ステフアンとアリスンとデイヴイツドに
はじめに
読者が十四篇からなるこの短篇集を読みはじめられる前に、これまでと同じく、そのうちの何篇かは実際の事件にもとづいて書かれたものであることをお断りしておきたい。
目次ぺ−ジの*印がそれらを示している。わたしは世界中を旅しながら、いつもそれ自体で独立した生命を持っていそうな文学的スケッチを捜すことにしているが、あるときこの『死神は語る』を発見して深い感銘を受けたので、この短篇集の冒頭にそれを置くことにした。
これはもともとアラビア語から翻訳されたもので、八方手を尽して調べたが、作者は不明のままである。ただしこの話はサマセット・モームのある戯曲のなかに出てくるし、その後ジョン・オハラの『サマラの町で会おう』の序文のなかでも取りあげられている。
わたしは純然たるストーリーテリングの技術の、これ以上の好例にはめったにお目にかかったことがない。それはいかなる偏見もまったく持ちあわせない才能である。
なぜならその才能は生まれ、育ち、または教育のいかんにかかわらず授かるものだからだ。ジョゼフ・コンラッドとウォルター・スコットの、ジョン・バカンとO・ヘンリの、H・H・マンローとハンス・クリスチャン・アンデルセンの対照的な育ちを思いうかべるだけで、わたしのいわんとするところがわかっていただけるだろう。わたしの四冊目の短篇集である本書には、このジャンルの超短篇、『手紙』と『ひと目惚れ』の二篇を収めてみた。だが、まずは『死神は語る』をご賞味あれ。
死神は語る
バグダッドに住む一人の商人が、召使いを市場へ買物に行かせた。しばらくすると召使いが真っ青な顔をして震えながら戻り、主人に報告した。
「だんな様、今しがた市場の人混みのなかである女と体がぶつかり、振りかえってみたところその女は死神でした。女はわたしを見て脅かすような身ぶりをしたのです。どうか馬を二頭お貸しください。この町から逃げだして死の運命からのがれたいのです。サマラの町まで行けば死神に見つからずにすむでしょう」
商人は馬を貸してやり、召使いは馬の背に跨って脇腹に拍車をくれ、全速力で町から逃げだした。それから間もなく、商人が市場へ行くと死神が人混みのなかに立っていたので、彼は近づいて行って話しかけた。
「今朝わが家の召使いと会ったとき、脅かすような身ぶりをしたのはなぜですか?」「あれは脅かすような身ぶりではありません」と、死神は答えた。
「わたしはただ驚いただけなんです。じつは、今夜サマラで彼と会うことになっているので、バグダッドにいるのを見てびっくりしたんですよ」
専門家証人
「すごいナイス・ショットだ」と、対戦相手のボールが空気を切り裂いて飛ぶのを眺めながらトビーがいった。「二三〇ヤードは飛んだに違いない、いや、二五〇ヤードかな」彼は片手を額にか、ざして陽ざしをさえぎり、フェアウェイの真ん中でバウンドするボールを眺めつづけながらっけくわえた。
「どうも」と、ハリーが答えた。「朝飯になにを食ったんだ、ハリー?」と、ようやくボールが停止するとトビーがきいた。
「女房とけんかしただけさ」と、すかさず相手が答えた。
「今朝は一緒に買物に行ってくれというんだよ」
「これほどゴルフの腕が上がるんなら、わたしも結婚しようかなという気にもなるよ」と、トビーがボールにアドレスしながらいった。
「くそっ」と、間もなく彼は毒づいた。
打ちそこなったボールが一〇〇ヤード足らず先の深いラフにつかまってしまったからである。
トビーのゴルフはバック・ナインに入っても持ちなおさず、昼食のためにクラブハウスへ向かうときに、彼は対戦相手に警告した。
「リターン・マッチは来週の法廷までおあずけとしよう」
「それは無理だろうな」と、ハリーが笑いながらいった。
「なぜだ?」トビーがクラブハウスに入るときにたずねた。
「わたしはきみの側の専門家証人として出廷することになっているからだよ」と、昼食の席に着きながらハリーが答えた。
「妙だな」と、トビーがいった。「てっきりきみは相手方だと思っていたのに」勅選弁護士サー・トビー・グレイとハリー・バムフォード教授は、法廷で顔を合わせるとき、かならずしも同じ側ではなかった。
「当法廷の関係者全員は、前に進みでて出席を告げてください」リーズ刑事裁判所が開廷した。
法廷を司るのはフェントン判事だった。サー・トビーは初老の判事を観察した。
事件要点の説示がやや長すぎるきらいはあるが、まずまず穏当で公正な人物だ、と彼は考えた。
フェントン判事が判事席からうなずいた。サー・トビーが弁論を開始するために自分の席から立ちあがった。
「恐れながら裁判長閣下、陪審員諸氏に申しあげます。わたしは自分の両肩にのしかかる重い責任を充分に承知しております。殺人の容疑で起訴された人間を弁護するのは容易ではありません。
ましてや被害者は被告が二十年以上も連れそった最愛の妻であるとなれば、なおさら困難が増すばかりです。このことは検察も認めております。
「また、昨日の検察側冒頭陳述で、わが博学な友人、ミスター・ロジャーズによって巧みに利用されたすべての状況証拠が、外見から判断すれば、わたしの依頼人の有罪を証明しているかに見えるという点でも」と、サー・トビーは続けた。
「わたしの任務は難しくなる一方であります。しかしながら」サー・トビーは黒いシルクのガウンの襟をつかんで陪審のほうを向いた。
「わたしは非の打ちどころのない名声に包まれた一人の証人を申請しようと思います。この証人が、陪審員のみなさんをして、無罪の評決を出さざるをえないと結論させることを、わたしは信じて疑いません。ハロルド・バムフォード教授の出廷を求めます」ブルーのダブル・スーツに白のワイシャツにヨークシャー州クリケット・クラブのタイという、きちんとした服装の男が入廷して、証人席に坐った。
差しだされた新約聖書に片手を置いて、誓いの言葉を述べたが、その自信にみちた態度は、陪審員たちに、殺人裁判で証言するのはこれが最初ではなさそうだと思わせるに充分だった。
サー・トビーはガウンの襟をつかんだまま、証人席のゴルフ友達をみつめた。
「バムフォード教授」と、彼はあたかも今日が初対面であるかのように話しかけた。「あなたの専門知識を証明するために、ご迷惑でしょうが二、三予備的な質問をさせていただかなくてはなりません。
なにしろあなたはこの裁判を左右する専門知識の持主であることを、陪審に示すことがなによりも重要なのですよ」ハリーはにこりともせずにうなずいた。
「バムフォード教授、あなたはリーズ・グラマー・スクールで教育を受け」サー・トビーは全員がヨークシャー人からなる陪審をちらと見ながらいった。「それからオクスフォードのモードリン・カレッジで法律を専攻するための無制限奨学金を与えられましたね」ハリーがふたたびうなずいて、「その通りです」と答えると、トビーは手もとのメモに視線を落としたが、彼はハリー相手にこれまで何度も同じことをしてきたので、実際はその必要はなかった。
「しかしあなたはその奨学金を辞退して」と、サー・トビーは続けた。「ここリーズで大学生活を送ることを選んだ。これも間違いありませんね?」「ええ」と、ハリーが答え、今度は判事が彼と一緒にうなずいた。
ヨークシャーの事となると、ヨークシャー人ほど忠誠心が篤く、誇り高い人間はいない、とサー・トビーは満足感とともに思った。
「リーズ大学を卒業したとき、第一級優等卒業学位を与えられた記録が残っていることも間違いありませんね?」
「その通りです」
「それからあなたは八一ヴァード大学へ招かれて、博士号をとるための研究をしましたか?」ハリーは軽く頭を下げてそのことを認めた。
「早くしろよ、トビー」といいたいところだったが、永年のスパーリング・パートナーがこれからの数分間をとことん利用するつもりであることを知っていた。
「そして博士論文のテーマとして、殺人事件と拳銃の関連という問題を選びましたか?」「おっしゃる通りです、サー・トビー」「あなたの論文が審査委員会に提出されたとき」と、高名な勅選弁護士は続けた。
「それはひじょうに高く評価されてハーヴァード大学出版局から公刊され、今なお法医学を専攻する学生の必読の書となっている、というのは事実ですか?」
「そういっていただけるとは恐縮です」ハリーはトビーに次の台詞のきっかけを与えるためにいった。
「これはわたしの言葉ではなく」と、サー・トビーはすっくと立って陪審をみつめながらいった。
「ほかならぬアメリカ合衆国最高裁判事ダニエル・ウェブスターの言葉なのです。が、それはそれとして、話を先へ進めましょう。
八三ヴァードを去ってイギリスへ戻ったあと、オクスフォード大学が法医学の主任教授としてふたたびあなたを迎えようとしたが、あなたはまたしてもその誘いを蹴って、最初は常勤講師として、のちには教授として、母校のリーズ大学に戻るほうを選んだ、という言い方は正確ですか?どうでしょう、バムフォード教授?」
「正確そのものですよ、サー・トビー」
「あなたは過去十一年間その地位についておられる。世界中のいくつかの大学から、愛するヨークシャーをはなれてうちへこないかという好条件の誘いがあったにもかかわらずですよ」ここで、前にも同じやりとりを聞かされているフェントン判事が、下を見おろしていった。
「サー・トビー、あなたの証人が彼の専門分野におけるすぐれた権威であることは、すでに充分に立証されたといってよいでしょう。そろそろ先へ進んで当面の課題に取り組んではどうでしょうかな?」
「喜んでおっしゃる通りにいたします、裁判長、ただ今の親切なお言葉にまったく異存はありません。教授の両肩にこれ以上の賞讃を積みあげる必要はないでしょう」サー・トビーは、じつはあなたの横槍が入る直前に、前もっていいたいことはすべていい終っていたのだと、判事にいってやりたかった。
「そこでわたしは、裁判長のお許しを得て、本題に話を進めたいと思います。裁判長もこの証人の資格は充分に立証されたとお考えのようですから」彼は教授のほうに向きなおって、意味ありげな目配せを交わした。
「昨日」と、サー・トビーは続けた。「わが博学なる友人ミスター・ロジャーズは、まことに説得力に富んだ検察側の主張を展開して、結論はただ一点の証拠物件しだいだということを、疑問の余地なく陪審に印象づけました。
すなわちその証拠とは、”発射されなかったのに煙の立ちのぼる銃”であります」─それはハリーがこれまで何度も聞かされた親友の得意の表現であり、これからもくりかえし聞かされることだろう。
「わたしのいう銃とは、被告の指紋に覆われて、彼の不運な妻ミセス・ヴァレリー・リチャーズの遺体の近くで発見された銃のことであります。検察はわたしの依頼人が妻を殺したあと、パニックに襲われて、銃を部屋の真ん中に残したまま家から走りでたと主張しました」
サー・トビーはくるりと向きを変えて陪審と相対した。
「このたったひとつの薄弱な証拠をもとに−薄弱であることはいずれ証明します陪審員のみなさんは一人の人間を殺人で有罪とし、彼を一生鉄格子のなかへ送りこむことを求められているのです」彼は一呼吸おいて、自分の言葉の重さを陪審員たちの胸に浸透させた。
「では、バムフォード教授、ここであなたに立ち戻って、専門分野におけるすぐれた権威−裁判長の表現1であるあなたに二、三質問します。
「まずは最初の質問です、教授。殺人犯が被害者を射殺したのち、彼または彼女が犯行現場に兇器を置き去りにしたケースをご存知ですか?」「いいえ、サー・トビー、そういうケースはきわめて異例です。拳銃が兇器として使われた殺人では、犯人が証拠を抹消しようとするので、十中八九兇器は発見されません」
「なるほど」と、サー・トビーはいった。
「ではまれに現場で銃が発見される場合、そのいたるところに指紋が残っているというのはよくあることでしょうか?」
「そういう例はほとんど知られていません」と、ハリーが答えた。
「犯人が箸にも棒にもかからないばかか、現行犯でつかまった場合を別にすれば」
「被告はほかのなんであるにせよ」と、サー・トビーはいった。「明らかにばかではありません。彼もまた、あなたと同じくリーズ・グラマー・スクールを卒業しております。逮捕された場所は犯行現場ではなく、町の反対側にある友人の家でした」サー・トビーは、検察官が冒頭陳述のなかで再三指摘したことだが、被告が情婦と一緒にベッドにいるところを発見されたこと、彼のアリバイを証明できるのはその女しかいないことには触れなかった。
「次に、銃そのものに目を向けてみましょう、教授。それはスミス・アンド・ウェッソンK4217Bでしたね
」「K4127Bです」と、ハリーが親友の間違いを訂正した。「あなたの並はずれた知識には脱帽するほかありません」サー・トビーは自分のちょっとした間違いが陪審に及ぼした効果に満足しながらいった。「さて、銃に話を戻しましょう。内務省の研究所は兇器から被害者の指紋を検出したのですね?」
|