妖怪馬鹿
 
  妖怪馬鹿・・・妖怪のことばかり考えていること。本書は、あやかしの都に三馬鹿が集い、行われた座談会の記録である。京極夏彦書下ろし」漫画も満載!  
著者
京極夏彦 ・ 多田克己 ・ 村上健司
出版社
OH文庫 / 新潮社
定価
本体価格 695円+税
第一刷発行
2001/2/10
ISBN4−10−290073−X

天地に─。

馬鹿は数々あるけれど、妖怪馬鹿に勝る馬鹿なし。

お医者様でも草津の湯でも、こいつばかりは治せねエ。

浜の真砂が尽きようとルルドの泉が涸れようと、こればっかりは治らねエ。

馬鹿は死ななきゃ治らぬと、世のならいにはいうけれど、死んでもこいつア治らねエ。

亭主リストラ女房は不倫、息子オタクで娘はキレて、いとおかしきは夢ん中。

隣カルトでお向かいサイコ、裏の兄さんストーカー。

これじゃあ体が持ちやせん。

化けて出たくもなりやしょう。

早くお迎え来ぬものかこれが中々来やしねエ。

あやかし、もののけ、鬼、天狗、爺婆河童に入道小僧。

あの世とこの世を行き来する、化け物追って西東。

こけつまろびつ走る馬鹿。見る馬鹿聞く馬鹿探る馬鹿。

語る阿呆に描<阿呆。

話の種に─見ておいきなせエ。

 

都へ─

路面のアスファルトはまだ湿っていた。路肩には濡れ落ち葉や、湿り気を帯びた様々な塵芥が堆積していたし、大地の窪みという窪みは未だ玄々とした汚水を湛え、ぬらぬらと光っていた。しかし、澄碧に前夜の陵雨の残津は見取れない。抜けるような空。なるほどな。青木(仮名)大輔は、口中でそう眩いて、眼を伏せた。抜けるようなとはこういうことかと、心中密かに納得したわけである。それまで青木(仮名)は、それを「天蓋が抜けたような」というような意味なのだろうと、何の疑いもなくそう判じていたのだった。

だが、もしかしたら違っていたのかもしれぬ。常套句は抜けた、ではなく抜ける、なのである。ならば。視線が抜けるのだ。遥か彼方まで一瞬にして。今、自分の観ているこの青は、勿論手の届く中空に漂っている色ではない。遠くに霞むビルの背後に描き割りの如くに塗られた色でもない。光線が地球を取り巻く大気の層に乱反射したが故の発色である。つまり大気の層の、その距離こそが、この青を顕現せしめているのだ。その距離を青木(仮名)の視線は一瞬にして突き抜けたことになる。

ならば、観るという行為は光速より早いのかと、青木(仮名)は愚にもつかぬことを夢想する。─常套句も捨てたものではない。青木(仮名)は次にそう思った。こうした常套句を頻繁に使用する芸のない小説は宜しくないと、文芸編集者でもある青木(仮名)は常日頃教育されていたのだが、そう決めつける方こそ、実は紋切り型の硬直した思考をしているのやもしれぬとそう思ったのだ。受け取る方はともかく、使う方はまた違った意味を重ねているのかもしれぬ。そんなことはないか。無為な思考を重ねつつ、青木(仮名)はまるで操られるが如くに横断歩道を渡った。信号が変わったことを確認した訳ではない。流れに沿うただけである。憾んだ煉瓦色が視野を占領する。

東京駅である。東京駅─その昔の中央停車場は、アムステルダム中央駅をモデルに作られたのだという俗説がまことしやかに囁かれていた。本来八重洲側に出入り口はなく、空襲で焼けるまでは三階建てで、南北に丸いドームが備えられた、左右対称の美しい建物だったそうである。今の東京駅に三階はない。ドームも丸くはなく、八角形である。利便性を追求するだけの野暮な増改築が重ねられた結果、現在では対称性の美しさも損なわれ、どこか迷宮の如き煩雑な気配を醸している。

いにしえの名残を留め置く古びた煉瓦でさえ、今では怪しげな雰囲気を助長するという不本意な役割しか果たしていないように思う。青木(仮名)は、本来なかった筈の入口から、その迷宮へと踏み込んだ。─銀の鈴か。何故待ち合わせ場所に巨大な鈴がなければならないのか、それが青木(仮名)にはよく解らない。嘗てそこは待ち合わせの名所だったというが、場所を移した今も尚、どうしてあんな所で大勢が待ち合わせるものか、それも何となく理解できない。待ち合わせといえば銀の鈴でしょうに─。

待ち合わせの相手─小説家の京極(筆名)夏彦がそう言ったのだ。別にホームでいいじゃないかと青木(仮名)は思っている。建物なのか地下街なのか、はたまた隧道なのか判別のつかぬ通路を大勢が行き交う。殆どは足早だ。しかし中には酔っている者も、座っている者もいる。昼も夜も変わらない、清潔なのか不潔なのかも暖昧だ。ただ不健康な風景ではある。その景色の中、誰と目を合わせることもなく漂うように青木(仮名)は歩を進める。その時。「青木(仮名)さん!」野太い声が青木(仮名)を呼んだ。目を遣れば、アクリルケースに収まった鈴の前に、坊主頭の青年が立っていた。Tシャツにジーンズというラフないでたちである。

全国各地の伝説を尋ね歩き、文献を漁って妖怪伝説を集め回っている妖怪探訪家の村上(実名)健司だった。「あ−気がつかなかった。今日は刺し子じゃないんですね?」本当は村上(実名)が見慣れぬ男と話し込んでいたために見逃したのだが、青木(仮名)は敢えて真実とは違うことを言った。村上(実名)は愛想よく笑った。「いつもあんなの着てないっすよ。足許はこれですけど─」村上(実名)は足を上げた。その足の先に確認されたのは靴ではなく、蛇革の鼻緒の雪駄だった。

「多田(本名)さんは妖怪対談なんだから河童の格好で来い、なんて言うんですけどね」「お持ちなんですか河童のコスプレ?」上滑りする台詞を吐きながら、青木(仮名)は村上(実名)の横に歩み寄った。それまで村上(実名)が話し込んでいた妙な風体の男がぎごちなく、こそくに挨拶をした。「ども」「あれ?えええと」見覚えがある。「どうも。S(匿名)です」それは京極(筆名)の私的スタッフであるS(匿名)だった。スタッフといっても記録用の写真撮影と、京極(筆名)が旅先で馬鹿みたいに購入する書籍の運搬が主な仕事であるらしい。

大量の本を運ぶためだろう、ジャケット姿なのにも拘らず、Sは登山用のリュックを背負っている。都会のシェルパですと、以前S本人が言っていた。「ああSさん。何か髪型とか変わっちゃってるから。わかんなかった。イメチェン?」ええ─と、S(匿名)は暖昧に語尾を濁した。「はっきり喋ったらどうなんだ」「わあ」いきなり背後から声がしたので青木(仮名)は本気で前のめりになった。「あ。京極(筆名)さん、いたんですか」「いましたよずっと。どうしたんですか青木(仮名)さんこそ髭なんか生やして」「私─最近、逆さにすると怒った顔になると言われてます」騙し絵ですか村上(実名)は愉快そうに笑った。しかし京極(筆名)は頬を引き攣らせただけで、相変わらず下らないねと素っ気なく言った。

この男、ラフな服も黒い。「青木(仮名)さんの場合は、逆さにしたって笑ってるみたいだよ」「騙し絵が下手なんだ。それより京極(筆名)さん、何か疲れてないっスカ」「仕事が終わらないんですよ。やってもやっても終わらない。書いても書いても終わらないの。これだけ働いても読者の皆さんは、声を揃えて遅い、遅いと」「それだけ読者が熱心だつつうことじゃないですか。ねえ青木(仮名)さん」「御意に候」こういう反応をした後、青木(仮名)は自分が何者なのか疑わしく思う。

「心の籠らない返事だよなあ。まあ、こんな状況で京都は辛いね」「何を仰せか。いいですよ京都は。古都の慕情が日本人の郷愁を呼び覚ましますから」青木(仮名)の口先だけの言葉に一切反応せず、京極(筆名)は周囲を見渡した。「それより多田(本名)さんどうしたのいれば絶対わかるでしょう、あの人は」待ち合わせ最後のひとり妖怪研究家の多田(本名)克己の姿を探している。「まず発見できますね。できないということは、まだ来てないということですよ」そう言いながら、村上(実名)も周囲を見渡した。「まあいつものことですから。もう行きましょう。チケットなくしたのかもしれないし」「な、なくした?そんな危倶があるなら行っちゃまずいでしょ。いいんですか?」

「いいっすよ。あの人は車で移動してて、たとえサービスエリアに置き忘れても、次のサービスエリアで待ってたりする人ですから」「ど、どうやって移動するんですか?超人?百キロ婆ならぬ百キロ研究家?」「それは時速か体重かって話ですけど。まあ、遅れはしないでしょうから」村上(実名)の投げ遣りな意見に京極(筆名)も同意したので、青木(仮名)は若干の不安を抱えながらもホームに向かうことにした。しかし歩き出すやいなや、青木(仮名)は背筋を覆ういい知れぬ圧迫感を感じることになった。

これは、もしかしたら編集者である自分だけは待ち合わせ場所に残って多田(本名)を待つべきではなかったかという、良心の呵責ではないのか。事実、足を踏み出したその際に、そうした思いもほんの一瞬、脳裏を過りはしたのだ。青木(仮名)は、違う、いいんだ、これでいいんだと己に言い聞かせ、そして自己を正当化するかのように、一度振り返った。「あッ」異様なモノが来る刹那、青木(仮名)がそう思ったことは確かである。

しかし、迫り来る物体は都市伝説の妖怪などではなく、走り来る多田(本名)その人だった。「すいませんツ」多田(本名)は汗をかいていた。「まだ時間大丈夫ですよね」「大丈夫です。余裕。全〜然平気でも、もう行った方がいいか」事実、行きがけていたのだが。我ながら適当だと青木(仮名)は思った。「そうですが。ん?そういえばチケットあるかな。あら?あれれ」多田(本名)はポケットや鞄をがさがさと忙しくまさぐりながら、挨拶もそこそこに京極(筆名)達の方にむけて足早に歩き始めた。「どうしたんスカ、先生、遅いっスよ」「ギリギリまで仕事してたんだよ」「いずこも同じですなあ。国書の仕事?」「はまっちゃって。新幹線はのぞみ?」

「そうだよ。先生、慌てて『こまち』とか乗っちゃっちゃ駄目だよ」

 

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