で入力して調整できる。

リターンを押した。暗い部屋の一角で、静かな作動音がきこえた。「フレッド」友里はいった。
「踊ってくださる?」本田技研工業が開発した二足歩行ロボットは、数年前までは取るにたらない存在だった。はじめてつくられたEOはたんなる電動人形と変わらなかった。人間と同じ”動歩行”を実現したE2についても、たいした技術革新とは思えなかった。

だが腕と胴体がついて人間型ロボットになったP1あたりから世間で騒がれるようになり、まるで人間のように歩きまわることができるP2にいたって、世界的に注目されるようになった。しかし、この世に生まれた技術はすぐに人の手に渡る。本田技研の長年の研究の成果も、台湾や韓国の部品下請けメーカーを通じて闇取引され、別の技術者によって設計図が描かれた。

本田技研のロボットそっくりにつくられたコピー品が、東南アジアでは一体一千万円で手に入る。いま、壁ぎわにうずくまるように静止していた三体のうち、一体がゆっくりと起きあがった。
身長は一メートル八十センチほどもある。本田技研の最新型ロボットMK1とうりふたつのメタルホワイトのずんぐりとした身体が、一歩一歩踏みしめるようにしてこちらに歩いてくる。

歩行はP2やP3などよりはるかに自然で、速くなっていた。段差も傾斜面も、難なく踏みこえていく。たとえバランスをくずしても転倒しないように自ら体勢を立て直す。外見は、宇宙服を着てヘルメットをかぶり月面着陸船から出てきた宇宙飛行士のようにみえる。

とりわけ、前面を丸く不透明なガラスで覆った頭部がその雰囲気をかもしだしている。そこを開けると人の顔が現れるのでは、そう思えるほどのリアルな動きだった。体形も、かつてのロボットよりはスマートで、背負ったバッテリーパックも小さくなり、肩から突き出していた受信アンテナも体内に収 納されている。ロボットはこちらに歩いてきた。置いてあった椅子をセンサーで感知し、避けて歩いてくる。友里の前までくると、前かがみになり、手をさしのべた。すべて、あらかじめプログラムされた動きだ。感情はない、意思もない。そういう意味では、目の前のこの物体はやはり電気仕掛けの人形にすぎない。しかし友里は、その考えを頭から追いはらった。いつものことだ。逆らう意思などはじめから持たないパートナーのほうがかえって信頼できる。

たとえ生命さえも持たないものであっても。友里はミニコンポのボタンを押した。『美しく青きドナウ』が流れだした。ヘルベルト・フォン・カラヤンの指揮だけにテンポは速めだ。友里にとっては好ましかった。

ロボットはセンサーで音を感知した。リズムを解析し、左足の踵を浮かせた。友里はロボットの手をとった。五指の先まで、関節がなめらかに動く。つめたかったが、それもいつものことだった。
踊っているうちに、温かさはったわる。人間には、わたしと踊れる栄誉を与えられた者はいない。だから感謝なさい。心のなかでそう語りかけた。音楽にあわせて、ロボットは左足を前、右足を後ろヘステップした。つづいて右足、左足の横にステップ、左足、右足の後ろにクロス、左足、右足の横にステップ……。

ロボットと手をとり、踊りまわりながら、友里は笑った。また笑い声をあげた。ロボットの顔、いや人間であれば顔があるはずの部分のガラスに、友里の顔がうつった。凸面なので歪んでいた。
鼻がいやに大きくうつっていた。あなたにはそうみえるの、フレッド。友里はそう話しかけた。不幸なものね。美しいものを美しいととらえられないなんて。友里は踊りつづけた。疲れきり、自然に眠りにつくまで、ダンスはつづく。毎晩のことだった。

こうして踊るうち、心の暗雲は晴れ、天にも昇る気持ちになる。そう、空高く舞いあがっていくのだ。わたしには無限の可能性がある。わたしを阻むものは、なにもない。心は大空の彼方にある。わたしは雲の上でダンスしている。友里の心のなかはそんな夢想で満ちていた。

 

 

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