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恐しい沈黙が─
パロの大地にひろがっていった。
いや─
じっさいには、その叫びがとどいたのはごくわずかな一部分─パロの北、首都クリスタルの北西、ジェニュアをあとにすること半日ルーナの森をぬけた平地にひろがる、小高いアレスの丘、その周辺だけの、ごくごく限られたあたりだったはずである。
にも、かかわらず─
あたりを圧してひろがった恐しい静寂は、あたかもパロ全土を、いや、中原のすべて、全世界をさえ埋めつくし、沈黙の巨大な重みで世界すべてをおしつぶしてしまったのかとさえ思われたのだった─
!
それほどまでに、そのたったひとつの叫びがもたらした効果ははかり知れず大きかったのだ。(聖王、アルド・ナリス陛下、御自害!)(アルド・ナリス陛下、降伏をいとい、服毒、御生害!)(反逆大公アルド・ナリス、逝去−)誰もが、まさかと思っていたその叫び。
悲鳴のようなその叫びが、御座馬車のまわりからおこったとたんに─それが耳にとどいた瞬間に、人々は、どこにいたどのような騎士たちも、どちらの軍のものも、歩兵も騎士も隊長も、凍りついたように動きをとめてしまった。その手に剣をふりあげたまま、あるいは馬のくつわをとっていままさにおどりかかろうとしたまま、まるで時がとまり、カナンの永遠が訪れたかのように─石と化したあの人々のように。
恐怖と驚愕に大きく目と口を見開いたまま、兵士たちは、その叫びをどうとっていいか、まったく理解できないかのように空をふりあおいだ。あたかも、空に本当の真実のこたえが書いてあるとでもいうかのように。だがむろん、暗い夜空にはそのような炎の文字などあろうはずもなく、もうあのおぞましい眼球の月も消え失せ、星もない夜空が黒々とひろがっているばかりだった。松明の炎だけがゆらゆらとゆらめく。(そんなそんな…!)(そんなばかな。そんな……そんなことがあってたまるものか!)(ナリスさまは─アル・ジェニウスは……死んだりなさらない。
自害などしない、あのかたは……どのようなことがあってもこの。ハロを救うべく、あえてあのおからだで立上がったのではないか!)(嘘だ……そんなに簡単に……嘘だ、嘘にきまっている!)奇妙なことに、動揺は、ナリス軍には当然のこととして、国王軍にもまったく同じだけの強さをもってひろがっていったように思われた。いや、むしろ、ある部分では国王軍のほうが、動揺の激しいものがいたかもしれぬ。もとより、国王軍の騎士たちも、心からレムスに心酔し、傾倒してそれに従い、本当のにくむべき敵としてナリス軍と戦っていたものは本当はそれほどいなかった、というよりも、ほとんどいなかったのかもしれなかった。
むしろ、さんざんばらまかれたナリス側のチラシをみて、一抹の不安にとらわれ、(もしかして、本当に、レムス国王は何かどこかの国のあやしい陰謀によってもうもとのパロ聖王ではなくなってしまっているのだろうか?)という恐怖をあえて必死に押し殺しながら、その命令に従ってここまでも出むいてきたものも少なくない。かれらはむしろ、本当はナリスの主張のほうが正しいのではないか、というおそれと、いや、そんなばかなことがいまのこの世の中にあってたまるものか、というあやしいゆらめきとのあいだに引き裂かれながら、ためらいがちに剣をとり、よろいを身につけてここまでも追いすがってきたのだった。
それゆえに、いまひとつ、さしもの。ハロ騎士団の剣さきもにぶりがちだったともいえるのだ。(だのに……そんな……)「降伏せよ!」その叫びは、すでに、完全に包囲されたナリス軍の心臓部にもくまなくとどき、ひびきわたってはいたけれども─誰もが、まさかそれほど早くにナリスがすべてを断念するとは思っていなかった。ナリスのことだ─あの、策謀家、パロきっての知将として知られたナリスのことだ。きっとなにかあっといわせる手を編み出して、まだあと一回や二回はかならずこのていどの窮地はくぐりぬけてみせてくれるに違いない─じっさいには、敵であるはずの、ナリスを追い詰めているはずの国王軍の兵士たちのほうが、もっとその期待はひそかに大きかったのでさえ、あるかもしれぬのだ。
だのに、いま(パロ聖王、ナリス陛下御崩御!)その、悲鳴のような叫びは、両軍の兵士たちの胸をつらぬき、かれらの足をとめ、ふりあげた手をそのまま凍りつかせたのだった。誰もが、石像と化したそのおそろしい一瞬がすぎると、戦いの根源となるべき軍神が行方をくらまして、すべての気力を失ったかのように、へなへなと刀をおろし、気が抜けたようにあたりを見回した。もとより、敵のかぶとの中にある顔もまた、同じパロ人─どころか、クリスタルの同じ宮廷にかつてつとめていた同胞のものであり、なかにはよく知っている顔さえもあったかもしれぬ。
その、同胞あいうつ悲劇にひきこまれていたことをいまさらに感じたように、力のぬけたようすで、かれらは顔を見交わした。その目のなかには、いずれも、(本当か?)(本当だろうか?)という疑惑と、不信と、そして不安の色だけがあった。(もしかしてこれも……これも、あのナリスさまのおおいなるはかりごとではないのだろうか?)(何しろかつてそうだ、かつて、いくたびかあのかたはそうやって世をだまし、ひとを
あざむかれた……)
(いまもまた、窮地に陥ったことで、起死回生の何かあっと驚く奇手妙手を思いつかれて、我々をそもそも味方から騎そうとなさっておいでなのではないか?)(そうだ・・・確か、あの偽りの婚礼にひきこまれたときも─マルガからクリスタルへ知謀をもって帰還されたときも、あのかたは……)ナリスならやるだろう─敵も、味方も、その思いがあるがゆえに、その悲鳴のような絶叫をすぐには信じられなかった。それも無理はない。
ナリスはまさしく、服毒死したと見せかけて、拷問によって強いられた、征服者モンゴールの公女アムネリスとの婚礼のその祭壇からまんまと逃れてのけ、あのパロ復活の日のアルカンドロス広場によみがえった勇姿をあらわしたのだし、また、すでに、マルガでヨウィスの民に化けた暗殺者に襲われ、瀕死となってクリスタルへ搬送されたのも、おそらくはどうしてもナリスをマルガにとどめておき、クリスタルに戻らせまいとしたレムスの処遇にたいして、謀反を決意したナリスの策略の結果だったのだろうといううわさは、クリスタルじゆうにもっぱらであった。
まあ、それも、ひとがナリスでさえなかったら、そこまでかんぐられることもなかっただろうが、何しろふたことめには、陰謀家、策略の士として知られるアルド・ナリスである。そのくらいのことは、当然するだろうし、また結果としてはどうやらそれが真実だったのだと誰もが思っている。それはまさに、陰謀家として知られてしまうことの最大の弊害だったかもしれぬ−何をしてもすなわち陰謀であろう、とかんぐられてしまう、ということはだ。
だが、それ以上に人々は、奇妙な思い込みといえばいいのか、ある確信があったのかもしれぬ。それは−(ナリスさまは、決して・・・・こんなところで、こんなに簡単に亡くなったりはしない……)という、信仰のようなものであった。それもまた、味方であり、崇拝者であるナリス軍だけではなく、敵であるはずの国王がたにも根強くあった思い込みであったのだが─(ナリスさまのようなかたがナリスさまほどのかたが−)
よかれあしかれ、そのあまりにも激烈な生きざま、あまりにも常人とかけはなれた、英雄のサーガにのみその生涯をうたわれてしかるべきようなその半生は、味方には深い憧僚と心酔をもって、敵にも驚嘆とやむを得ぬ讃嘆をもって、パロの人びとの心に深くきざみこまれている。反逆の王子アルシス王家の嫡男として生まれ、本来ならば間違いなく王太子からパロ聖王たるべきところを、父の謀反のため、両親からもひきはなされてマルガで淋しく育ち─そして、十八の誕生日にあっと驚かせる華麗なデビューをとげて、パロ聖王家にアルド・ナリス王子ありとひろく中原に知らしめた。その派手で人目をひくデビュー以来、つねにその群をぬいた美しさも、その才気も、その知略もさらにそのレイピアのたくみさもキタラの名手であることも、何から何まであまりにも天の神にめでられ、恵まれた存在として中原の伝説でありつづけた、アルド・ナリスである。
パロがモンゴールの奇襲のもとに屈した黒竜戦役のおりには、負傷し、とらえられ、拷問をうけて敵の女将軍アムネリスとの偽りの婚礼にひきこまれかげながらも、祭壇の前から知略をもって逃亡し、そしてアルカンドロス広場において、ついにパロにふたたびの独立と、征服をはねかえす勝利をまねく立役者となった。そして、年若い国王を補佐して摂政宰相となり、国王の姉リンダをめとり、非常な才腕を発揮しながら、それ自体が国王のねたみと不安をかってとおおむねパロの人々は理解していたのだあの冤罪事件にまきこまれ、ランズベール塔での激烈な拷問の末に右足切断、終生歩けなくなるという驚愕すべき悲劇にあった。
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