カリスマ 上
 
  あなたは、この<洗脳>から逃れられるか!? *** 人間はなぜ、そこまで信じることができるのか。**** 人間はなぜ、そこまで 堕ことができるのか ?****  
著者
新堂冬樹
出版社
徳間書店
定価
本体価格 1600円+税
第一刷発行
2001/3/31
ISBN4−19−861319−2

序章

「福はぁ〜内ぃ〜、鬼はあ〜外ぉ〜」
四時限目−学級会。江戸川区立小岩西小学校の三年D組の教室内では、三十六脚の机を黒板寄りに集めて作ったスペースで、節分の豆撒きが行われていた。
丸い顔に黒縁の丸眼鏡をかけた、四十代半ばの柔和な顔をした担任の男性教諭の声に合わせて、豆撒き役の十八人の少年少女が大声で合唱し、福豆で山盛りになった枡に手を突っ込み鷲掴みにすると、一斉に撒いた。

厚紙を切り抜きクレヨンで色づけして作った、赤鬼や青鬼の面を被った鬼役の十八人の少年少女は大袈裟に両手を上げ、奇声を発して逃げ惑い、後方の引き戸から廊下へと飛び出した。
鬼役の少年少女はどの顔もこの顔も嬉々としており、むしろ、豆撒き役の少年少女よりも愉しそうにみえた。中には、己の役回りも忘れて、床に散乱する福豆を拾い上げて投げ返してくるお調子者の「鬼」もいた。

「こらこら、岡崎。鬼が、豆を投げたらだめじゃないか」
担任教諭に諭された少年は、両耳に輪ゴムで留めた鬼の面を外し、くりくりとしたドングリ眼を大きく見開き、毬栗頭をぽりぽりと掻いた。百五十ニセンチ、五十キロという大柄な躰を小さく丸める愛矯のある少年の仕草に、教室内は爆笑の渦に包まれた。

「すいません。僕、鬼だってこと忘れてた」
手にした福豆を口に頬張りペコリと頭を下げる少年をみて、爆笑に拍車がかかった。
明るく、ひょうきんで憎めない性格の少年は、クラスの人気者だった。八月の林間学校のキャンプファイアでは、広葉樹の葉をブリープに糊でくづづけて原始人のまねを、十二月のクリスマス会では、持ち前の体形を活かして相撲の土俵入りのまねを披露して、クラスメイトから拍手喝采を浴びた。

少年は、みなを笑わせるのが好きだった。みなの笑顔をみると、幸せな気分になれた。みなも、少年の余興が好きだった。催し事があるたびにクラスメイトは、少年の一挙手一投足に注目し、今度はなにをやってくれるのか、今度はどうやって笑わせてくれるのか、と、期待の眼を向けた。
少年も、みなの期待を知っていた。福豆を投げ返したのも、食べたのも、もちろん計算の上だった。

「平八郎っ、あなた、なにやつてるのっ!」
爆笑を、金切り声が引き裂いた。後方の引き戸に眼を向けていた、担任教諭を含めた七十四の眼線が黒板側の引き戸に吸い寄せられ、三十七の顔が瞬時に凍てついた。
少年は、恐る恐る、首を後ろに巡らせた。少年の顔も凍てっいた。充血した眼を三角に吊り上げた女が、髪を山姥のように振り乱し、机の海を無理やり掻き分けつつ、凄い形相で少年のほうへと歩み寄ってきた。

机の脚が床に擦れる不快な濁音と女の金切り声が、少年の両足を疎ませた心臓が氷結した。

「あなたって子はっ!!」
女の平手打ちが少年の頬を弾いた。水を打ったように静まり返った教室内に、パチン、という音が響き渡った。脳みそがバウンドし、視界に火花が散った。頬張っていた福豆を撒き散らし、少年は腰から崩れ落ちた。クラスメイトの悲鳴が、罅割れた少年の心に突き刺さった。
「ちょっと、あなた、なにをするんですっ」

我を取り戻した担任教諭が、女の前に立ちはだかった。
「そこをどきなさいっ、邪魔しないでちょうだいっ」
女が突き出した腕を、担任教諭が掴んだ。
「あなた、誰なんですか!!」

「平八郎の母親よっ!」
「……………」
担任教諭が、クラスメイトが、息を呑んだ。それも、仕方がない。

少年が三年生に進級した当時の母、佐代子は、担任教諭が、クラスメイトが知っている佐代子は、物静かで上品で、美しく若々しかった。
瑞々しく透けるように白い肌、絹の光沢を放つ黒髪、小作りな顔、切れ長の瞼の奥に覗く澄んだ瞳、野イチゴみたいに赤くふくよかな唇……。三十四歳の佐代子はどこからみても二十代前半にしかみえず、艶やかなスーツ姿もよく似合い、運動会の日に、授業参観の日に、クラスメイトや担任教諭の視線を一身に集めた。

僅か十ヵ月の間に、佐代子は変貌つた。化粧気のない肌は小繊に支配され、かさかさに乾き病的に青白くなり、光沢を失った伸び放題の髪には白髪が交じり、もづれた釣り糸のように絡み、眼は虚ろに宙を泳いで瞳に膜がかかったようになり、唇は黒紫に変色し罅割れていた。

どこからみても現在の母は十歳以上は老けてみえ、毛玉の浮いた鼠色のセーターに焦茶色のスカート姿というしみったれた格好に、まったく違和感がなかった。
変貌つたのは、容姿だけではない。
以前の佐代子は、いつも微笑を絶やさず、穏やかで優しく、決して声を荒らげることはなく、ケーキやクッキーを作り、食卓には食べきれないほどのご馳走が並び、寝る際には歌うように昔話を読んでくれた。

現在の佐代子は、いづもしかめっツラをし、短気で厳しく、すぐにヒステリックに怒鳴り散らし、菓子を作ることもなくなり、食卓には粗末な食事が並び、寝る際には気味の悪い祈りの言葉を耳もとで瞬くようになった。
少年には、佐代子の変貌の原因があの男にあることがわかっていた。
あの男佐代子が、メシアと呼ぶ男。

少年は、男に会ったことはない。だが、顔は知っている。居間にも、寝室にも、少年の部屋にも、写真立てに入った男の写真が飾られてある。
半年以上前に、佐代子の母、少年の祖母が病に倒れて病院に入院してから、男の写真が部屋に飾られるようになった。
「あ……お母様だったんですか……。しかし、なぜこんなひどいことをなさるんです?岡崎君が、なにかやらかしたんですか?」

十ヵ月前とはまるで別人の佐代子に戸惑い、動揺しながらも担任教諭は、黒縁眼鏡を中指で押し上げづつ、必死に平常心を呼び寄せ、冷静な口調で訊ねた。
「なにかやらかしたか?ですってえっ!?親に断りもなく勝手にこんな桿ましいことを子供にやらせて、なにかやらかしたか?ですづてえっ!?」
佐代子は口角から白泡を飛ばし、超音波の金切り声を担任教諭に浴びせつつ、詰め寄った。

「お、お母様、落ち着いてください。こんな桿ましいことって、節分の豆撒きをみんなでしていただけですよ」
担任教諭は両掌を広げて、胸前で、抑えて、のポーズを取りながら、小さく首を左右に振り、ブルドッグ並みの頬肉を波打たせて諭すように言った。
「豆撒きをしていただけえ!? 信じられない!信じられないっ!信じられないい−っ!節分なんて背教的な行事を無理強いしておきながら、よくもそんなに平然としていられるわねっ!こんな不道徳な人間が教師なんてやってるから、日本の教育は、いいやっ、日本はだめになり、悪魔に支配されるのよっ!?」

ローヒールの踵で床を踏み鳴らし絶叫する佐代子の首筋と額には、イモ虫のような太い血管が浮かび上がっていた。
悪魔に支配される、という佐代子の言葉に、クラスメイトがざわめいた。
「岡崎の母ちゃん、怖え〜」。「自分が、悪魔みたいだよな」。「豆撒きで、なんであんなに怒ってんだよ?」。
「岡崎が鬼役だから、怒ってんじゃないか?」。「はいきょうてきって、なに?」。「わかんないけど、きっと、節分が嫌いなんだよ」。「あんな、鬼婆みたいな顔だったっけ?」。「シッ、聞こえるぞ、馬鹿」。

ざわめきから、尻餅をついた姿勢で頬を押さえる少年の鼓膜に、ひそひそ話が雪崩れ込んだ。少年は、下唇を噛み、きつく眼を閉じ俯いた。頬に熱い液が伝った。
消えたかった。このまま空気中に溶け込み、消えてしまいたかった。
「お母様のおっしゃってることの意味が、私にはよくわかりませんが……」
「どこまでもぬけぬけとつ。もうっ、いいっ!あなたなんかと話してると、魂が腐敗するだけだわっ。そこを、どいてちょうだいっ!」

物凄い力で、右腕を掴まれた立ち上がらされた。眼を開けた。涙で霞む視界。担任教諭が、呆気に取られた顔で立ち尽くしている。ふたたび、佐代子の手が飛んできた。少年は両手で頭を庇った。佐代子の手は少年の頬を通りすぎ、片方の耳に輪ゴムでぶら下がっていた鬼の面をもぎ取った。
「こんなものっ、桿ましいっ!」

佐代子は充血した眼をカッと見開き、髪を振り乱し、鬼の面をびりびりに破くと床に放り捨てた。
「平八郎っ、行くわよっ」
なにか言いかけた担任教諭に背を向け、佐代子は、好奇と恐怖がブレンドした視線を注ぐクラスメイトを押し退けながら、少年を引き摺るように後方の引き戸へと向かった。いつの間にか、他のクラスの野次馬が廊下を埋め尽くしていた。

「どきなさい、どきなさいっ、どきなさあいっ!」
狂気の沙汰で喚き散らす佐代子−逮捕され、連行される犯人のように冥い表情で腕を引かれる少年。
少年は、神に祈った今日のことを、みなが、忘れてくれますように。少年は、神に祈ったあなたの名を駆る、メシアと呼ばれるあの男が、母を解放してくれますように。

家に連れ戻された少年は、邪悪な霊が体内に宿ったとして、愛の懲らしめを受けた。
愛の懲らしめ布団叩きで思いきり、尻を何十発も叩かれる。いままでも、愛の懲らしめを数えきれないほどに受けてきた。
「ジングルベル」を歌ったとき、テレビでマンガをみたとき、南無妙法蓮華経と冗談交じりに口走ったとき、尻がざくろのように赤紫に腫れ上がるまで、叩かれた。

愛の懲らしめを受ける理由は、わかっていた。「ジングルベル」は、悪魔の祭りを称える歌だから。テレビは、悪魔が語りかける機械だから。南無妙法蓮華経は、悪魔に祈る言葉だから。白目を剥き、修羅の形相で布団叩きを振り上げる佐代子の口から繰り返し、聞かされた。理由はわかっていたが、少年の幼心には、疑問符が渦巻いた。

なぜ、「ジングルベル」が悪魔の祭りを称える歌なのか?

なぜ、テレビが悪魔が語りかける機械なのか?

なぜ、南無妙法蓮華経が悪魔に祈る言葉なのか?

だが、少年は、疑問を口に出すことはしなかった。

疑問を口にすれば、愛の懲らしめがひどくなるからだ。
節分の豆撒きも、佐代子が言うには、悪魔の儀式、ということだった。少年は、いままでのように、「ごめんなさい。もう、二度としない」と涙声で謝った。
少年は知っていた。謝ることで愛の懲らしめがはやく終わることを、謝ることで佐代子が優しくなることを。

佐代子は、愛の懲らしめが終わると決まって少年を抱き寄せた。血が滲みミミズ脹れが幾筋も走る少年の尻を擦りながら、「お前のためだからね。お前を愛しているからだよ」と、涙を流した。
その瞬間だけ、少年は、あいつと出会う以前の佐代子の面影をみることが、優しかった頃の佐代子の匂いを嗅ぐことができた。
いっかきっと佐代子が、以前の 佐代子に戻ることを信じ、少年は、次々と沸き上がる様々な疑問を胸奥深くに封印し、激痛に耐え、愛の懲らしめを受け入れた。

しかし、中学校の国語の教諭である少年の父、洋一郎は、妻の行為を激しく非難した。野菜類と大豆類しか食卓に並べなくなった妻を、毎日のようにあいつのところへ出かける妻を、息子に手を上げる妻を、あいつの写真を部屋中に飾る妻を、非難した─毎日が、大喧嘩の連続だった。

「佐代子、この前俺が掃除したばかりなのに、なんだこのザマは?部屋の掃除や洗い物くらいしたらどうだ?家事もろくにしないで、毎日毎日お前は、なにをやってるんだっ。それに、今夜の夕食も鳥の餌か?生活費に渡している金を、布施だか寄付だか知らんが、わけのわからないことばかりに使って、どういうつもりだ!今日だって、職員室に平八郎のクラスの担任教諭から電話がかかってきた。日本がだめになるだとか、悪魔に支配されるだとか、おかしなことを言って平八郎を叩き、連れ帰ったそうじやないかっ」

神経質そうに動く黒目を室内に巡らせた洋一郎が、居間に立ち尽くし、少年とは対照的な細身の躰と薄い唇を震わせ、甲高い声で叫んだ。
その日の喧嘩は、節分の日の夜、仕事を終えて帰宅した洋一郎が、流し台に溜まった食器の山と食卓に並ぶ粗食を眼にして始まった。

洋一郎の言うとおり、あいつと出会ってからの佐代子は家事が疎かになった。食事が粗食になっただけではなく、六畳の居間四畳半の寝室、そして四畳半の少年の部屋には、挨が積もり、そこここに汚れ物の下着と食べ物のかすが散乱していた。

いつの日からか、各室内の掃除は洋一郎の、尿で便器が黄色く変色したトイレ掃除と、湯垢で浴槽が赤茶に染まった風呂掃除は、少年の日課になっていた。
「私はね、家政婦じゃないのよ。掃除や洗い物よりも、もっと崇高なことに時間を使いたいの。それと、なにか勘違いしてるみたいだから言っておくけど、野菜サラダと納豆のメニューは、献納のせいでも手抜きでもないわよ。なぜ、この世に犯罪がはびこっていると思う?」

佐代子がガラス玉の瞳で洋一郎をみつめ、無感情な声で訊ねた。洋一郎が、うんざりした表情で小さく舌打ちした。
少年には、洋一郎のリアクションの意味がわかる。

洋一郎に粗食を詰られるたびに、少年にパンバーグやカレーを食べたいとせがまれるたびに、佐代子が決まって口にするセリフを、いまでは暗調できるほどになった。
「ほら、ほらっ、ほらあっ!それよっ、それっ。そのイラついた態度は、忍耐力の欠落と自己中心的な自我の顕れよ。肉食は、魂の次元が低い動物にまで自分を駈めることになるのがわからない?動物は、本能のまま、欲望のままに動く。空腹になったら、目の前の餌にかぶりつく。その餌が、ほかの動物の餌だろうと、お構いなしにかぶりづく。餌を取られた動物が飢えていようが、お構いなしにかぶりつく。己の飢えを満たす以外には、なにも考えられない。己の欲望のために人を欺き、傷つけ、殺す。この世の犯罪者はすべて、肉食によって動物化した最たる例だわ。だからメシアは、野菜類と大豆類しか食べないのよ。私達も、メシアと一体化するには、腐敗しきった悪習を改める必要があると思わない?」

色白の洋一郎の顔が、みるみる朱色に染まった。

「ば、馬鹿馬鹿しいっ。肉を食べてる人間は、みんな犯罪者だって言うのか?学校に乗り込んで、豆撒きをやっていただけの子供を叩き、クラスメイトの眼前で教師に向かって毒.つくのが、そのご立派なメシア様の教えか?平八郎の身にもなってみろ。俺のクラスで、もしそんなことがあったら、その子には責任がないとわかっていても、どうしても、白い目でみてしまう。教師だってそうなんだから、子供達はもっと露骨な態度になるだろう。今日のことがきっかけで、平八郎がいじめの対象になったら、どうする気なんだっ。佐代子、いい加減に眼を覚ますんだ。お前は、そのメシアを名乗る詐欺師に騎されている。お前らを洗脳して、金を劣り取ることが奴の目的なんだ」

粗末な食事が並んだこたつ台を挟んで対侍するふたり能面フェイスの佐代子と、もどかしげに顔を歪める洋一郎を、少年は交互に見上げた。
自分を庇ってくれる、洋一郎の言葉が嬉しかった。

とりわけ、あいつを罵倒する言葉が心地好く鼓膜を撫で、少年は心で洋一郎にエールを送った。だが、その一方で、少年の心臓は激しく胸壁を乱打していた。少年は知っていた。単なる口喧嘩が取っ組み合いの大喧嘩になるときは、必ず、あることがきっかけになって いることを。あること─あいつにたいしての悪口。
「きいうわぁああああ一つ!!」
猿がひきつけを起こしたような奇声と、皿の割れる音が交錯した。こたつ台をひつくり返した佐代子は、畳に撒き散らされたサラダと納豆を踏み潰しつつ、洋一郎に突進した。
「や、やめないか、さよ……うわっち……」

軽量の洋一郎は、佐代子を受け止めきれずに呆気なく後方に倒れた−少年の眼前に倒れた。
「メシアヘの侮辱はっ、メシアヘの侮辱はあっ、赦さないっ!赦さないっ!赦さないい一つ”」
七三分けの髪を振り乱し、必死に抗う洋一郎の薄い胸板の上に馬乗りになった佐代子は大声で喚き、右から左から、何ダースもの平手を飛ばした。
口内が、砂漠並みに干上がった。制止しようにも、金縛りにあったように躰が動かなかった。少年は、凝固した眼球で地獄絵図を呆然とみつめた。
「メシアにたいしての侮辱を、取り消すのよっ、取り消すのよっ、取り消すのよっ、取り消すのよっ、取り消すのよっ、取り消すのよっ、取り消すのよおっ!」

佐代子は洋一郎の頬を叩くたびに、取り消すのよっ、を絶叫した。
「お、お前は、狂っている‘…−。やめろ、やめないかつ!」

洋一郎が、下から左腕を伸ばして佐代子の髪を鷲掴みにした。黒板を爪で引っ掻くような悲鳴を上げた佐代子の頭が、ガタン、と、右に傾いた。が、佐代子はなおも平手打ちを飛ばし続けた。少年の頬に、生温い液体が付着した−洋一郎の鼻血だった。

「やめないわっ!あなたにも、愛の懲らしめが必要よっ。あなたには、悪魔が輝いているっ、悪魔が惹いているうっ!」
佐代子の平手打ちが続いた。顔中鼻血塗れの洋一郎も左手で髪を引っ張り続け、今度は空いている右手を伸ばし、V字に立てた二本の指を佐代子の鼻孔に振じ込んだ─佐代子の鼻が豚のようにひしゃげ、鼻孔から青漬が溢れた。悲鳴とともに、右に傾いていた佐代子の頭がもとの位置に戻った一ごっそりと抜けた黒髪が、洋一郎の左掌に掴まれていた。

妻を狂人と罵る夫、夫を悪魔と叫ぶ妻−耐えられなかった。少年の眼前で繰り広げられる、大好きな父と母の、夫婦喧嘩の域を超えた凄惨な光景をこれ以上眼にするのも、耳にするのも、耐えられなかった。
少年はふたりに背を向け、こたつ布団を頭から被り、納豆がへばりつく畳に腹這いになった。瞼をきつく閉じ、両耳を塞いだ。

「メシアああ−っ、メシアああ一つ!メシアああ一っ”」「黙れ黙れ黙れえっ、このっ、きちがい女め!」
佐代子の絶叫が、洋一郎の罵声が、こたつ布団を、両掌を突き抜けて少年の耳に雪崩れ込んだ。

「あ〜あ〜あ〜あ〜あ〜あ〜あ〜あ〜あ〜あ〜あ〜あ〜あ〜」

少年は、耳を塞いだままの格好で大声を上げた。己の声を鼓膜内に反響させ、身の毛がよだつ罵声、怒声、絶叫を掻き消した。目尻から、涙が零れ落ちた。震える瞼の裏に、写真でしかみたことのないあいつの顔が浮かんだ。
あんたが本当に神様なら、以前の母ちゃんを返してっ心で叫んだ。

少年は、ゆっくりと、瞼を開いた。耳を塞いだまま、あ〜あ〜あ〜、と、声を上げ続け、こたつ布団から首だけ出して、恐る恐る振り返った。
相変わらず操み合うふたりを、箪笥の上から見下ろすあいつ。まっ白な服に身を包み、親指と人差し指で輪を作った両手を膝上に乗せ、胡座のようなポーズで座る写真立ての中のあいつ。

肩まで伸びた不潔そうな長髪、無理やり目尻を下げた瞼の奥に覗く鋭い眼光、柔和に綻ばせた、やはり不潔そうな髭に埋もれた口もと。
あいつの微笑−神の微笑とは思えなかった。

節分の日以来、少年は別人のようになった。明るくひょうきんな少年は陰気で無口になり、クラスメイトとの接触を避け、自分の殻に閉じ籠るようになった。
─岡崎君のお母さん、教室で包丁を振り回して暴れたそうよ。
─なんでも、制止しようとした先生の目玉に指を突っ込んだそうだ。
─ウチの母ちゃんが岡崎の家の近所の人から聞いたんだけどさ、夜になると奇妙な叫び声が聞こえてくるんだってよ。

教室に乗り込んだ佐代子の常軌を逸した言動に尾ひれがつき、学校中に噂が広がり、幼い者達の井戸端会議でおもしろおかしく脚色された噂話は、クラスメイトの父兄の耳にも入った。
接触を避けたのは、少年ばかりではなかった。みなも、少年との接触を避けた。教室で包丁を振り回し、教師の目玉に指を突っ込むような母を持つ子供との接触を、父兄達は快く思わなかった。

原始人や土俵入りのまねをした少年に向けられた爆笑が、いまでは、潮笑、失笑、愛想笑いに淘り替わった。
哀しかった、つらかった、淋しかった。学校だけが、憩いの場だった。笑顔を失った佐代子の代わりに、みなの笑顔をみることで、心のバランスを保っていた。ガラス玉の瞳になった佐代子の代わりに、みなの生き生きとした瞳をみることで、心の闇を取り除いていた。

だが、もう、終わりだ。優しくて美しい母を持つ、陽気で人気者の少年の仮面は剥がされた。十ヵ月がすぎ、少年は四年生に進級していた。クラス替えがなかったことが、少年を桎梏の状況に追い込んだ。担任教諭のよそよそしい眼、クラスメイトの好奇の眼。休み時間は、校庭で三角べ−スをする者達、教室内でプロレスごっこをする者達を横目に、独りで机にぽつんと座り、読書に耽った。
図書館で借りた夏目漱石や芥川龍之介の本だけが、少年を避けずにつき合ってくれた。
つい一年前まで楽園だった学校生活が、地獄に変わった。地獄は、学校だけではなかった。

節分の夜の大喧嘩以来、洋一郎は、裏で親戚関係や知人にいろいろと相談こそしていたものの、表立って佐代子の言動を非難することはなくなった。真意はともかく、洋一郎が静観することにより、佐代子の奇行は段々とエスカレートした。

佐代子は、あいつの写真の前で、あいづと同じポーズで座り、長いときは何時間もぶつ続けで祈るようになった。家にいるときの佐代子は、野菜類と大豆類の食事を作る以外の時間は寝室に引き籠り、ひたすら祈るだけで、歯も磨かなくなり、風呂にも入らなくなった。

ぼさぼさの髪には塩を振りかけたみたいにフケがへばりつき、ガラス玉の瞳には目やにが浮き、躰からは酸っぱい臭いが漂うようになった。
少年は連日、佐代子の、むぁ〜うぅ〜ん、むぁ〜うぅ〜ん、という不気味な坤きで目覚め、むぁ〜うぅ〜ん、むぁ〜うぅ〜ん、という坤きを子守歌代わりに眠りについた。

佐代子は少年にたいしても、午前四時、正午、午後八時に三十分ずつの祈りを強要した。断れば、愛の懲らしめが待っている。素直に従えば、いい子、いい子、と褒められる。迷うことなく少年は、佐代子に従った。

右足首を左の太腿に、左足首を右の太腿に乗せ、左右の膝上に軽く両手を置き、親指と人差し指で輪を作ったポーズであいつの写真の前に座り、深く息を吸い込み、息を吐き出すときに、むぁ〜うぅ〜ん、と、唱える。

佐代子が言うにはこの奇妙な言葉は、大宇宙を創造した唯一神へのマントラと呼ばれる祈りの言葉、だそうだ。そしてあいつは、悪魔に支配されつつある人間界を救うために人間の姿をして現れた、唯一神の化身だという。

「平八郎、よくお聞き。私達人間はね、メシアから生命を授かり、この世に生まれたの。目的は、メシアとひとつになるための魂の修行よ」
朝の祈りの以前、寝ぼけ眼の少年に、佐代子が諭すように言った。

「メシアとひとつになるって、どういうこと?」
鼻が曲がりそうな佐代子の口臭に耐えつつ、少年は、言葉を慎重に選びながら訊ねた。少しでもメシアを中傷するような質問をしたら、大変なことになってしままう。

「私達人間は、メシアの躰の一部なの。わかりやすく言えば、海と川の関係と同じよ。ひとつひとつの川は、それぞれの大きさで、それぞれの形で、それぞれのはやさで流れているけど、最終的には、海へと辿り着くでしょう?海と川は、一見別々にみえるけど、一体なのよ。海がメシアで、川が人間。海にきれいな水で辿り着くまでに、川には様々な障害がある。大雨で溢れたり、排水で汚染されたり、工事で塞き止められたり……。この世でたとえれば、肉が食べたい、お酒が飲みたい、煙草が吸いたいって誘惑、テレビをみたいって誘惑、お金を稼ぎたいって誘惑、あれがほしい、これがほしいって誘惑。私達人間の周囲は、魂を汚そうとする、メシアと一体になるのを妨害しようとする悪魔の誘惑で一杯なの。川が汚れなき澄んだ水の状態で海と一体になるためには、様々な障害を乗り越えなければならないのと同じように、人間が汚れなき きれいな魂のままメシアと一体になるためには、様々な悪魔の誘惑に打ち勝つ強い心が必要なのよ。ねっ?ねっ?わかるでしょ?平八郎もそう思うでしょ?ねっ?返事は?そう思うでしょ?ねっ?」

青白い顔色、痩せこけた頬、墨を塗ったような隈、落ち窪んだ眼窩、せり出した眼球鬼気迫る表情で両肩を掴んで揺さぶり、同意を求める佐代子の迫力に気圧された少年は、思わず頷いた。

ちっとも、わからなかった。肉を食べることが、お酒を飲むことが、テレビをみることが、お金を稼ぐことが、あれこれほしがることが、なぜ魂を汚すことになるのか、なぜ悪魔の誘惑なのかがわからなかった。
わからなかったが、少年は深く理解したふうを装い、「メシアって、立派な人なんだね」と、心にもないセリフを口にした。佐代子を欺く罪悪感に、あいつを褒めた屈辱に、胸が掻き宅られた。だが、佐代子に抱き寄せられ、胸に顔を埋め、温かい掌で背中を撫でられると、心地好い幸福感に包まれ、罪悪感も屈辱も一瞬のうちに消え失せた。どんなに醜く変わり果てても眼を閉じていれば、以前の優しい佐代子だった。どんなに狂気染みた言動でも素直に従っていれば、以前の優しい佐代子だった。

佐代子を畏怖し、愛していた少年は、いつしか、己を殺すことで、心を閉ざすことで、嘘を吐くことで、我が身を護り、母の愛情を受ける術を覚えていた。
「唯一の父、普遍の父、生きとし生ける物すべての父、ああ〜、メシアあ。あなたは光、我らの光、至高の光。我らは誓う、物欲に心惑わされぬことを。我らは誓う、悪魔の瞬きに耳を傾けぬことを。肉体も精神も魂も、すべてをあなたに捧げます。すべてを拠つことにより、あなたのご加護を受けることができ、真我実現を成し遂げることができます。ああ〜、メシアあ。あなたは光、我らの光、至高の光。我らは誓う−−−」

少年は、意味もわからないまま、睡魔が貼りつく眼を擦りつつ、佐代子の祈りの言葉をまねた。意味はわからなかったが、祈りの言葉を口にするたびに、胸がムカついた。もちろん、顔にも口にも出さずに、ひたすら祈った。
あいつから、母ちゃんを取り返してください─心で祈った。本当にいるはずの神に。

昼の祈り。正午の祈りの時間は、学校の給食の時間だった。あの事件以降、ただでさえクラスメイトに白い目でみられているのに、あんな祈りをやってしまったら、完全に変人だと思われてしまう、と、少年は思った。
しかも、その頃の佐代子は、少年が学校の給食で肉を食べないように、野菜類と大豆類で占められた弁当を持参させていた。少年が昼の祈りを無視して、弁当を汲取り式の和式便所に捨てたのは言うまでもない。

家に帰って、「メシアにちゃんと祈ったよ」、「弁当、おいしかったよ」と、佐代子に嘘を吐くのも言うまでもない。我が身を護るため、母の愛情を得るために嘘を重ねていくうちに、嘘にたいしての免疫ができた自責の念に、胸を掻き宅られることもなくなった。
洋一郎が佐代子に内緒で買ってくるコロッケやトンカツに貪りついたこと、佐代子があいつのところへ行っている間に洋一郎に連れて行かれた鮨屋で、大トロ握りを三人前平らげたこと。佐代子への嘘が、秘密が、あたりまえになった。

「平八郎。人間には、嘘を吐くことが思いやりって場合もある。いま、お前の母さんは病気なんだ。自分の言うことを聞いてくれなければ、哀しくなり、怒りたくなるって病気だ。だから、母さんに内緒でいろんなものを食べてることは、ふたりだけの秘密だぞ」

小岩駅近くの鮨屋で、ビールで赤くなった顔を少年に近づけて洋一郎は言った。家にあったウイスキーや日本酒は、少年のマンガ本とともに佐代子の手によってすべて捨てられた。酒類やマンガ本だけではなく、数日前には、どこも壊れていないテレビも粗大ゴミに出された。

最初の頃は激しく抗議していた洋一郎も、諦めたのか、喧嘩になるのを避けているのか、最近では、佐代子の奇行を黙認していた。「母ちゃんは、どういう病気なの?神様に祈るのが、病気なの?」

「平八郎、声が大きいぞ」

洋一郎は人差し指を唇に当て、黒目を落ち着きなく周囲に泳がせ、声を潜めた。そして、さらに声のボリュームを落とし、「神様ではない人間を、神様だと信じているのが病気なんだ」と、少年の鼓膜に絞り出したような掠れ声を送り込んだ。鼻孔を、洋一郎の酒臭い息が不快に舐めた。

この十ヵ月で、洋一郎も変貌つた。もともと細面の顔はよりいっそう頬がこけ、接着剤で固めた如く整っていた七三分けの髪は額に垂れ落ち、貼りつき、こめかみの生え際には白髪が目立つようになった。

 

 

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