闘う弁護士・中坊公平は、いかにして形成されたのか。彼は生涯、約四〇〇件にものぼる裁判や事件を担当してきた。庶民の苦しみの中から提起された小さな事件はもとより、日本社会を揺るがした「森永ヒ素ミルク事件」や「住専問題」などの大事件まで、それはあらゆる分野に及ぶ。本書では膨大な記録の中から今も著者の心に残る一四の事件をピックアップして、その内容と思い出を記述した。これは「事件が弁護士を育てる」と語る著者の成長の軌跡でもある。
はじめに
この本を作ることになり、あらためて私が担当した事件に関係する資料に目を通しました。京都にある事務所の倉庫には、私が独立して事務所をもった後に担当した最初の事件から今日まで、約五〇〇件を超す事件について裁判の訴状、答弁書、準備書面、尋問調書の写しや、判決文正本など、関係する文書をすべて保管してあります。
なぜ、今なおすべて残しているのか。それは、弁護士として私が担った仕事については、生きている間はもちろんのこと、死んだ後も責任を取りますよということなのです。私はどんな事件に対しても全力を尽くしました。いいかげんにやるということをしませんでした。それは、残してあるこれらの資料を見てもらえばわかることです。
これらの事件の一つ一つが私の墓碑銘、そして、あの世へ携えていく数珠の珠だと思っています。落ちこぼれで出来の悪い私でしたが、さまざまな事件を担当することによって徐々に成長していきました。事件が私を鍛え、その都度さまざまな教訓を与えてくれたのです。そして、忘れられない思い出もたくさんできました。この本では、それらの中から一四件を選び、話をさせていただきます。
ケース ・ 1
1960年 H鉄工和議申立て事件
◆事件の概要
大阪市にあるH鉄工所は、水道用バルブなどの設計及び製造販売をする会社。代表者の個人経営から一九五六年七月に株式会社となる。翌年の前半期まで経営は順調。設計製造をした製品は国内の多くの大都市官庁へ納入する状態だった。だが、五八年から五九年に至る業界の不況に伴い経営状態は急速に悪化。五五人の従業員に対する賃金引き下げや解雇を図ったものの経営改善はできず、五九年一一月に手形が不渡りとなり倒産。翌年二月に株主総会の決議により解散し、清算を行っていた。
解散当時の資産と負債の状況は、帳簿上資産総額一〇八一万八三六円。負債総額二八四八万九五八八円。差し引き債務超過額一七六七万八七五二円となっていた。資産総額のうち、担保に入っている分を除き、かつ債権の回収不能分を除けば、一般債権者に配当し得る資産は約一五〇万円程度といった状態であった。倒産当時、H鉄工所が使用してきた家屋や機械はKバルブ工業株式会社に賃貸していたが、H鉄工所は和議認可の決定が下り次第、再び会社を継続すると同時にKバルブ工業の営業譲渡を受けることになっていた。
従業員の解雇は進んでいたし、業界は不況を脱しつっあった。小規模になっても再建を図れば、かなりの利益をあげられ、債務の全額返済も達成し得る。私、中坊公平は、H鉄工所の代理人として、大阪地方裁判所に和議開始の申立てを行った。その結果、六〇年四月末、債権者集会において、七七社の債権者は左記の内容の和議を可決した。
一、債権者らは和議申立ての日以降の和議債権に対する利息及び損害金の支払いを免除すること。
二、そのほかの和議債権は左記のとおり、分割して全額支払うこと。
三、(イ)和議認可決定確定と同時に和議債権額の七分を、確定後の六カ月以内にその三分を支払うこと。(口)和議債権の残額に対しては和議認可決定確定の日から一年間据え置き、その後に来る最初の一二月一日を第一回として三年間にわたり毎年一二月一日に和議債権の五分ずつを、四年目から完済までは一割ずつを支払うこと。ただし、最終回は一割五分を支払うこと。
四、確定の日から和議条件履行済みに至るまで、和議債権者中から代表二名を選出し、申立て人会社は同人等の監督指導を受けること。
◆教訓と思い出
開業と同時に挫折
五五年の夏、敗戦から一〇年が過ぎたこの年、日本経済は「神武景気」で本格的な再生に向かいつつありました。あのころは、テレビ・洗濯機・電気冷蔵庫の「三種の神器」を揃えることが大衆の夢。「太陽族ブーム」を生んだ石原慎太郎氏の『太陽の季節』が発表されたのも五五年でした。そして、私はこの年に司法試験に合格して司法修習生となり、二年後に二七歳で弁護士を開業。大阪の弁護士事務所のイソ弁(居候弁護士)となりました。
実は、私の父、中坊忠治も弁護士で京都弁護士会の会長を務めた時期もありました。小学校の教員を辞め、苦学して弁護士になった父は、いわゆるエリート街道を歩んできた人ではなく、法律の知識が特に優れてあったわけではありませんでした。おそらく、周囲の弁護士さんもそんなふうな目で父を見ていたのではないかと思います。
当時、京都弁護士会には二百数十人の弁護士が登録されていましたが、親子揃って弁護士というのは案外少なく、おそらく数人ではなかったかと思います。東大、京大卒のエリート弁護士の息子がなかなか弁護士になれないのに、自分の息子が弁護士になったということで父は大喜び。知人や友人に触れ回っていました。それだけではなく、弁護を依頼してきた方に提出してもらう「委任状」に、自分の名前だけではなく勝手に私の名前を刷り込むなど、息子は自分のところで仕事をし、やがて跡を継ぐのが当然と決め込んでいました。
しばらく大阪でイソ弁をした後、五八年に、私はこの親父の弁護士事務所に入ったわけですが、とにかくよくもめました。親父は私のことを出来の悪いアホやと思っているし、私の方も親父のことを不勉強でいいかげんな男だと思っている。つまり、親子としては間違いなく愛し合っていながら、弁護士としては互いに尊敬していないわけです。これではうまくいくはずがない。翌五九年二月、妻淳子と結婚した私は、これをきっかけに父のところを去り、大阪で自分の事務所を構えて独立しました。
ところが、「弁護士・中坊公平事務所」の看板は掲げていても依頼者がまったく来ない。おまけに、妻は身体を患って入院するし、事務員さんも膝を悪くして入院してしまった。客は来ない、女房はいない、事務員もいない。そして、ついに私は、依頼者から預かっている金を使い込んでいることがわかりました。これは、この年の暮れに預金通帳を開け、帳簿をつけていて初めて気づいたことなのですが、これを知った時、私は自分が真っ暗な底無しの穴の中ヘストーンと落ち込んでいったような気分になりました。
すぐさま親父に金銭的な援助を求めたものの「そんなもん知らんがな」とけんもほろろ。独立・自立と言いながらこの様です。己の力を思い知った私は、弁護士を辞め裁判官になることも考えました。暗澹たる気分のまま年が明けて六〇年。相変わらず客(依頼者)が来ない日々が続いていた二月ころ、飯野仁さんという同期の弁護士が、彼のところへやって来た依頼者に私のことを紹介してくれました。倒産したものの、再建をめざしていた会社の和議申立て事件です。大阪のH鉄工という水道用のバルブを作っている会社が依頼人です。
和議というのは、例えば倒産状態にある者が、債務について一部免除・猶予など支払い条件を提案し、債権者集会で同意を求めるという手続きで、円滑にこれが進むよう債務者の代理人を任されたわけですが、債権者は近畿日本鉄道など七七社にのぼり簡単にはいきません。しかし、喜んでこの仕事を引き受け、それからというもの、ほとんど毎日のようにH鉄工の工場に通いました。とにかく他に依頼者が来なくて暇でしたしね。ついていたのは旋盤やフライス盤についての覚えが私にあったことです。
戦時中、同志社中学に通っていた私は、学徒動員の際、兵庫県伊丹市の三菱電機の製作所で、二年ばかり工員として働かされていたのです。だから、H鉄工が抱えている機械が、いくらぐらいで売りさばけるかというようなこともだいたいわかりましたし、この会社が立ち行かなくなってしまった真の原因もよくわかりました。それは「芯出し」という基本的な作業が杜撰だったのです。こんな粗悪品を作っているから、値引きを強いられての出血受注ばかりやることになる。肝心なことは、社長が取引先を接待んで回ることではなくて、いい品を作ること。品さえ良ければ必ず会社は再建できるはずです。
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