姫椿
 
 
  忘れないで、誰かがあなたを見守っている。凍てついた心を優しく包む八つの物語。  
著者
浅田次郎
出版社
文藝春秋
定価
本体価格 1429円+税
ISBN4−16−319830−X

1

桜の咲いた日、リンが死んだ。首輪も餌鉢も遊び道具もみな棺桶に入れて焼いてしまったのは、かたみの品を手元に残すのが辛かったからなのだが、供養をおえて寺を出たとたん鈴子はそのことを悔いた。郊外の桜並木は夕空を被って、まっすぐに駅まで続いていた。たったひとりの家族を喪ってしまった。この悲しみを誰にうちあけても、同情はされまい。きっと人は、たかが猫だと笑うだろう。二人きりで過ごした九年間の暮らしを、つぶさに見ていた人は誰もいないのだから仕方ないが。リンはその名の通り、鈴子の分身だった。九年前の冬の夜に、迷ったのか捨てられたのか、マンションの前の路地で鳴いていた。

風邪をひいて両目が脂につぶれ、痩せこけた体を懐わせて母を呼んでいた。部屋に連れ帰ってもたぶんもたないだろうと思っていちどは立ち去ったが、鳴声が耳について離れなかった。その夜から、鈴子とリンとの九年間の暮らしが始まった。獣医が言うには、ドライフードに含まれているマグネシウムが小さな体の中に蓄積して、腎臓を壊してしまったのだそうだ。楽にしてあげましょう、と獣医が口にしたとき、鈴子は頭の中が真白になって、診察台からリンを奪い返した。二軒目の動物病院でも同じことを言われた。それから三日間会社を休んで、鈴子はリンの末期を看取ったのだった。尿毒症を起こして苦しみ続けるリンを胸の中に抱きながら奇蹟を待った。

三日目の朝方、息が荒くなり、手足が棒きれのように硬く冷たくなり、ひとしきりつらい息を吐いてリンは死んでしまった。ドライフードを与え続けたのは、リンの好物だったからだ。他の餌にはあまり興味を示さず、ドライフードと水さえあればリンはいつもご機嫌だった。煙草のパッケージにだって「あなたの健康を損なうおそれがありますので吸いすぎに注意しましょう」と書いてあるのに、ドライフードの袋にはどうして何の説明もなかったのだろう。桜並木を歩きながら涙が渇れてしまうと、怒りが滾ってきた。自分はそうとは知らず、リンに毒を与え続けていたのだと思った。リンを殺してしまった。

動物寺のお坊さんは、泣きくれるたったひとりの縁者にやさしく諭してくれた。寿命ですよ、と。猫の年齢は人間の四倍に勘定するのだから、この子は決して短命だったわけじゃないんですよ、と。しかしその言葉は慰めにはならなかった。三十六歳という年齢が寿命であるはずはない。そして、生まれたての仔猫だったリンは、いつの間にか鈴子の年齢を追い越していた。駅前は塾帰りの子供らで賑わっていた。寺からの長い道を、とぼとぼと一時間もかけて歩いてきたのだった。どうしても駅の改札をくぐる気になれず、鈴子はたそがれの沿線をまた歩き出した。リンのいない部屋に帰りたくはなかった。

マンションまでの一駅を歩くうちに、いくらかでも気持を切り換えなければ。鈴子が線路ぞいの小さなペットショップの前に立ち止まったのは、春の日がすっかり昏れなずんだ時刻である。通勤電車の窓から毎日眺めているはずなのに、なぜかその店には見覚えがなかった。新しく開店したのだろうか。それにしては店先の造作が古ぼけている。闇ににじむネオン管を見上げて、鈴子は驚くよりも悲しい気持になった。「リン、だって……」偶然にしてもひどすぎる。くすんだショウ・ウィンドウに、ローマ字の筆記体で店の名がそう書かれていたのだった。「いらっしゃい」 仔犬の眠る籠の奥から、痩せた老人が顔を覗かせた。

「ただいまセール中です。何でも二割引。ペットのお値段は相談しましょう」「いえ、そうじやないんです」と、鈴子はあわてて手を振った。「お店の名前が、うちの猫と同じだったから」「ああ、そう。リンちゃんかね」生温い春の宵だというのに、老人は革のコートに灰色の厚いマフラーを巻いていた。「だったら、キャットフードがお買得だよ。全品二割引。ドライは置いてないがね」え、と鈴子はショウ・ウィンドウの中に無造作に積み上げられた餌の山を見渡した。「どうしてドライは置いていないんですか」「そりゃあんた、あれは毒だからね。マグネシウムが添加されているから、長い間には腎臓を痛めちまうのさ。ありゃだめだ。

毛並なんかは良くなるけどね」「やっぱり、そうなんですか」老人はにっこりと笑いかけて、鈴子を手招いた。店内はやさしい獣の匂いに満ちていた。「何と言っても猫には白いごはんが一番。カツブシにチリメンジャコか海苔を足してね、ごはんに混ぜる。面倒ならばフレークの缶詰でもいいが」「でも、うちの子はドライが好きだから」思わずそう口にすると、リンがまだ生きているような気がして、胸が軽くなった。「だめだめ。メーカーは猫の体のことなんて考えちゃいない。ともかくガツガツと食べてくれる餌は売れるからね。人間だってほら、うまいものはたいがい体に毒だろう」それにしても色気のない店だ。壁にはぎっしりと籠が積み上げられ、おとなしい仔犬や仔猫が眠っていた。店の前を通勤電車が走り抜け、窓の明りが壁を染めても、犬や猫は少しも驚かずにじっと体を丸めて鈴子を見ていた。リンは性格の穏やかな猫だった。毎日ひとりぼっちで留守番をしていても、決していたずらはせず、部屋を汚すこともなかった。鈴子がただいま、とドアを開けると、いつも靴箱の上に座って出迎えていてくれた。

「お嬢さん、動物が好きだね」「はい。大好きです。もう、お嬢さんっていう齢じゃないけど。しっかり行き遅れてます」「動物好きの人は目付きでわかる」「目付き、って?」よ。子供とか恋人とかを見るみたいに、動物を見る」老人は籠の中を見入る鈴子の横顔を覗きこみながら、おかしそうに笑った。「リンちゃんのせいで、行き遅れたのかな」無躾な言い方には聞こえなかった。言われてみれば、そうかもしれない。何しろ九年の間、外泊をしたためしがなかった。リンをペットホテルに預けて旅に出ても気が気ではなかったし、デートはいつも早々と切り上げて帰った。そんな暮らしが二十五の齢から九年も続けば、縁遠くなるのも当り前だ。「おじさん、私ね、リンしか家族がいないの」「今どき珍しいんだけど、施設で育ったから」めったに他言しないことを口に出してしまったのは、この店の温かな匂いのせいだろう。

「リンちゃんと同じ境遇ってことか」「そう。捨て猫よ。おたがい身寄りがないからね、うまくやってきたの」老人はふっと溜息を洩らしてから、静かな声で咳いた。 「ああ、そういう話はいいよ。愚痴は聞いてやってもいいが、話すほうは辛くなる・・・・ところで、もう一匹いらんかね」いらないわ、と言いかけて鈴子は唇を噛んだ。リンのかわりはいらない。「犬は?」鈴子はかぶりを振った。籠の中の犬や猫はどれも可愛いが、とても連れ帰る気にはなれなかった。老人に嘘をついていることが辛くなって、鈴子は膝を抱えた。「おじさん、私ね、リンを殺しちゃったの。毎日毎日、マグネシウムの入ったドライフードを食べさせて」べつだん驚くふうもなく、老人は鈴子の悲しみを庇ってくれた。「ふむ。だがそれはあなたのせいじゃない」

「私のせいよ。朝から晩まで部屋にとじこめて淋しい思いをさせてね。それで、ずっと毒を食べさせてた」ほの暗い蛍光灯を見上げて、鈴子は涙を噛んだ。人並みに恋はした。だが必ずリンの待つ部屋に帰ってきた。いちど別れぎわの捨てぜりふで言われたように、それほどまで猫に執着する自分を愚かしいとは思わない。「さぞ悲しかろうねえ」まるで鈴子の心の中を見透かすように老人は言った。「そういうご事情なら知らん顔はできん。ちょっとおいで一老人は鈴子の肩を抱き起こすと、籠や砂袋を積み上げた店の奥に導き入れた。「なに、これ」旧式のレジスターの下にステンレスの濫があった。仔犬ほどの大きさの、見たこともない動物が入っていた。「シエ、というんだがね」「シエ?………」

「ちょっと変な格好だが、怖くはないだろう」「かわいい」たしかにそう思った。「爬虫類、ですか?」「さあ。実は十日ほど前に中国人らしい客から預かったのだがね、二日間の約束で。ところがそれきり引き取りにこない。片言の日本語で説明をしとった。何でもこれはシエという伝説の獣で・・・・」言いながら老人はレジスターの上のメモに、ひどく難しい漢字を書いた。何とも怪しげな字だ。「これで、シエと読むんだそうだ。日本語だか中国語だか知らんがね。見てごらん、まず顔がキリン」「キリン?」「ジラフじゃないよ」シエの字に並べて、老人は達者な文字で「麟麟」と書いた。「で、額には鹿の角、足には牛の蹄、尻尾は虎だ。体はね、ほら鱗に被われている」「ほんとだ、すごい……」褒められたことがわかったのだろう、シエは前足をつつ張って、自慢げに背筋を伸ばした。睡たげな二重の瞼は馬に似ている。碁石ほどの鱗に被われた体は精桿で、猟犬のようにたくましい。少し間が抜けて見えるのは、体に比べて頭が大きいからだろう。

「こうしておいても仕方がないから、月曜には保健所に持って行こうと思っているんだが」「保健所ですって?とんでもないわ」「まあ、こんな不細工な動物は引き取り手もいるわけはないから、たちまち捨て犬と一緒にガス室送りになるだろうが、こっちも妙なものを置いて警察沙汰にでもなったらかなわんしね」「だったら、私がいただいてきます。おいくらですか」「お金はいらんよ。こっちも往生しているんだ」「その中国人の人が引き取りにきたらお返しします」「もう来やしないさ。おおかた持て余していたんだろう。やあ、大助かりだ。どうしても手がかかるようだったら、いつでも返しにいらっしゃい」老人は濫の扉を開けてシエを抱いた。おとなしい動物だ。よほど飼い馴らされた猫や犬でも、こんなふうに力を抜いて身を委ねることはしない。別れを惜しむように、立派な角の生えた頭を老人の胸に寄せ、大きな鼻腔を動かして匂いを嗅ぐ。それから睡たげな二重瞼の目を鈴子に向けて、もし見まちがえでないとしたら、たしかにウインクを送った。

「おいで、シェ」両手を差し延べると、シエは何のためらいもなく鈴子の腕に入った。硬い鎧のように見えた鱗は思いがけぬほど軟い手触りで、たとえばつややかな鳥毛に近かった。ほのかに果実の匂いがした。「それが、よくわからんのですよ」「わからない、って?」「ドッグフードと、野菜と、小鳥の餌とを入れておいたんだが、食べた様子はないし。水も飲まない」「まさか。十日も飲まず食わず?」「なにしろ伝説の動物だからねえ。ま、いろいろ試してみて下さいな」老人はビニール袋に鳥や魚や犬や猫の餌を無造作に詰めて、鈴子に手渡した。「はい、嫁入り道具」店を出るとキミシエは鈴子の肩ごしに伸び上がって、ひとこえ名残り惜しげに鳴いた。感情のこもった、仔犬の声に似ていた。「シエ ─ 」名前をつけるのはよそうと思った。リンに操を立てるわけではない。シエという言葉は口にするだに心地よく、しかも愛らしいこの獣によく似合った。線路ぞいの道は桜が満開だ。咲いたとたんに花冷えの日が続いたせいか、今年の桜はなかなか散らない。花にうもれた見知らぬ世界に歩みこんで行くような気がして、鈴子は歩きながらシエと一緒に振り返った。低い枝の張り出したトンネルのような道の先に、リンという名前のペットショップはぼんやりとショウ・ウィンドウの光をともしていた。

 

 

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