あるく魚とわらう風
 
  あるく魚とはおれのことだ!おとなしく水の中にいられず、陸に上がって大騒ぎ!  
著者
椎名誠
出版社
集英社文庫 / 集英社
定価
本体価格 619円+税
第一刷発行
2001/2/25
ISBN4−08−747290−6

 

あるく魚─というのはおれのことである。

水の中にゆっくりしていればいいものを陸にあがってきてうろつき回り、息ぎれしてアップアップしている。

(あとがきより)

小説を書き、映画を撮り、焚火を囲み、酒を呑む。東奔西走、八面六胃、“慌ただしいドタドタ人生”を送る超人シーナ。

その1995年から96年の1年半を記録した驚異の日記。

あまりのパワフルさに絶句する毎日を、本人撮影の写真多数を添えて公開!

 

五月二十九日

夕方七時から六本木「べ−レとで新春会。映画評論家の白井佳夫さんをかこむ会で、白井さんの担当編集者、新潮社と文蘂春秋の編集者が最初に集まってつくった会なので”新春会”という。だんだんだんだんその関係者が広がり、いまでは多くの映画ジャーナリストの集まりの会になっているようだ。その日はぼくがゲストで、『白い馬』についてのみなさんの映画を観た感想などを聞きながらビールを飲み、ドイツソーセージを食べるという、まあ少々コワイけれどもそれなりに楽しい会であった。

五月三十日

六時半に荻窪の「源氏」という店に行って、漫画家の東海林さだおさんと対談。サントリーのPR誌「サントリークォータリー」用の対談で、まあ特に大きなテーマはないけれども、酒やその周辺についての話をしょうというようなもの。「サントリークォータリー」編集長の谷浩志氏が来ている。彼は「いやはや隊」のメンバーでもあるからしょっちゅう顔を合わせていて、まあなんとなく仲間内の酒飲み会の延長というような感じもあるから、気楽な対談であった。東海林さんとはここ十五、六年、なんとなく人生の節目節目で会って、面白い対談を続けている。

東海林さんと話をすると、ウマが合うというかテーマが合うというか、感覚、気分が合うというか、ともかく話をしていて思わぬ方向に楽しく発展していくので面白くてたまらない。二時間ぼど生ビールや焼酎を飲みながら気分よくいろんな話をして、タクシーで家まで帰った。家に帰ると、チベットに行っている妻からの手紙が来ていた。彼女が日本を発ったのは四月の十五日だから、もう一ヵ月半ぼどになる。バガキは約一ヵ月前のものだった。とりあえず一ヵ月前までは無事に元気でいるのだナア。

五月三十一日

遅い午後の新幹線「のぞみ」で、名古屋に向かった。名古屋市民大学の講演。名古屋はこの夏に『白い馬』のコン.ハットツアーがあるので、この市民大学の講演はそのプロモーションも兼ねて引き受けた。大きな会場に超満員のお客さんが来ていた。テーマは「草原に生きる民族と島国に生きる民族」。つまりモンゴル人と日本人のことについて思うところを話した。講演が終了して名古屋城のそばにあるホテルナゴヤキャッスルヘ。

ここは数年前に一度来たことがある。ひっそりとしていてありがたい。落ちついて部屋で原稿仕事をした。夜十一時ごろまで原稿を書き、一段落したので、さあ何か飲みながら食べるか、と思ったけれど、もうホテルのお店はぼとんど終了していてどこもやっていないようだ。しかしルームサービスでしけたスパゲッティとかそんなようなものを食べるのもしゃくなので、冷蔵庫のビールを三本ほど飲んで、テレビを見ながら寝てしまった。

六月一日

早朝五時に起きてしまった。いつものようにシャワーを浴びて、軽く運動をして、昨日の原稿の続きを始める。外はよく晴れていて、気分のいい風が吹いている。チェックアウトを少し早めにして、お城の周りを一時間ほど散歩した。お堀に大きな魚がたくさんいるようで、歩いていくとあちこちでジャブジャブと跳ねる音がする。お堀のそばの柵に、中学生ぐらいの女の子が一人しょぽんと座って水を眺めていた。

今日は平日なのでもう学校に行く時間だろうに何をしているんだろうな、というようなことが気になったけれど、女の子なので下手に声を掛けたりすると怪しまれるかもしれないから、まあそのまま水に飛び込んでしまうなんていうこともないだろう、と思いながら通過。少し行くと、ホームレスの人が二人、柵のところに寄りかかって、しきりに何か話をしながらヒナタボッコをしていた。六月といえどもまだ朝なので、太陽のぬくもりが嬉しい。また少し行くと、お堀のぼうに向かって警官が一人、耳に片手をあてて立っていた。片手をあてた耳のところにはどうもイヤホーンがあるらしい。今日はいろんな人がお堀の方向を見ているようだ。

十時五十分の新幹線で大阪へ。新大阪からすぐに、いつも泊まっているロイヤルホテルに向かった。ロイヤルホテルから昨日送れなかった原稿をファックスで送り、東京からのファックスの連絡を受け取る。野田知佑さんと会い、いろんな話をした。八月に彼はモンゴルのト⊥フ川のカヌー下りをしたいといっている。

六月二日

六時に起きてスバヤク支度。七時にタクシーに乗っかって、ABC放送へ。今朝は道上洋三さんがパーソナリティーの番組に生の出演をする。テーマは『白い馬』についての話。早朝の放送局はガランとしていて、そこで働いている人たちもなんとなくみんなネムタそうである。番組が終って外に出ると、女の人が三人ぼど出入口のところにいた。ラジオの番組を聞いてやってきたのだという。なるぼど、生放送だから終って出ていけば本人がいるわけで、なかなかスルドイことである。サインをして新大阪駅へ。東京駅に十二時半ごろ戻り、そのままホネ・フィルムヘ。

マガジンハウスの平沢さん、「海燕」の佐藤さんなどと打ち合わせ。夕方六時三十分に銀座の「キュリオ」に行く。ここでは銀座にちなむ人びとのシリーズの講演会があって、ぼくはその第四回らしい。ぼくの前は村松友覗さん、その少し前は古今亭志ん朝さん。みんなそれぞれ銀座に仕事場や思い出の場所を持っている人たちらしい。このキュリオがそれぼど大きくない会場なので、百人ほどを前に話をするのだけど、最前列の人がもうニメートルぐらいの距離にいる。どうもなんだか集団面接をしているようでヘンテコな気分だった。

六月三日

土曜日。お昼の十二時から二時間、銀座の教文館でサイン会がある。これは出たばかりの「アサヒカメラ」の増刊『椎名誠写真館』のためのもの。五日ほど前に教文館の中村社長から電話があって、この本についてのサイン会をやってくれないか、という頼みだった。教文館の中村社長には「本の雑誌」でずいぶん世話になっていて、何かといえばいろんな協力をしてもらっているので、これは頼まれたら嫌といえない話だ。

そこで、いいでしょう、ということになり、すぐ朝日新聞社の堀瑞穂さんに連絡。このサイン会の告知が本の新聞広告に間に合った。朝原稿仕事があったので少し手間どって、着いたのは本当に十二時一分前くらいだった。もう銀座通りにはたくさんの行列ができていて、教文館のお店の前に置いてあるテーブルでサインを開始。たくさんの人が通っているところでサインするので、これはなかなかきびしいサイン現場である。

ぼくのそばにマイクを持って呼びかけているお兄さんがいて、このお兄さんがとどまるところをしらずこのサイン会の宣伝をするのだがどうもバズカシかった。まあそのなかでも次から次へとたくさんの人が並んでくるので、とにかくわき目もふらず一心にサイン。二時間で五百人ほどのサインをした。右手がかなりくたびれたけれど、でもまあ土曜日なのにこんなにたくさん来てくれたわけだから文句もいっていられない。終ってすぐ東京駅へ。新幹線に乗ると、すぐ隣が弁護士の木村晋介。

通路を隔てた隣がイラストレーターの沢野ひとし、本の雑誌社社長の目黒考二。四人で名古屋へ。このところ「本の雑誌」の創刊二十周年を記念した「全国の読者に会いに行く公開座談会」というのを週末に続けていて、今日は名古屋ういろう編。名古屋に到着した後すぐに名古屋公会堂へ。ここで公開座談会。会場に行く前に誰かからういろうをもらったので、このういろうを食べながらとりあえずは名古屋のいろんな食べ物について話をする。それから全国のいろいろな名物といわれるものの検証とかいうようなことについて話をしていった。

六月四日

ホテルの一室に十一時頃集まり、みんなで「本の雑誌」用の発作的座談会を始めた。テーマは、ふたつの異なった言い方をする言葉の意味をみんなで研究するという話。たとえば「後退する」と「退く」とはどう違うのか、などということを侃侃諤諤と、まあいつものようにぼとんど確証のない話をする。しかし、面白かった。一時間半ぼどメシを食いながら話をして、すぐみんなでタクシーでその日のサイン会場の千種書店へ行った。名古屋も大勢の人が集まっていて、四人揃って約二時間、せっせとそれぞれの本にサインをした。それからタクシーで駅に向かい、「山本屋」の名物味噌煮込みウドンを食べる。ここには生ビールもあるのでタイヘンよろしい。生ビールを飲みつつ鮫子ニンニクを肴にしつつ「名古屋コーチン入りとはいえ一杯千二百円もする名古屋味噌煮込みウドンはタダシイのか」というような話になった。それから新幹線に乗って東京へ。新幹線に乗ろうとすると、アグネス・チャンがいて、木村晋介と挨拶。木村晋介は芸能界にひじょうに顔の広い弁護士である。眠りつつ一路東京へ。

六月九日

自宅で一日中原稿書き。エッセイを一本、小説を十枚ほど書き進める。

六月十一日

朝、羽田にクルマで向かう。ヒコーキで福岡へ。木村晋介、沢野ひとし、目黒考二、いつもの連中と同行である。今日は「本の雑誌」の二十周年記念の全国公開座談会の旅の最後の回、福岡編である。二時間ほどぶっつづけで五百人近い人にサインをした。

六月十二日

朝、空港で沢野や目黒たちと別れ、八時四十分の福岡発のヒコーキで鹿児島へ。鹿児島で一時間ちょっとのトランジット。十時五十分のヒコーキで奄美大島へ。奄美大島の空港には、カメラマンのタルケンこと垂見健吾と、「SINRA」の編集者齋藤海仁が待っていた。すぐさま三人でタクシーにて名瀬の港へ。

奄美大島の空港から小一時間かかる。どんどんどんどん南下していくのである。まだ梅雨前線が残っているので海は荒れていて、その日の予定の船は出ないことになった。我々はこの日から三泊四日のスケジュールで吐葛喇列島の宝島に行くことになっている。宝島は昔からぼくが行きたかった島のナンバーワンで、もうかれこれ二十年くらい前から吐葛喇列島の宝島と騒いでいたような気がする。吐葛喇列島には十二の島があって、そのうち宝島はもっとも南のほうにある島で、人口は百五十人前後のところである。

まあしかし船が出ないのではしようがないので、三人でぶらぶら歩いて行くと、うまそうなラーメン屋があった。「一番館」というラーメン屋で、ここは鹿児島文化圏らしくとんこつスープの店である。久々にギョーザライスラーメンというまるで学生のような三点セットを食べることにした。しかしこれがまことにまことにおいしい。奄美シーサイドホテルに投宿。そこはひじょうに古いホテルで、外側から見るといかにも泊まりたくないナア、というような感じのところだった。部屋に入ってちょっと一休み。

何もやることがないから夕方からみんなで町に行っておいしいビールでも飲もうかということになった。そこでこのホテルの中にあるサウナに入ることにした。ここのサウナはラジウム温泉サウナというあまり聞いたことのないサウナで、中に入るとサウナの中央で熱湯がごぼごぼと噴き出ている。全体に黒光りするくらーい室内で、中はたくさんの水滴がついていて、湿度百。パーセント近い猛烈な湿っぽい暑さの部屋であった。

普通サウナだと中がからからに乾燥しているものだけれども、ここは熱湯で温めるサウナのようであった。なんとなく不気味な感じがしたけれど、中の空気が熱く湿っているので、乾燥しきった普通のサウナよりは呼吸するのが楽である。しばらくしているとものすごい勢いで汗が噴き出してきた。五分ほど汗を噴き出させて、それから水風呂へ。サウナっていうのはこの熱いところがら水風呂に入ったところの気持ちがなんともいえない。

サウナで一番人生のしあわせを感じるのは実はこの水風呂に入った瞬間であると.ぼくは思っている。この熱湯ぬらぬら状態のサウナに三十分ほど繰り返し繰り返し入っていると、何か全身がもうクタクタのフワフワのグラグラの、もうどうでもいい状態になってしまった。外に出て座っていると、血液の流れで全身がグラグラ揺れてるような気分である。ゆっくり身体を乾かし、そして三人で町に出た。町には「網元」という大きな割烹居酒屋があって、その前になんとうれしいことに「カツオ刺身」の看板が出ている。生ビールもある。生ビールとカツオがあればぼくは人生に文句はないのであった。

ただ難点は、この奄美地方のお醤油である。南九州からこっちのお醤油は甘口が主流で、この砂糖を入れたようななんとも甘ったるい醤油とカツオが似合わないことおびただしいかぎり。江戸前のピリッとからい醤油で食べたいなあと思いながら、しかしこのあたりには関東醤油は全くないという話であった。この他クエの刺身、地蛸の刺身、地鶏の焼き鳥などが絶品。

しこたまビールを飲み、そして最後は島焼酎を飲んで、かなりいい心地になってホテルへ帰り、そのままぶったおれた。どうも考えてみると、ぼくは旅に出るとこういうことを繰り返しているようである。

六月十三日

朝起きてすぐ空を見た。さいわい青い空が見える。雲の動きは結構速いが波は昨日より鎮まっているようなので船は出そうだ。船は名瀬市が持っている高速船であった。約二時間半で行ってしまう。宝島は結構山の大きな島で、荒波のなかにぽつんと浮かんでいるという感じである。

岸壁に民宿「トカラ荘」のおやじが待っていた。このトカラ荘のおやじは八ブとりの名人で、牛の放牧と民宿経営と漁業とバブとりで生計を立てているという、離れ島版マルチビジネスマンでもある。トカラ荘は二階建て、ちつちゃな部屋が十ほどある民宿で、我々が通された部屋は東側の海に面した部屋であった。窓を開けると目の前に大きく広がる東シナ海が見え、まことに文句のない眺望である。宿のおばさんがさつそくお昼ゴ八ンを用意してくれた。

お昼ゴバンはカレーライスであった。われわれのぽかに工事関係の男たちが五、六人、それから釣りクラブのおじさんたちが五、六人投宿している。みんなでいろんな話をしながらカレーライスを食べる。初めて会った人たちもこういうところではすぐうちとけるので気持ちがいい。食後、みんなでぶらぶら町の中を歩くことにした。島の中に一軒あるスーパーは、朝一時間夕方一時間しかやらないという店だった。

カード式電話はそのスーパーの隣に一台あるだけである。そこで電話をし、東京の事務所などに、いま島に着いたことを報告した。すると雨が降ってきた。ものすごい雨である。だいたい離れ島の雨というのは強烈なのが多いけれども、本当にバケツをひつくり返したような雨だった。歩けなくなってしまったのでしばらくそのスーパーの隣で雨宿りをした。この島はバブが多いところで、人口百四十七人だが八ブは推定五万匹くらいいるのだそうである。

バブが出てくるのは夜で、だから夜は懐中電灯を持って歩かないと危険だという話である。夕飯は島の親父が獲ってきたカツオだった。しかしこの宿屋もやはりあま一いあま−い奄美大島よりももっとあま−いお醤油なので、せっかくのカツオがどうもくやしい。焼酎を飲んでそして夢話をしつつやすらかに眠った。

 

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