「当りゃあいいんだ。当りゃあね」 それが、頭でなくてもいい。 腹でなくてもいい。 顎でなくてもいい。 拳が当るのなら、それは相手の肉体のどの部分でもいい。 当れば、そこを自分の拳は破壊する ─ そう信じている からこその象山の一撃であった。 手だろうが、足だろうが、腕だろうが、当ったところ を破壊すれば、それが勝負を決することになる。 自分の拳に絶対的な自信を持っている象山ならではの発想であった。 長編ハード・アクション待望の第12弾!
序章
1
男は、静かに文七の前に立っていた。 年齢は、五〇歳くらいであろうか。 出ていても、ひとつかふたつ。 短い髪をしていた。 眼は、思いの他、大きい。 中肉、中背。 身長は、一七五センチくらいだろう。 体重は、八○キロを割っているであろう。 ズボン。 シャツ。 そして、ハーフコートともジャンパーともっかな い、くたびれた上着を着ていた。 普通の親父− 大阪で、若い十代の男にからまれておろおろして いたあの親父とどこが違うのか。 丹波文七はそう思った。 肉は、ひきしまってはいない。 ゆるんでいる。 年齢のわりには、まだましな肉体といえるが、格 闘家として見た場合は、無駄な脂肪がつきすぎているかもしれない。 普通の親父と違うのは、こういう状況で文七と向かいあって、妙に落ちついているということだ。 呼吸も乱れていない。 静かに立ち、静かに文七を見つめている。 姫川源三と、男は名のった。 言われた瞬間に、文七の脳裏に浮かんだのは、姫川勉の顔であった。 あの姫川勉と同じ姓であった。 まさか!? 文七の脳裏に、身震いするような予感が疾り抜ける。 「姫川と言ったな」 文七は、掠れた、底にこもった声で問うた。 「言ったよ」 姫川源三と名のった男が答えた。 「姫川勉を知っているか」 「知らんね」 あっさりと、男i姫川源三は言った。 あの姫川と、似ているか、似ていないか−それを文七は眼でさぐろうとした。 眼のあたりや口元が、姫川勉と似ているかもしれないが、それは、見る方に似ているものを捜そうという意識があるからかもしれない。 もしも、名前も訊かずに姫屋に入ったとして、姫川勉に似たものを、この親父の顔から発見したろうか。 わからない。 しかし、この親父が、あの、剣を握った土方元を 倒したというのは疑いようがない。 「用件は?」 姫川源三は言った。 問われて、文七は言葉につまった。 用件は? 何のために、自分はここまでやってきたのか。 あの土方を素手で倒してのけた男がいる。 それを知ったからだ。 その時、 かっ、 と身体が熱くなった。 持つ人間が、武術の素養のない男だとしても、抜き身の日本刀を持っただけで、素手のどのような武術家よりも有利になる。腹さえすわっていれば、日本刀を握った人間は圧倒的な優位に立つことになる。日本刀とはそれだけの武器なのである。日本刀で切りつけられたら─ あるいは、突いてこられたら─ これにはどのような受けも存在しない。 素手の対戦者は、ただ、その刃に触れぬようにかわすことしかないのである。 それをやってのけた男がいた。 しかも、土方元を相手に ─ それだけで、文七は身体を熱くした。 逃げてしまう。 その話をした時、本能的にそう思った。 その男が逃げてしまう。 仮にも、その筋の人間の骨を折ってのけ、組長の女を隠したのだ。そこにどのような理由があるかはわからないが、いつまでも店にいられるわけもない。 自分であれば、逃げる。 それも、逃げるなら今夜だ。 そう考えた途端に、身体が動いていたのである。 今、ここでこの男を逃がしたら、もう、二度と会う機会はないかもしれない。 「恨みはない……」 文七は、切羽つまったような、乾いた声で言った。 「頼まれたわけでもない」 ゆっくりと、皮のジャンパーを脱いでゆく。 そうだ。 誰に頼まれたわけでもない。 金のためでもない。 この姫川源三という男が、何を使うのか。 柔術か。 空手か。 こちらの知らない古武術か。 とにかく、この男の身につけた術理が、あの土方を倒したのだ。 ならば─ この男の術理をもってすれば、あの姫川勉に勝てるのではないか。 少なくとも、小便を洩らさずに、あの姫川の前に 立てるのではないか。 土方元の白刃の前に立つのも、姫川の前に立つのも、その意味では同じだ。 どのような術理をこの男が持っているのかをさぐるには、自ら闘うしかない。 Tシャツになった。 寒さは感じなかった。 ジャンパーを、足元に脱ぎ捨てた。 「おれと立ち合え」 「立ち合えだと?」 「そうだ」 「何故だ」 「おまえの何が、あの土方を倒したのか、それを知りたい」 「おまえは、あの土方の何なんだ」 「ただの知り合いだよ」 文七は前に出た。 姫川源三は退がらなかった。 「あの男の仇でも討とうというのか」 「そんなに上等な考えは、持ち合わせちゃいないよ」 「ばかな」 「そうさ……」 文七は、ぼそりとっぷやいた。 「おれは、ただの馬鹿なんだよ」 唇の端を吊りあげた。 檸猛な笑みが浮いていた。 文七が、前に出てゆく。 「やればいいのか」 低い声で、源三が言った。 「ああ」 「わかった」 あっさりと源三はうなずき、自らも上着を脱ぎ始めた。 女の胸へぶつけるように上着を渡し、 「始めよう」 静かにそこに立った。 軽く、腹が出ている。 脂肪の重さが重力に負けて、心もちベルトラインから下に落ちぎみになっている。 強そうには見えない。 しかし、文七を前にして、この落ち着きようはただごとではない。 構えているような、いないような。 打撃を主体にしょうというのか、組み技を主体にしょうというのか、その構えからはどういう判断もできない。 浅く腰を落とし、両手を前に出している。 拳ではなく、掌だ。 「どうした?」 源三は言った。 「来ないのか」 文七は、とまどっている。 こちらから仕掛けた闘いであった。 だが、どうずればいいのか。 もしも、むこうがいきなりどこかに隠し持ってい る刃物でも使ってきたら─ 素手─ これは、文七の一方的な論理だ。 むこうが文七につきあう必要はない。 素手とみせて、いきなり刃物を出してきても、こちらに文句を言う筋合のものではないのだ。 むこうは、ヤクザに追われて、逃げようとしている最中なのである。 もし銃を持っているなら、それで文七を脅して逃 げたっていいのだ。いきなり、文七の脚に弾丸を撃ち込んで、そのあとゆっくり逃げたっていい。 余計なことを思うな。 腹をくくれ。 自分に言いきかせる。 つ、 つ、 つ、 と、文七が前に出てゆく。 普通、こういう時の戦法は、まず、蹴りだ。 ロー・キック。 それに合わせて、もしタックルに来るのならそれでいい。タックルを受けて、そのまま仰向けになって、膝で距離をとればいい。 しかし、自分が出すロー・キックはフェイントだ。 ロー・キックと見せて、顔面に拳を打ち込んでゆ く。 フットワークで、間合の前後を出たり入ったりす る。 文七は、それでタイミングを計ろうとした。 しかし、計れない。 源三は、文七の半分も動いてはいない。 浅く腰を落とし、左足を前に、右足を後方に。 左手が肩の高さで前に出て、その左手に添えるよ うに、右手を左右の側頭部が空いている。 こういう構えで打撃の勝負になったらどうする気なのか。 左足も、ロー・キックのいい標的だ。 フェイントをやめて、そこにおもいきりローを叩 き込みたくなる。 もし、土方とのことを耳にしていなければ、ため らわずにそうしていたろう。 もし、この男が本当に土方を倒したのなら、左足も、側頭部の空きも、誘いということになるのか。 この男、本当に強いのか!? タイミングを計りながら、文七はそう思う。 だが、踏み込めない。 さっきから、攻めるタイミングを計ろうとしているのだが、それが計りきれないのである。 微妙にタイミングが合わないのだ。 0コンマ何秒か、タイミングがずれるのである。 リズムの違いか、呼吸の違いか。 っ、 っ、 と足でリズムをとって、ローのフェイントをかけて、右拳を─ しかし、そのポジションがとれない。 この男が、わざと間合をはずしているのか!? 得体の知れないものがある。 覚悟を決める。 左右の足に、交互に体重を乗せながら、リズムをとる。 右足。 左足。 そして、次にまた右足に体重を乗せ…… ”今だ” 文七の身体が準備した時− 「やめよう」 姫川源三が言った。 姫川源三は、あっさりと、全ての構えを解いて動きを止めた。 「丹波くん。きみがやろうと言ったのだ。来ないのなら、行かせてくれ」 はずされた─ 文七はそう思った。 もしも、今、言葉を掛けてくるタイミングが、0 コンマ一秒でも遅れていたら、間違いなく自分は攻撃をかけていたろう。 そのタイミングをはずされたのだ。 何という男か。 文七は、答えなかった。 構えもそのままだ。 前に出てゆく。 「待て、丹波」 男が、後方に退がりながら言う。 かまうものか。 退がる男を追って、右のローを出す。 フェイントはやめた。 本気の蹴りだった。 姫川源三は、退がりながら、形通り左足を上げて 文七のローを受けた。 型になっている。 ローに合わせた右の。パンチが飛んできた。 それをかわす。 かわして、踏み込み、右のフックを姫川源三の顔面に叩き込む。 当った。 拳に手応えがあった。 男の左頬だ。 拳の勢いで、姫川源三の顔が、右横を向く。 がくん。 と、姫川源三の膝が折れた。 そのまま、地面に両膝をつき、棒のように男はぶつ倒れた。 「姫川さん」 女が駆け寄ってくる。 俯せに倒れている源三を、しゃがんで抱き起こす。 源三は、動かない。 源三は、文七の拳で意識を外にはじき出されてい たのである。 信じられなかった。 姫川源三が、こんなにあっさりとやられてしまうのか。 しかし、拳には、人の肉体を打った時の、確かな感触が残っている。 女の腕の中で、姫川源三が眼を開き、頭を起こした。 文七の拳が当った場所に左手をあてて、起きあがった。 「強いなあ、丹波」 姫川源三は、そう言った。 「おれの負けだ」 あっさりと、源三は敗北を認めた。 文七を見やり、 「これで気が済んだか」 源三は、微笑した。
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