だれが 『本』を殺すのか
 
  『本』悲鳴が聞こえる ! 活字離れ、少子化、出版界の制度疲労、そしてデジタル化の波・・・・・いま、グーデンベルクの巨大な地殻変動 未曾有の危機に、『本』が悲鳴を上げている !!  
著者
佐野信一
出版社
プレジデント
定価
本体価格 1800円+税
第一刷発行
2001/2/15
ISBN4−8334−1716−2

プロローグ

本の悲鳴が聞こえる!

『原色怪獣怪人大百科』

ノンフィクション作品を過去から現在にかけて書きっづけ、これからもおそらく書きつづけるだろうという意味でいえば、私は「作家」である。しかし、書く以上に多くの本を読み、ときには書評の仕事もするという意味からすれば、私は作家というよりはむしろ「読者」である。

さらに、もうはるか昔のことだが、何冊かの本をつくった経験に焦点をあてれば、「編集者」の要素ももちあわせているといえる。はじめて読んだ本のことはもうすっかり忘れたが、はじめて自分がつくった本については、不思議なことに、最初に書いた本よりずっと鮮明におぼえでいる。

一九六九(昭和四十四)年に大学を出てもぐり込んだ小さな出版社で私が最初につくった本は、子供向けの『原色怪獣怪人大百科』という文庫版の図鑑だった。当時、子供たちの間では「ウルトラマン」や「仮面ライダー」のジリーズが爆発的人気を呼んでいた。

だが、著作権関係の問題で両者のキャラクターを同じ本に収録することはできなかった。本の形がダメなら、一枚の紙に複数の怪獣を収録し、それを折り畳んだものを何十枚か揃えて箱に収納すれば著作権関係もなんとかクリアできるだろう。こんなインチキなアイディアから私の最初の本づくりがはじまった。

新宿の連れ込み宿の一室にこもりきり、隣室の男女のあえぎ声と哺語を聞きながら、「レッドキングの得意技は飛び蹴り」「バルタン星人の得意技は空手チョップ」などというウソ八百を書き並べていると、自分の心が冷え冷えとした石になっていくような気がして、酒をあおらずにはいられなかった。

この仕事のパートナーには、「怪獣博士」という異名をとっていた円谷プロの少年社員が頼もしい協力者としてついていた。それぞれの怪獣にスミで足跡をつけよう、というアイディアも彼からのものだった。酔ったままいいかげんに足跡のスミを塗っていると、「怪獣博士」から叱声が飛んできた。

「佐野さん、まじめにやってください。この怪獣の足跡にはちっとも重みがないじゃないですか!」私は思わずハッとした。あなたは斜にかまえて仕事をしているのかもしれないが、これを買う子供たちは小銭を握りしめて買いにくるんですよ。

そういわれたような気がして、仕事中酒を飲むことはそれきりやめた。これまで映画やテレビに登場したすべての「怪獣」と「怪人」を網羅したこの図鑑は、売れに売れ、百二十万部を突破するベストセラーになった。

それからまもなく私はその出版社をやめ、ルポライターを目指して修業時代に入っていくわけだが、編集者としてこの本をつくったときの気持ちだけは忘れないようにした。私はその後、読売新聞の正力松太郎や、ダイエーの中内功を主人公にした評伝を書くようになるが、考えてみればそれも『原色怪獣怪人大百科』の一変種といえなくもない。

本を「読み」、本を「編み」、そして本を「書く」生活にたどりづいた私にとって、「本」のない生活は、色のない絵画や味のしない料理のようなものである。私にとって最も身近にある「本」の世界を、私自身が手法にしてきたノンフィクジョンのかたちで書いてみたい。私のなかにそんな内的衝動が生まれ、いつしかそれが外にまであふれるようになった。
「本」はどこから来て、いまどこに居て、将来どこに行くのか。この本は私なりにたどりっいた「二〇〇一年『書物』の旅」である。

悲鳴に近い総括

読者のもとへ、本はどのような流れを経て届くのだろうか。まず、著者が書き上げた原稿を出版社(版元)の編集者が加工し、本が誕生する。この「新刊本」を版元が、いわゆる卸問屋である取次に渡すと、取次はそのネットワークを使ってこれを流し、店頭で読者が新刊本と対面する。

この流れを業界では、「新刊委託」と呼んでいる。新たに誕生した本は書店に届くまで「買われた」わけではなく、「委託された」かたちをとっているからである。そこでは、売れない本、売れないと判断された本は、川上の版元に返却される「返品」が常にっきまとう。

また別の流れもある。書店に読者が注文した場合、あるいは書店側が、「この本を置きたい」と版元に注文してきたときである。ここでは書店が相応のリスクを背負い、原則的には返品が許されない(ただ、現実にはこの原則は大きく崩れている)。

ちなみに「注文」と「委託」とでは決済の期限も異なることが多く、三者の取り分は、相互の力関係でかなり変わる。一例をあげると、版元が七〇パーセント(出版社卸正味)、取次が八パーセント(手数料)、書店が二二パーセント(マージン)といったケースがあるが、この比率は固定化しているわけではない。

さて、この「本」の世界が、かってない解体モードにさらされている。ここでいう「本」の世界とは、必ずしも出版社だけを意味しない。著者も取次も書店も、そして読者もこの解体モードの先に何があるかまったくわからない不透明感にとらわれ、強い戸惑いを隠せないでいる。

出版科学研究所の調べによれば、二〇〇〇年の取次ルートを経由した出版物(書籍.雑誌)の推定販売額は、二兆三千九百億円で、前年実績を三パーセント弱下回った。九七年が○.七パーセント減、九八年は三・六パーセント減、九九年が三・ニパーセント減だったので、四年連続のマイナス成長となった。

このうち書籍の売り上げは、対前年比二・七パーセント減の八千九百五十六億円と、九三年から六年つづいた一兆円を九九年に引きつづいて下回り、四年連続の前年割れとなった。出版不況という言葉がもはや常套句となっているような状況は、書籍の返品率に如実に表われでいる。

二〇〇〇年の書籍返品率は前年より○・三ポイント改善されたものの、依然、三九・五パーセントという高い数字を示している。二〇〇〇年の書籍新刊出版点数は六万七千点、これに重版、注文品を加えた書籍の推定総発行部数は十三億二千万冊だったから、単純に計算すると、二〇〇〇年だけで五億二千百四十万冊もの膨大な返品洪水に見舞われたことになる。

全国出版協会と出版科学研究所がまとめた『二〇〇〇年版・出版指標年報』は、冒頭の「九九年出版概況」のなかで、ほとんど悲鳴に近い総括をしている。
〈バブル崩壊後、長期化する不況は、失業率四・九パーセントにのぼる失業者の増大、所得の減少、消費支出は七年連続の実質減少と、先が見えない経済環境が悪化する中で、少子高齢社会の到来、インターネット、携帯電話、テレビゲームなどの新しいメディアの拡大と多様化、新古書店、マンガ喫茶の増大など、出版界をめぐる環境は大きく変化した年であった。

無駄なものは買わない、評判のいいもの、すぐに役立つもの、買って損のないものと、消費者のお金や時間の使い方も変わり、財布の紐はますます堅く出版物の需要も振るわなかった〉出版社の社員たちの間ではいま、寄るとさわると、某社が倒産するらしい、某々社の決算数字は粉飾らしいといったマイナス情報ばかりが飛びかっている。
定価販売でディスカウントが許されない再販制にずっと守られ、世の中のドラマチックな変化、とりわけ流通変革の荒波にもまれてこなかった大手版元が戦々恐々としている光景は、温室育ちの御殿女中が慌てふためいている姿にどこかダブって見えてこないでもない。

返品が自由の委託制に守られてきた書店も、当然のことながら出版不況の大波をモロにかぶっている。書店についての全国的な統計数字はないが、現在、全国には二万一千店あまりの書店があるというのが定説となっている。この二万数千店の書店がいま、いわゆる「パパママストア」といわれる零細書店を中心に、年間千店を超える勢いで廃業に追いこまれているという。

日本書店商業組合連合会(日書連)によれば、同組合に加入している書店は二〇〇〇年八月現在で九千三百十六軒を数えるが、九〇年時点では一万二千二百五十九軒が加盟していた。この十年で三千軒あまり、率にして約二五パーセントが店を閉じたことになる。

経営数字も厳しく、売上高に占める営業利益率は九三年からゼロコンマ台に落ち、九八年○・四九パーセント、九九年○・四六パーセントと、二年連続マイナスとなった。大手取次のトーハンが二〇〇〇年九月にまとめた「書店経営の実態」によれば、売上高伸長率は五年連続のマイナスとなり、経常利益率は過去最低となった。都内のある書店経営者は、「二万数千店ある書店のなかで税金を払える店は一軒もない」とまで断言した。

再販制と委託制によって強力にガードされてきた出版業界は、消費者のニーズに即して日々変化してきたわが国の流通状況のなかで、最も立ち遅れた領域に属している。「いくらで売ろうと勝手」と呼号し、メーカーから価格決定権を奪取する流通革命に挑んできた中内ダイエーが、それでも消費者の支持を失い、現在、いつ倒れてもおかしくない危険水域にはいっている。そのことを思うとき、出版業界の現状は、三周遅れのランナーが青息吐息で夕闇のグラウンドをトボト、ホ歩いている姿さえ想起させる。

 

日本映画産業の教訓

こうした深刻な状況から容易に連想されるのは、かつて一時代を築いた日本映画産業の急激な衰亡ぶりである。日本映画界がピークに達した一九五八(昭和三十三)年、日本全国には七千五百軒の映画館があった。

映画人口は十一億二千七百万人を数え、文字通り、娯楽の王者の座に君臨していた。それがテレビの普及に代表される新しいメディアの出現によって、あれよあれよという間に坂道をころげはじめ、五年後の六三年には半減となった。

九五年には二千軒を大きく割り込むまで低落してしまった。九五年の映画人口は一億二千七百万人と、往時の十分の一という有様となった。
出版社の晶文社出身で「本とコンピュータ」編集長の津野海太郎は、ト一八ン発行の「書店経営」に連載中の「活字のゆくえ」(二〇〇〇年八月号)のなかで、出版産業と映画産業との類似性について述べている。

津野はそこで、撮影所を出版社に、監督を編集者に、映画スターを作家や研究者に、映画館を各地の書店に、それぞれ置き換えた上で、上映作品を同一企業の系列館ですべてまかなってきたブロック・ブッキングジステムを、再販制と委託販売に支えられた現行の出版流通ジステムにたとえる卓抜な比楡を使っている。〈映画が映画産業に実質的に独占されてきたごとく、印刷された紙の本も、どんどん拡大する商業出版や流通のしくみと不即不離のしかたで発展してきた。

私たちは心身ともに、そのやり方になじんでしまっている。なんらかの出版産業ぬきで恒常的な出版をなりたたせるのは、いまはまだ不可能にちかいといわざるをえない。と、そのことをみとめた上でいうのだが、にもかかわらず、いまから三十年まえ、崩れるはずのない映画産業が、夢の工場群が、私たちの目のまえで、まことにあっけなく崩れていった。おなじもろさが、この上なく堅固なものと私たちが信じつづけてきた出版産業のうちにもひそんでいる。

すくなくとも、そう考える力をもっことなしには、この先、われわれはもう一歩もすすめないのではないか〉しかしここで私がいいたいことは、映画産業同様、重篤な症状に向かいつつある出版不況の未曾有の深刻さについてではない。なぜ出版界は、誰もがわかっていた構造的な制度疲労を放置したまま、今日の事態にたちいたってしまったのか。ここ数年来話題をまいているインターネットによるオンライン書店は、リアル書店の窮状を打破し、完全に目詰まりを起こした出版流通の降路を切り抜けるバイパスとなりうるのか。

インクのシミを印した紙の束ではなく、パソコンの画面上の情報をダウンロードして「読む」電子本や、絶版本などをデジタル化し、注文に応じて製本するオンデマンド出版は、これまでわれわれが頭から信じてきた「本」の概念をどこまで変えることができるのか。そもそも電子出版といわれるジャンルは、紙と活字に頼りきってきた出版メディアの状況を根底からくつがえすことができるのか。

映画産業とのアナロジーをここでもう一度もちだせば、一度死の淵までいった日本の映画界は、そのことを却って奇貨として古い映画産業の体質を食いやぶり、小品ながら佳作の名に値する作品を次々と生み出してきた。小品とはいいながら映画は製作費だけで最低でも一億円はかかる業界である。これに対し出版は、莫大な資金と設備を必要とする映画産業と違い、やろうと思えばひとりでもやっていける世界である。
さらにいうなら、従来の印刷や製本を必要としないデジタルな道具だてが急速に整備されつつある出版界の現状は、こうした状況変革への強力な舞台装置となろう。

 

巨大な地殻変動、「事件」の記録

IT革命なる官製のスローガンの尻馬に乗ってハシャギまわるつもりはさらさらないが、デジタル化の波が旧態依然たる世界に安住していた出版業界を震憾させ、激変させる力を秘めていることだけは、どうやら間違いなさそうである。いま出版業界は、デジタル化のうねりに激しく洗われ、ひと月もたたないうちに流通も消費のあり方も、何から何まで様がわりする大きな変革の時代に突入している。

活字情報の電子化は、これまでの「本」のかたちを根本から破壊し、まったく新しいコンテンツを生み出す可能性があるばかりか、従来の「本」の流通と消費のかたちも暴力的なまでに解体する。

われわれはひょっとすると、活版印刷技術を発明し、紙と活字の「本」の時代を切り開いたグーテンベルク以来の大変化の波頭の前に立っているのかもしれない。
「本」という商品には好むと好まざるとにかかわらず、現在の文化状況が反映されている。そればかりか、その本をいかに届けるかという流通の問題と、それをどう「読む」かという消費の問題が、他の産業分野とは比べものにならないほどありありと刻印されている。

豆腐はいくら電子化が進んでも消費者の許に直接届けることができないが、豆腐という情報は電子化によって消費者の許に瞬時に届けることができる。その意味で「本」の世界の現在は、ドラスチックな変貌をとげつつある金融の世界とよく似ている。こうしたことを踏まえでいえば、電子化時代を迎えた「本」には、われわれがどこからきて、どこにいて、これからどんな方向に進もうとしているかを指し示す過去と現在と未来の活断層が埋めこまれているといえる。

前にも述べたが、私はこの本で、いわゆる出版不況について書くつもりはない。それよりも、「本」をとりまく状況の変化を描くことを通して、われわれがいまどんな地点に立っているのか、私なりに記していきたい。それを状況論としてではなく、著者も版元も取次も書店も、自分たちが立っている地面ごと、どこかに滑り落としてしまうような巨大な地殻変動の、いわば「事件」の記録としてこれを書いていきたい。

「本」についてはこれまで、それこそ万巻といってもいいような書物が書かれてきた。しかし管見によれば、それらはややもすると「業界」本に偏ってきたような気がしてならない。編集者は編集のことのみを語り、出版流通の専門家は出版流通のことのみを語ってこと足れりとしてきたきらいがなかったろうか。

それは、それだけですんできた時代があったことの証でもあったろう。しかし、そうした牧歌的な時代ははるかに遠くに去った。いま「本」にかかわる者は誰でも、自分の意志があるなしにかかわらず、デジタル化の波に取り囲まれている。

著者も編集者も、デジタル化によって大きな変革期を迎えている出版流通の最低限の仕組みを理解しなければ、もう「本」をつくることすらできない。また書店を含め出版流通に携わる者は、オンラインとリアルを問わず、それぞれの「本」がもつコンテンツをいま以上に咀嚼して読者に提供することができなければ、グーテンベルク以来の大変化の波に呑みこまれるだけで終わってしまうだろう。

本書ではそうした危険を避けるため、著者、版元という最川上から書店、読者という最川下まで、「本」の世界をいわば串刺しにする構成をとった。それがあまりに複雑化した外在的要因によってほとんど視界のきかなくなった「本」の世界の全貌に光をあてられる唯一のアングルスポットと考えたからである。

出版クラッシュ、出版「敗戦」といわれるなか、本格的なデジタル時代の幕開けを迎えて、書店、取次、出版社、編集者はどう変わろうとしているのか。あわせて、これまで「本」の世界の文脈ではあまり取り上げられてこなかったが、高齢化時代に突入して今後ますます重要な位置を占めるものと予測される地方出版社の現状や、生涯学習との関係で飛躍的に役割の大きさをますであろう図書館の問題点、そして「本」の世界とは切っても切り離せない書評の今後の課題、さらには将来の「本」の一潮流となる可能性を秘めた電子出版や、オンデマンド出版の今後克服しなければならない点などについても、印刷世界のイノベーションの動向と重ねあわせながら報告していきたい。

これらのことをすべて概観した上で、それでは、版元−取次−書店という近代的出版産業システムによってつくりあげられてきた読者という幻想的存在は、今後どこに行こうとしているのか。かって「読書人」といわれた人々は、社会・人文系専門書を瀕死の状況に追いこんだ一因である商業出版の猖獗によって、さらには、こうした動きを倍速させる恐れがないわけでもないデジタル出版の台頭によって、単に「消費者」と呼ばれる存在になっていくのだろうか。

最終章では、出版界の大転換という「業界」的な問題意識を超えて、「本」の世界の歴史的変動を日本の社会そのものの大きな質的変化の指標ととらえ返し、そのなかで、「本」の送り手である著者と、「本」の受け手である読者が、自分の座標軸をどこに求めようとしているのかを、私なりに考察した。

かつて読書家といわれた人々の許に「本」は届いているだろうか。そして「本」というメディアの異変はわれわれをどこへ連れて行き、どんな世界をみせようとしているのだろうか。

 

 

・・・・続きは書店で・・・・

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