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広い大地に置き去られた日。見渡す限りの渇いた土は、食欲な触手をその身に通し、動けぬ自由を嘲笑う。孤高を持する日輪は、罪を光に償いを熱に、飽食に肥えた卑しい身体を灼き尽くす。狭い小箱に詰め込まれた日。己の姿も見えない闇は、やがて怠惰の心を誘い、踊る自由を潮笑う。輝く世界の甘美な声は、見えぬ世界と見えざる世界に、忘れた嫉妬を駆り立てる。七つの海に蹴落とされた日。白く泡立つ濁った波は、傲慢に喘ぐ口腔を塞ぎ、無力な自由を嘲笑う。深く冷たい安堵の水は、行き場を失くした憤怒の情を、優しく無意味に受け止めた。
第一章
取り愚かれた家
1
今日のおやつはサブレだ。バターをふんだんに使ったサクサクと軽い歯ごたえ。味はほんのりと薄く、焼き立てをそのまま食べるも良し、イチゴジャムやオレンジマーマレードをたっぷり載せて食すのもまた美味である。紅茶やコーヒー、日本茶にも良く合い、ケーキよりも手軽に食べられるのが嬉しい。リベザルはダイニングテーブルの高い椅子に座り、床に着かない足を前後に揺らして、キッチンに立つ青年の後姿を窺った。百八十を越す長身を屈めてオーブンの中を覗く横顔は、決して端正ではないが人を和ませる顔立をしている。
おそらく、常に微笑を湛えたような柔らかな表情がそう思わせるのだろう。ダークグレーの瞳で真剣にサブレの焼き色を見ている。仮令家庭用の菓子でも手を抜かないのが青年の真面目な所だ。リベザル達はそのマメな性格と尊ぶべき料理の腕に大いに頼り、助けられていた。彼は名を座木という、一階に店を構える薬屋のオーナーであり、同時にこの家の食生活を一手に取り仕切る敏腕料理人でもあった。リベザルは座木が断熱生地のミトンを手にするのを見て、跳ねるように椅子から飛び下りた。「兄貴、焼けましたか?」「うん、良いみたいだね」座木は熱くなった天板を掴み、クッキングシートを引いて紙ごとサブレをステンレスの網に載せた。
こうして冷ますのである。リベザルは座木に纏わり付くように後を追って、テーブルに置かれたサブレに身を乗り出した。型で抜かれた幾何学的な形の菓子が並ぶ端に、幻想的独創的前衛的な、一口に言うと歪な物体が幅を利かせている。リベザルはガタリと肩を落した。それは、リベザルが座木を手伝ったつもりで作ったサブレ三枚の成れの果てだった。「繋がっちゃってる」膨らむ分の余白を考えずに並べた所為で、元々不格好だった円は隣を巻き込んで更に崩れた。喩えるならば、生まれたばかりの芋虫に大変酷似している。
リベザルがテーブルの前で項垂れていると、座木はもう一枚の天板から移したサブレを持って来て横に並べた。’「可愛い雪だるまになったね」「雪だるま?」「私にはそう見えるよ」座木が手袋を外して穏やかに微笑む。リベザルはテーブルを回り、座木のいる方向から芋虫を見直した。縦に並んだ二つの丸と天板に当たって頭が平らになった四角形は、成程、バケツの帽子を被った雪だるまにも見える。リベザルは嬉しくなって、暗い気持ちなどすぐに消し飛んでしまった。「秋を呼んで来てくれる?階下にいる筈だから」
「はい。でも、お休みなのに実験してるんですか?」「実験じゃない、仕事だっての」「!師匠」いっこの部屋に入って来たのだろうか。さっきまでは確かに存在していなかった少年が、リベザル達がいるダイニングの、それも椅子に座って寛いでいる。この、狭い家の中ですら神出鬼没の彼こそ、リベザルが師匠と仰ぐ深山木秋だった。名字をこの薬屋の屋号にも使われている彼は、実質仕事を一手に引き受けている、長い経験と知恵を持った店主兼技術者である。しかし外見からはとてもそうは見えなかった。モスグリーンの、狩猟というよりは軍服風の半袖シャツをレインボーカラーのボーダーシャツに重ね、ジーパンから出た足は慣れないスリッパをいつも何処かに忘れて裸足でいる。
無造作に伸ばしたセピア色の髪、華客な背格好は成長過程の少年のもので、縞麗に整った顔にも幼さが残り、成人と呼ぶには些か頼りなかった。実年齢と容貌の比例定数が人間の平均的数値から掛け離れている。無理もない。彼は人間ではなく妖怪なのだ。彼も彼自身の物差で測れば標準である。同じく起居を共にする座木とリベザルも人間ではないが、種族差の為かやはり成長速度は区々で、詳しい年齢は考えた事もなかった。どうせ知っても意味はないし、彼らも数えてはいないだろう。「ザ、キ。僕のレモンソーダ取って。ストローも」「はい」座木が冷蔵庫から飲みかけの瓶を出して渡すと、秋はストローを街えて一口飲み、腕を伸ばしてサブレを一枚摘み食いした。その動作があまりに自然だったので、リベザルは不覚にも無言で見送ってしまったのだ。
秋が食べたのは、リベザルの作った三連のサブレだった。「うわ一ん、師匠の馬鹿ばかー」リベザルは秋の背中を、グーの手で交互に何度も叩いた。「何だと?馬鹿に馬鹿と言われるほど落ちぶれてない」「師匠が俺のサブレ食べたー」「は?」「秋。その一角はリベザルが作ったんですよ」「へえ」座木が説明すると、秋は漸く得心がいったらしく、背もたれに肘を突いてりベザルの方に振り返った。
「ごめん。豪快に芸術的な形だったから、余った生地を置いただけの味見用かと思った。リベザルの失敗作だったのか」正直過ぎる秋の感想は、謝罪を謝罪とも思わせない率直さである。「失敗じゃないです。雪だるまですっ」「さぞ雪の少ないトコで作ったんだろうな」「秋」「味は美味しかったよ。御馳走様」秋がリベザルの赤い頭に軽く手を置く。生地は座木が作ったのだから美味しくて当然だったが、りベザルは褒められたような気がして嬉しくなって、秋を叩<のを止めた。「師匠、仕事って何してたんですか?」「んー、大した事はしてないけどー」秋は椅子の上に胡座をかいて、眠そうに頭を前へ倒す。
「その一。喉飴を作ってた」「喉飴?」不可思議な注文にリベザルは不審を抱いた。深山木薬店には、他店とは違う特徴が三つある。一つは薬のオーダーメイド。各個人の症状に最も合った薬をハーブや薬品、時には得体の知れない植物や鉱物を使って一から処方するのだ。これは違法行為であるから、依頼する側も受ける側もそれなりのリスクを負わなければならない。それと知らずに足を踏み入れてしまった客には、適当に市販されている薬を宛がって済ませるが、訪れる客の大半はこの店の意味と目的を知っている。何故ならば、ここが駅から離れた山の中腹という、商売には不向きな立地条件にあるからだ。身近な明るく清潔で入り易い商店街の薬屋を拒み、遠く長い坂を登って汚くはないが暗く胡散な薬屋を選ぶ者はまずいまい。
先に挙げた何も知らない客というのも、坂で転んだ人間くらいのものだった。事情を知る人間の多くは、人生の奈落にあって尚泥沼の様な店に自ら足を踏み入れる。闇の中の一条の光に救いを信じているのだ。仮令それが輝かしい太陽の日射しでないとしても。しかし、客にとっては元凶とも言うべき来店目的がたかが飴一つとは、人生を棒に振る覚悟を貫くには若干弱い印象を受けた。どんな裏が隠されているのだろう。「食べたら爆発したりするんですか?」「お前、僕がいつもそんな事ばかりしてると思うのか」「思います。だってこの間も、」「まあ聞け」リベザルがつい先週の記憶を手繰ろうとすると、秋は彼の顔前に右手の平を突き付け、言葉を遮った。そして、パチン!秋が指を鳴らすと、空気の隙間から手の中に試験管が現れる。
何もないところがら物質を喚ぶのは、彼得意の手品だった。試験管は粘着質な赤褐色の液体で満たされ、底の方に毛虫を丸めたような枯木色の塊が沈んでいる。気味が悪い。どう見ても、「『人の飲み物じゃない』って思ったな?」「な、何で分かったんですか?」リベザルが図星を指されてたじろぐと、秋はニッと笑って試験管を指先で回転させた。「正解」[は?」[依頼人は人間じゃない。空谷響だ」まさにこれが、深山木薬店の第二の特異点であった。
空谷響とは山や谷に住まい木霊を返す者。古くは山の神とも呼ばれた樹木に宿る精霊だ。彼の様な人に非ざる妖怪達のトラブルに特効薬を処方し、時には薬ではなく言葉や行動で問題を治療する。妖怪の雑事相談所がこの店の二つ目の顔だった。「そうだったんですか」リベザルは感心しかけ、心から脇に落ちる寸前で首を振った。秋の詭弁に惑わされている。『人』は『人間』の意味ではない。妖怪が下手物ばかりを好むと思ったら大間違いだ。
「人間じゃなくても飲みたくないです。こんな毛虫みたいなの」「心頭を滅却すれば毛虫もまた美味し」「!それ、ホントに毛虫なんですか?」「べ−スは桔梗湯なんだが、実は隠し味に・・・・・」ギヤー。秋の声を邪魔するように遠くから聞こえた音は、一階の店の呼び鈴とも二階居住区のそれとも違う。音というよりは声に近いが、声と呼ぶには人間の声帯らしからぬ音だ。「今の、何ですか?」リベザルが怖々尋ねると、秋は億劫そうに体を起こして試験管をシャツの胸に並んだ銃弾ポケットに差した。「忘れてた。客が来てたんだった」「お仕事その二ですか?秋」
「面倒事を持って来たらしい」それは深山木薬店の第三の特異点。座木はピンクのキューブに縁取られた皿にサブレを並べ、盆を用意した。「では、すぐにお茶をお持ちしますね」音の正体は知らされぬまま、二人が仕事の態勢に入る。リベザルは彼らの仕事には全く関与していなかった----する能力か不足していたので、付いて行きたいのを我慢して椅子に座り続けた。も、坂で転んだ人間くらいのものだった。事情を知る人間の多くは、人生の奈落にあって尚泥沼の様な店に自ら足を踏み入れる。闇の中の一条の光に救いを信じているのだ。仮令それが輝かしい太陽の日射しでないとしても。
しかし、客にとっては元凶とも言うべき来店目的がたかが飴一つとは、人生を棒に振る覚悟を貫くには若干弱い印象を受けた。どんな裏が隠されているのだろう。「食べたら爆発したりするんですか?」「お前、僕がいつもそんな事ばかりしてると思うのか」「思います。だってこの間も、」「まあ聞け」リベザルがつい先週の記憶を手繰ろうとすると、秋は彼の顔前に右手の平を突き付け、言葉を遮った。そして、パチン!秋が指を鳴らすと、空気の隙間から手の中に試験管が現れる。何もないところがら物質を喚ぶのは、彼得意の手品だった。試験管は粘着質な赤褐色の液体で満たされ、底の方に毛虫を丸めたような枯木色の塊が沈んでいる。気味が悪い。どう見ても、「『人の飲み物じゃない』って思ったな?」
「な、何で分かったんですか?」リベザルが図星を指されてたじろぐと、秋はニッと笑って試験管を指先で回転させた。「正解」[は?」[依頼人は人間じゃない。空谷響だ」まさにこれが、深山木薬店の第二の特異点であった。空谷響とは山や谷に住まい木霊を返す者。古くは山の神とも呼ばれた樹木に宿る精霊だ。彼の様な人に非ざる妖怪達のトラブルに特効薬を処方し、時には薬ではなく言葉や行動で問題を治療する。妖怪の雑事相談所がこの店の二つ目の顔だった。「そうだったんですか」リベザルは感心しかけ、心から脇に落ちる寸前で首を振った。秋の詭弁に惑わされている。
『人』は『人間』の意味ではない。妖怪が下手物ばかりを好むと思ったら大間違いだ。「人間じゃなくても飲みたくないです。こんな毛虫みたいなの」「心頭を滅却すれば毛虫もまた美味し」「!それ、ホントに毛虫なんですか?」「べ−スは桔梗湯なんだが、実は隠し味に・・・・・」ギヤー。秋の声を邪魔するように遠くから聞こえた音は、一階の店の呼び鈴とも二階居住区のそれとも違う。音というよりは声に近いが、声と呼ぶには人間の声帯らしからぬ音だ。「今の、何ですか?」リベザルが怖々尋ねると、秋は億劫そうに体を起こして試験管をシャツの胸に並んだ銃弾ポケットに差した。
「忘れてた。客が来てたんだった」「お仕事その二ですか?秋」「面倒事を持って来たらしい」それは深山木薬店の第三の特異点。座木はピンクのキューブに縁取られた皿にサブレを並べ、盆を用意した。「では、すぐにお茶をお持ちしますね」音の正体は知らされぬまま、二人が仕事の態勢に入る。リベザルは彼らの仕事には全く関与していなかった----する能力か不足していたので、付いて行きたいのを我慢して椅子に座り続けた。
「リベザル」「はい」顔を起こすと、いきなり秋に頭を掴まれる。「不満と希望は顔に出さずに口に出せと言ってる筈だ。我慢するなら最後までばれない努力をしろ」見抜かれていた。リベザルが秋に隠し事を通すのは、現実的に考えて不可能である。リベザルは口に出すことにした。「師匠、俺も行って良いですか?階段に隠れてますから」「来たければ下まで来て良い。客はお前も知ってる人間だ」
「え?」「それとイグアナ」リベザルの知る数少ない人間の中で、イグアナを飼っていると言えば一人しかいない。「総和さん?」リベザルの中で、喜びと同時に不安の黒い煙が舞い上がった。
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