オードリー・ヘップバーン物語 上
 
  そこいるのは、生身のオードリー。ふれたらきっと、あなたも泣き出すほどに  
著者
バリー・パリス (著 ・ 永井淳 (訳
出版社
集英社文庫 / 集英社
定価
本体価格 819円+税
第一刷発行
2001/1/20
ISBN4−08−760390−3

「ローマの休日」、「テイファニーで朝食を」など、数々の美しい映画で知られるオードリー、ヘップバーン。死後何年たっても彼女の伝説は衰えることを知らない。その真実の人生を優れた手法で浮き彫りにした伝記の決定版。家族、友人への聞き取りと細かなリサーチ、豊富な未公開写真が伝記作家パリー・パリスの手で生き生きとよみがる。上巻では知られざる逸話に満ちた少女時代、戦争、そしてハリウッドですべての人を虜にしていく前半生を描く。

まえがき

オードリー・ヘップ.バーンは伝記作者の夢であると同時に悪夢でもある。映画出演とスクリーン外の献身的な奉仕活動の両方で、これほと崇められた─霊感を与えられると同時にみずからも与えた─女優はほかにいない。彼女の悪口をいう者はほとんと一人もいなかったほど万人に愛されていた。最大の失敗といっても、せいぜい一九六四年のアカデミー賞授賞式でパトリシア・二−ルの名前をいい忘れた程度のことにすぎない。死後に暴かれるような恐ろしい秘密や隠された残酷さはひとつもあとに残さなかった。親切で心温かいうわべの下には、より徹底した親切と温かさがひそんでいた。

この作者に課された使命は、彼女を聖徒の列に加えることなくその真実の姿をとらえ、聖像の下から血の通った女性を掘りおこすことである。この試みが成功するとしたら、それは彼女に関する知識をわたしにも分けてくれたすべての人々のおかげである。何人かの貢献者の名前はここに特記しておかなくてはならない。わたしがとりわけ多くを負っているのは以下の方々である。オードリー・ヘップ.ハーンの家族および記念館、ロバート・ウォルダース、メル・ファラー、イアン・クアルレス・ファン・ウフォルト、パコおよびクリスティーネ・シクシマ・ファン・へームストラ、イヴォンヌ・クアルレス・ファン・ウフォルト、レオポルド・クアルレス・ファン・ウフォルト(前駐米オランダ総領事)、ミキール・クアルレス・ファン・ウフォルト、ミセス・セメリア・ウォルダース、リックおよびクローディア・ウォルダース・ド・アブルー、バンスおよびマーガレット・ウォルダース・シュウテン、ドクター・ロナルドおよびグラダ・ウォルダース・グレッグ、ヵ−ク・パレム、ローズ・ガングッザ。

しかしここで強調しておかなくてはならないのは、本書はいわゆる「公認の」伝記ではないこと、従ってヘップバーン・ファミリーの承認のもとに書かれたのではないこと、本書に協力したヘップ、ハーン一族の方々は、記念館のメンバーとしてではなく個人として限られた形で協力したもので、かならずしも本書の結論や記述を承認してはいないことなどである。ヘップ・バーン記念館は将来独自の本を出版するすべての権利を留保している。生前みずからについてほとんど語ることがなかったオードリー・ヘップバーンに、前例がないほど近づくことを可能にした彼女の親友たちに深く感謝する。とりわけロード・ジェームズ・パンソン、コニー・ウォルド、ドリスおよびヴィクトリア・ブリソナー、ユベール・ド・ジヴァンシー、マイケル・ティルソン・トーマス、ラルフ・ローレシ、アンナ・カタルディ、アラベッラ・ウンガロ、ロリーン・ガェター二Hロヴァテッリ伯爵夫人、カミラ・ペッチ=ブラント・マグラス、アルフレート・パイネケン三世の諸氏に。

ヘップバーンは英米映画界の多くの傑出した映画監督たちと一緒に仕事をした。わたしは光栄にもそのうちの五人から話を聞くことができた。フレッド・ジンネマン、リチャード・レスター、テレンス・ヤング、ピーター・ボグダノヴィッチ、ビリー・フィルダーの諸氏である。ビリー・フィルダー夫人で、自身も比類のない女性であるオードリー.・フィルダーは辛辣な談話でこの伝記に薬味を効かせてくれた。ヘップバーンの職業上の同僚のなかでは、貴重このうえない洞察を提供したのが、音楽家にして傑出せる観察者アンドレ・プレヴィンと、限りなく親切な人間資料室ロディ・マクドウォールである。

その他の貴重な回想が、レスリー・キャロン、R・J・ワグナー、ジェームズ.コバーン、トニー・カーティス、デボラ・カー、ピーター・ヴィアテル、イーライ・ウォラック、パトリシア・二−ル、ヴァレンティナ・コルテーゼ、ソフィア・ローレン、ジ二一.マンシ一二、シオドア・ハイケル、キャサリン・ダナム、マ一二−・ニクソン、レナード.ガーシュ、エフレム・ジンバリスト・ジュニア、故ジェレミー・ブレットとエヴァ・ガボールの諸氏から提供された。カメラマンのボフ・ウィロビーもまた『世界の庭』−オードリー最後の美しいフィルム・プロジェクトーのジャニス・フラックシュレーガーとジュリー・リーファーマンと同じく、なくてはならない存在だった。

アルンヘムの戦いとナチス占領下のオランダにおけるオードリーの体験に関する記述で、オランダの戦史家、著作家の第一人者パウル・フルーメンによって発見され、翻訳された未発見資料に拠らないものはひとつもない。パウル・フルーメンと、わたしを彼のもとに導いてくれたワイオミング・B・パリス二世─これまたすぐれた戦史家であるに深く感謝する。もう一人の親切なオランダ人、パーグ映画財団企画部長のレーンデルト・デ・ヨングもオードリーの初期の貴重なフィルムを見せてくれた

映画史に関する情報と助言では、いつものようにステイーヴン・バック、ケヴィン・ブラウンロー、ジェームズ・カード、ヒューゴー・ヴィッカーズ、ローレンス・クアーク、レナードおよびアリス・モールテイン、リチャード・ランパースキー、デヴィッド・ステンの諸氏にお世話になった。わたし以前のヘップバーンの伝記作者たち、チャールズ・ハイアム、イアン・ウッドワード、キャロライン・ラザム、ウォレン・パリス、アレグザンダー・ウォーカー、シェリダン・モーリー、ジェームズ・ロバート・パリッシュの諸氏からも恩恵を蒙った。ユニセフのためのオードリー・ヘップバーンの精力的な活動を扱った最終章は、以下の方々の洞察なしには書けなかった。

すなわちロバート・ウォルダース、クリスタ・ロート、プリンス・サドルッディン・アガ・カーン、ジャック・グラットバック、イアン・マクラウド、その他多くのユニセフ職員、およびナンシー・カッセボーム上院議員、アン・コックス・チェンバーズ、ウィリアム・バンクスの諸氏である。さらに本書の収益の一部をユニセフとヘップバーン記念館の「子供たちのためのバリウッド」基金に寄付することに同意したG・P・パトナムズ・サンズ社にも感謝する。本書の出版を企画したパトナム社の編集者、ジョージ・コールマンの退職は大きな損失だったが、ひきつづきフィリス・グランと編集者たちのローラ・ヨーク、デヴィッド・グロッフ、とりわけデヴィッド・バイフィルの支持が得られたのはありがたかった。ワインデンフェルド&ニコルソン社(イギリス)のアレグラ・ヒューストンとボッシュ&ターニング社(オランダ)のマルチィン・アッペルマンからもヨーロッパで貴重な助力をいただいた。このような両大陸に跨がる大規模なプロジェクトは、身内の精神的な支えなしには不可能である。

わたしの場合、支えてくれたのはロバート・(悪魔・)ゴットリーブ、優秀な工−ジェントのダン・ストローン、チャールズ・ブッシュとエリック・マイヤーズのコンビ、ジャック・ラーセン、ウォレス・ポッツ、リックおよびデボラ・ギアリー、ロン・ウィスニスキー、アル.ハート・フレンチ、ステイーヴン・ボーム、ローズ・ヘイドン、ジェームズおよびクイーン・クリスティーナ・オトウール、パミラおよびデヴィッド・ロイル、ワイオミング・B・パリス一世、メリカ・パリス、そしてワイオミング・B・パリス三世といった人たちだった。最も重要な人の名前を最後に挙げておく。ライター兼リサーチャーのマリア・チアッチァは、この世界では文句なしに最高であり、最も献身的である。ジョン・バ一バは(辛抱強いマージーの協力とともに)、わたしのすばらしい友人であり、最も親しい助言者であり、多くの点で本書の共同執筆者でもある。そして最後に、いつものように、感謝と愛を、プリマドンナにして力の礎であるわが妻マーナに捧げる。

パリー・パリス

ピッツバーグにて

一九九六年三月七日

 

 

第1章オランダ、そして遠すぎた橋

(一九二九〜一九四七年)

「わたしは自分の容貌に途方もないコンプレックスを抱いていた。この醜い顔では、だれもわたしと結婚してくれないだろうと思っていた」

オードリー・ヘップバ一ン

史上最大の空挺侵攻作戦が行われた日、オードリー・ヘップバーンは十五歳の痩せっぼっちの女の子だった。目前に迫ったナチス・ドイツからの解放に荘然とすると同時に胸を躍らせ、それが自分の住むオランダの田舎町アルンヘムで起こりつつあることが信じられない思いだった。一九四四年九月十七日のこの日、アルンヘムは第二次大戦中で最も大胆な連合軍侵攻作戦の舞台となった。この日は、ナチス占領下の千八百日とともに、彼女の生涯に永続的な彰響を及属すことになる。彼女は不思議な運命でこの場に居合わせることになったが、さらに不思議な運命が、侵攻作戦を見守っていたこの十代の少女を、その時代の最も美しい偶像に変えることになる。

「オードリーはごくありふれた女の子でありながら、どんな女の子とも似ていない」と、ある友達は語っている。「オードリー・ヘップバーンとさえ似ていない」。彼女は本格的なバレエに出演したことがないバレエ・ダンサーだった。出演料が世界一高額でありながら、一度も演技の勉強をしたことがない映画女優だった。ぺシミストたちは戦争からは新しい女性の理想は生まれないと語った、とセシル・ビートンは書いている。しかしオランダの瓦礫と、イギリス風のアクセントと、アメリカでの成功は新時代の精神を体現した意欲的な子供を生みだすだろうと。「彼女のような容貌の人間はかつて存在しなかった」と、ビートンはいっている。おそらく「あのフランス革命の熱狂的な子供たちを除けば」。

大きな目、濃い眉、信じられないほど細長い首、そして当時の標準からすれば「高過ぎる」背丈。それでも、モジリアニの肖像画のように、「アンバランスそれ自体が興味深いばかりでなく、非のうちどころのない合成物を作っている」彼女はたんなるニュー・ルックではなく、新しい女らしさーアメリカ流のセンクスの女神とは正反対のヨーロッパの女性を代表するようになる。歌姫マリア・カラスはじめ無数の女性たちが彼女をモデルとすることを望んだ。「彼女は歴史的な瞬間に、フェミニズムと安易な離婚とセックス革命の直前に登場した」と、批評家のモリー・パスケルは書いた。彼女は傷つきやすい宿なしの子であり、最後まで慎重で多義的だった。『昼下りの情事』のヒロインがその典型だった。とスタンリー・カウプマンは語っている。

「彼女が思いきった冒険をしょうとするサインは、手袋を脱ぐことだった」あどけない子供のような女性はリリアン・ギッシュ以来映画の観客を魅了してきたが、ヘップバーン・タイプは逆説的なグラマーとソフィスティケーションとともに出現した。ほとんどのグラマー・クイーンたちは、ウェイトレスか売り子の役からスタートして、所属する映画会社によって王座につく訓練を受けなくてはならなかった。オードリー・ヘップバーンの場合はそうではなかった。彼女は貝殻から生まれるボッティチェリのヴィーナスのように、ほぼ完全な形で到着した。美とグラマーは重なる部分があるにしても、決して同じものではない。美は視覚的なもので、グラマーに必要だがそれだけでは充分でない。グラマーはより抽象的である。そしてグラマーが集団催眠の一形態だとすれば、ヘップバーンは彼女の時代 の最もすぐれた映画の催眠術師だった。

映画の偉大な女神たちのなかで、マリリン・モンローとエリザベスーアイラーだけがオードリー・ペップバーンよりも《ライフ》の表紙に登場した回数が多く、ガルボだけが彼女よりもパリウッドから超然としていた。四十年以上の間にわずか二十本の映画に主演しただけだが、どの作品にも注目すべき独自の存在感を吹きこんだ。ソフトな声でメランコリーをギターに打ち明けながら「ムーン・リヴァー」を歌うとき、「彼女はわれわれがそのよしあしを判定する女優ではなく、われわれが知り、かつ愛している一人の人間である」と、ある賛美者は書いている。「あの容貌だけで下手な演技や出来の悪い映画は許されただろう。

幸い、その必要はなかったが」彼女の持つ王者のオーラもまた光り輝いた。「彼女はわたくしたちのお仲間です」と、エリザベス皇太后はヘップバーンと会ったあとで娘にいったと伝えられる。パスケルの目には「彼女は半分森の妖精、半分王女として五〇年代に空から降りてきて、やがて…足跡も残さずに・・・・・・・姿を消した……国籍も階級も定かでない、謎めいた血統の取替え子」であるかのように映った。だとすれば、彼女が実際に男爵夫人の娘であることを知っても驚くには当たらないだろう。

オードリー・ペップバーンの母親はオランダ貴族の由緒ある家系に属していた。祖父アールノート・ファン・ぺームストラ男爵(一八七一〜一九五七)は弁護士で、ウィルヘルミ−ナ女王の宮廷ではよく知られた人物だった。その先祖は十二世紀以来政治家および軍人として、オランダで高い地位を占めていた。オードリーの一生にも世間並にいろいろ問題はあったが、少なくともアイデンティティの危機に悩む事はなかっただろう。先祖の肖像画がオランダじゅうの美術館や貴族の館に飾られていたからである。ファン・へ−ムストラ家はもともと植民地貿易で財をなしたが、アールノート男爵は貿易よりも官職を好んだ。一八九六年にエルブリフ・ファン・アスベックと結婚して、五女一男をもうけた。

三番目の子供でオードリーの母となるエラは、一九〇〇年にヘルダーラント州で生まれた。エラはオペラの勉強をしたがったが、ステージは立入り禁止地域だった。「なにをしてもいいが、俳優や女優とはつきあうな」と、男爵は命じた。「一家の面汚しだ」。エラの友達で、オランダのビール会社の一族であるアルフレート(フレディ)・ハイネケン三世は、彼女について、「生まれながらの女優、きわめてドラマティックな性格で、感情豊かで、優れたユーモア感覚を持っていた。しかし当時は貴族の娘が職業を持つことは禁じられていた。彼女は幸せな結婚をして子供をたくさん産むことを期待されていた」と語っている。

エラは、「なによりもイギリス風に、スリムな体型に、そして女優になることを望みながら育った」無念さをたびたび口に出すようになる。父親に従順な娘は望みを捨てたが、自分に才能ある娘が生まれたら後押ししようと心に誓った。彼女自身の恵まれた少女時代は、男爵家のいくつかの領地で送られた。なかでも特筆すべきはユトレヒトの近くの、美しい庭園と白鳥の浮かぶ堀に囲まれた豪邸ドールン城(現在はハウス・ドールン博物館)であった。しかしファン・へ−ムストラ家のエラの世代は、この城に長くは住めなかった。第一次大戦の記憶は第二次大戦の生々しい記憶の陰に薄れてしまう。

第一次大戦時オランダは中立国で、終戦と同時にカイザー・ウィルヘルム二世がドイツからオランダへ逃亡したことを思いだす人は少ない。勝利した連合国はドイツ皇帝を戦争犯罪人に指名したが、寛大なオランダ人は彼の引き渡しを拒んだ。ファン・へ−ムストラ男爵家は彼をドールン城に宿泊させたばかりか、一九二〇年には彼に城を売らなければならなかった。皇帝はこの城で復権を,想し、プロイセン流の野蛮さを発揮して、「体力づくり」のために敷地内の木を一日に一本ずつ伐り倒した。ジョゼフ・J・オドナヒュー─未来の女優オードリー・ヘップ・バーンの未来の姻戚の一人─は、一九三〇年代の初めにカイザーの孫のルイス・フェルディナント皇太子の招待でドールン城を訪問したことを回顧する。式部長官のフォン・グランシー男爵の出迎えを受け、堀を渡って城内へ案内された。

[ドイツ製の]家具調度の目立つ大広間で、ほかの客に紹介された。[シェリー酒のあとで、]従僕が大きな扉を開けると、太ったダックスフントが王者然としたよたよた歩きで広間に入りこみ、そのあとに犬よりはかなり元気な足どりでカイザーが続いた。[紹介が終ると、]りっぱな食事室に移り、わたしは皇帝の右隣の席に座らされた。[昼食のあと、]主にフリードリッヒ大王の肖像画と記念品が飾られた喫煙室に場所を移した。カイザーはフリードリッヒに対して、祖母のヴィクトリア女王に対する愛情に勝るとも劣らぬ英雄崇拝を抱いていた。

 

 

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