献辞
昔、子供は子宝であった 瀬戸内寂聴
石原慎太郎さんと私は年齢は私がはるかに上だが文壇デビューがほとんど一緒だった。その頃の慎太郎さんは、実に爽やかな明るいハンサムな若者で、戦後の混乱の薄汚ない世相の中で、まぶしいくらい輝いていた。まさに光の君であった。
石原慎太郎の出現で、文壇ばかりでなく、世間がパッと明るくなった感じがあった。その慎太郎さんと私が突然接点を持ち、仲よくなったのは、その後書いたお互いの小説が、月評氏によって、こてんばんにやっつけられ、慎太郎さんの「狂った果実」と私の「花芯」は、ポルノ的で世間に媚びたと叩かれた時であった。
全くそれまでつきあいのなかった私たちは、ある夜、電話で話しあった。若々しい慎太郎さんの声が今でも耳に残っている。
「瀬戸内さん、ぼくの作品も、瀬戸内さんも決して悪くないよ。あんなわけの分らん奴の批評なんか無視しよう。ぼくは全集が出る時、必ずこの小説を入れるからね。瀬戸内さんもそうしなさい」
その声に、孤立無援だった私はどんなに励まされたことか。
それ以来、私は慎太郎さんのかくれシンパでありつづけた。
小説家としての才能を高く買っていたので、政治家になった時は心配したし、真実惜しく、政治家慎太郎は外の者でも代わりが出来るが、小説家慎太郎は代わりがないのにと思った。
政治の足を洗い、また小説家になった時、ホッとして喜んだ。ところがそれも束の間、また東京都知事になってしまった。これはもう宿命だなと思った。
選挙に出たと聞いた時、私は当選を確信していた。それは全身から発するパワーが、他の候補者とは全くちがっていたからである。
都知事になった慎太郎さんと深夜近く、何十年ぶりかで電話の対話をした。
私はおめでとうの挨拶の後で、
「基地より今、教育よ。教育やって」
と言った。新都知事の力強い声が返ってきた。
「おれもそう思うよ。今、教育だとも!」
この本は、実に隅から隅まで当り前のことが書いてある。どこにも奇をてらったところはない。この当たり前の常識や、良識や礼儀が、今の日本には根こそぎなくなってしまったのだ。
教育の荒廃が叫ばれて久しいが、先生も親も日々に荒れ狂う子供たちに何の施すすべもなく自信を失ってしまっている。
今年の成人式の新成人の目を掩いたい愚かな行動が報じられたが、情けなかった。
このままでは日本はやがて滅びるという日頃言いつづけてきた私の言葉が、いっそう重さを増した。こんな子供に誰がしたと叫びたい。子供を膜けられない大人が情けない。
子供を叱れない親や先生が情けない。
親や先生が、自分の人間としての生き方を振りかえり、生きる自信を取りもどさないかぎり、子供は益々、手に負えない怪物になってゆくだろう。
親は、教師は、今、何をなすべきか。この本はその鍵のすべてを手渡してくれる。戦後五十年をかけて、得体の知れない怪獣になりかけた子供たちを、昔の子宝として取りもどすのには、時間がかかる。しかしそれは、決して不可能ではない筈だ。一刻の猶予もない急務である。日本を滅したくなければ。
寂庵にて
二〇〇一年一月
前書きに代えて
目に見えぬものの尊さ
「このままで行ったらこの国は物で栄えて、心で滅びまっせ」
いまは亡き薬師寺の管長高田好胤さんが生前よく言っていた言葉ですが、当節の日本は本当にそんな体たらくになってしまいました。
援助交際などという得手勝手な言い分で都会の巷にくり出し、売春をしてはばからない女子中学生高校生たちに、彼女たちを補導した誰かが、「そんなことをして体を汚していると魂までが汚れてしまうんだよ」と説いたら、「魂って何なのよ、どこにあるのよ」と
問い返され、返す言葉がなかったなどという痛ましくも滑稽な挿話はもう茶飯のことです。
そんな実態を前にして、怒って答めなくてはならないのは、そんな風俗をくり広げている若者たちではなく、彼等を眺めて眉をひそめるだけの私たち大人自身に違いありません。
かつて日本を研究して正鵠を射た日本人論『菊と刀』を書いたルース・ベネディクトは、日本人の精神性の核に何よりも恥を忌み嫌う崇高さがあると記しています。
故にも、自らの恥をすすぐためには死を賭して切り死にする武士、凌辱を忌避するために懐剣で喉を裂いて死ぬ婦人の姿勢を彼女は「刀」に象徴させ、「武士は食わねど高楊枝」といった誇りへの固執の崇高さを、秋に香り高く咲く「菊」の花の清楚なたたずまいに誓えています。
かつての日本人を描く限りで彼女の挙げたそれらのメタプアーはいずれも正しいが、この現代、果たしてそれは現今の日本人たちに当てはまるでしょうか。
眺める限り菊は萎れきってしまい、刀は折れるに近く錆びつきてしまったとしか言いようない。
人間の物の所有への欲望を私は決して否定はしませんが、それはあくまで物を所有し、物を支配する人間の物神性を上回る精神性あってのことであって、物が精神をゆがめ、精神が物質に追従してしまうのは本末転倒以外の何ものでもありはしない。
国家という存在の最大の眼目である国民の生命と財産を国家こそが守るという国家の原理を否定して押しつけられた憲法に発した、アメリカの徹底した日本解体は見事に成功したとしか言いようありません。
有色人種の中で唯一近代国家の造成に成功し、その結果、白人が世界のすべてを植民支配しようという歴史的願望を挫折させた日本人は彼らにとってはまさしくエイリアンであり、そんな怪物を徹底して解体しつくすことを目的に始められた戦後の日本統治は、教育の解体に始まって、とうとう危険なエイリアンの日本人を、これまたがって人間の歴史に存在しなかった、見事なまでに自立性を欠いた異形な民族に変貌させてしまいました。
世界の先進国の中で、中流の家庭の子女が賛沢品が欲しいだけのために売春してはばからぬ国は日本以外にありはしない。そんな子供たちの風俗を東京の盛り場で取材した外国人のカメラマンの写真のキャプションに、「世界で最も豊かな、世界で最も不幸な子供たち」と記されていました。
私たちは「菊」を萎れさせ「刀」を錆びつかせてしまったことで、価値の機軸そのものを見失ってしまったとしか言いようない。
ジャイロスコープが狂い、地上での存在の機軸たる重心への鉛直という拠り所を失った飛行機がダッチロールの末に墜落してしまうように、自立性を欠いた日本という国家社会の蛇行はこのままいけば、日本に関わるすべてのアイデンティティを喪失し、民族の消滅に繋がっていくに違いない。
いま私たちに何よりも必要なことは、大人も子供もともに、物などに関わりない、物をはるかに超えた他の価値があるのだということを知りなおすことだと思います。
私はかつて『スパルタ教育』と『魂を植える教育』なる本を出したことがありますが、それから幾星霜を経たこのいまになっても、かつて私が記したことは決して間違ってはいなかったし、むしろ当時よりもいっそうその真実性を確かなものにしてきたと確信しています。
事象風俗としてずれてしまった項目は削り、この現代、新規に登場してきた問題について思うところを書き加え、さらに瀬戸内寂聴師のヒントでタイトルを変更しての出版を決心した次第です。
日本におけるキリスト教の伝道者の一人、賀川豊彦の書いたものの中に、「子供には叱られる権利がある」とあります。いい換えれば私たち大人には、たとえ他人の子供だろうと、社会人としては未熟な彼らを社会の先輩として時には叱る責任があるに違いない。
くりかえして申しますが、物を超えてもっと尊い、人生そのものをもっと豊かにはぐくむ、意味と価値あるものがあるのだということを子供に教えて伝える役割は、学校の教師たちではなしに、あくまで親であり周囲の一般の大人たちなのだということをも、このいま、私たちはもう一度自覚しなおさなくてはなりますまい。
二〇〇一年二月
石原慎太郎
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