審問
 
 
  スカーペッタに殺人容疑!〈狼男)の魔手に危うく命を落としかけた彼女を待ち受ける、さらに過酷な試練。遂に検屍局長を辞任か?  
著者
パトリシア・コーンウェル
出版社
講談社文庫 / 講談社
定価
本体 629円(税別)
ISBN4−06−273045−6

プロローグ

事件のあとで

痣の色をした冷たい黄昏が徐々にうすれて、完全な暗闇がおとずれた。寝室のカーテンが 厚く、荷造りしながら動きまわる私のシルエットがすっかり吸収されてしまうのがありがた い。これほど異常な事態にみまわれたことはかってなかった。 「何か飲みたいわ」ドレッサーのひきだしをあけながら言った。「暖炉に火をおこして、一 杯やって、。パスタをつくりたい。黄色と緑の幅広いヌードルとピーマンとソーセージで。 レ・パッパレデルレ・デル・カントゥンツェインを。休みをとってイタリアへいって、イタ リア語を習いたいと前から思ってるの。本格的に習うのよ。話せるように。食べ物の名前が わかるだけじゃなくて。フランスでもいいわ。そうだフランスへいこう。

いますぐいこうか しら」無力感と怒りをこめて言いたす。「パリに住めるわ。いつだつて」それはバージニア とそこに住むすべての人を拒絶する私なりのやりかただ。 リッチモンド市警察の警部ビート・マリーノが、大きな手をジーンズのポケットにつっこ んで、巨大な灯台のように私の寝室を圧している。ベッドのうえに開いておかれたスーツケ−スとバッグに、荷物をつめるのを手伝おうとは言わない。私を知りつくしているので、そ んなことを考えもしない。マリーノは無教養に見えるし、しゃべりかたも行動も粗野だが、 頭はよくきれるし、繊細で洞察力がある。たとえばこの瞬間、彼は単純な事実を理解してい る。ジャン・バプティスト・シャンドンという男が満月のもと、ふりしきる雪のなかをやっ てきて私の家に侵入してから、まだ二十四時間とたっていないのだ。

シャンドンの手口は知 りつくしているから、すきがあれば私にどんなことをしていたか察しがっく。自分自身の惨 殺された死体を解剖学的に正しく思いうかべることは、まだできずにいる。だが、私ほど正 確にそれができるものはほかにいない。私は法病理学者で法学の学位ももつ、バージニア州 の検屍局長だ。シャンドンが最近リッチモンドで殺害したふたりの女性の検屍を手がけ、パ リで殺されたほかの八人のケースもみている。 シャンドンが私にしたかもしれないことより、これらの犠牲者にしたことを述べるほうが 私にとって安全だ。彼は容赦なくなぐり、胸と手足に噛みつき、血で遊んだ。いつも同じ凶 器を使うとはかぎらない。

昨夜はチッピングハンマーを所持していた。石工事に使う特殊な 道具で、つるはしに似ている。チッピングハンマーで人体にどんなことができるかを、私は よく知っている。二日前の木曜日に、リッチモンドでの二人目の犠牲者である女性副署長、 ダイアン・プレイを殺害するのに、シャンドンはまさにそれを使っているからだ。おそらく 昨夜もっていたのと同じものだろう。

「今日は何曜日?」と、マリーノ警蔀にきいた。「土曜日よね」 「ああ。土曜日だ」 「十二月十八日。クリスマスの一週間前ね。クリスマスおめでとう」そう言いながらスーツ ケースのサイドポケットのジッパーをあけた。 「そう、十二月十八日だ」 マリーノは、私が何かばかなことをしでかすのではないかというふうに、こちらを見つめ ている。その血走った目は、家の中に充満しているぴりぴりした雰囲気を反映しているかの ようだ。不信感が空中にただよっている。それはほこりの味がする。オゾンのにおいがす る。

そして湿気のようにまとわりつく。私の家は警察に占拠されており、道路の雪をけたて るタイヤの音や耳ざわりな足音、人声、無線の雑音が、地獄の騒音のようにひびく。 私は侵害されている。家の中のすべてがあばかれ、生活のあらゆる面が人目にさらされて いる。モルグのいつも私が使うステンレスの解剖台に、裸で横たえられているようなもの だ。だからマリーノは荷造りを手伝おうかなどとはきかない。彼は肝に銘じて知っている。 私のものには何ひとつさわってはいけないことを。靴、ソックス、ヘアブラシ、シャンプー のびん。

どんな小さなものにもだ。 ゲートで守られたウエストエンドの静かな住宅街に私がたてた頑丈な石造りの家、私の理 想の家から立ちのくように警察から命じられた。なんということだろう。自らをルガル、つまり狼男と呼ぶジャン・バプティスト・シャンドンでさえ、わたしよりはましな扱いを受け ているにちがいない。法は彼のような人間に、考えられるかぎりの人権を与えている。快適 な環境、プライバシー、無料の部屋と食べ物と飲み物。それに私が教えているメディカル・ カレッジ・オブ・バージニアの犯罪者用病棟での医療。 マリーノは少なくとも二十四時間、ふろにも入っていないし寝てもいない。彼のそばをと おるとシャンドンのおぞましい体臭がして、吐き気におそわれた。胃が熱くなってよじれ、 脳は働きをとめ、冷や汗がでてくる。

背筋をのばして深く息を吸い、においの幻覚を追いは らおうとしたとき、スピードを落としている車が窓から見えた。車がすこしでも速度をゆる めると気づき、だれかがうちの前に駐車するとそれがわかるようになっている。ここ何時間 か、くり返しその音を耳にしている。通りがかりの人が好奇の目をむけ、近所の人たちが見 物しようと道のまんなかでとまるのだ。私は感情の波に翻弄されている。あるときは途方に 暮れ、あるときはおそろしくなる。疲労困憊 した状態か高揚へ、うつ状態から平静へと気 分が大きくゆれ動く。そしてその下には、まるで血液にガスがたまっているかのように、興奮がうずまいている。 表で車のドアがしまる音がした。

「今度は何なの?」私はぶつぶつ言った。「だれがきた の?FBI?」べつのひきだしをあける。「マリーノ、もうがまんできない」みんなを追 いやるように手をふった。「あの人たちを家からでていかせて。ひとり残らず。いますぐに」 熱いアスファルトの上にたちのぼる陽炎のように、怒りがゆらめく。「そうすれば荷造りを 終えてここからでていくから。私が家をでるまでのあいだも待てないというの?」ソックス をとりだす手がふるえる。「庭にいるだけでもいやなのに」ソックスをバッグに投げいれる。 「ここにいるだけでも最悪なのに」またソックスを入れる。「私がでていってから戻ってくれ ばいいでしょう」もう一足ソックスを投げたがはずれ、かがんで拾った。「せめて自分の家 のなかを自由に歩きまわらせてくれてもいいじゃない」もう一足とりだす。「そしてだれも いないときに静かにでていかせてよ」ソックスをひきだしに戻した。 「いったいなぜキッチンにいるの?」気をかえてさっき戻したソックスをまたとりだす。

「書斎にもよ。書斎には入らなかったと言ってるのに」 「いろいろ見てまわらなきやなんねえんだよ、先生」と、マリーノは言う。 彼は私のベッドの足のほうへすわったが、それがまたしゃくにさわる。ベッドからおりて 部屋からでていってと命令したくてたまらない。マリーノを私の家から、そして私の人生か ら追いだしたい衝動にかられた。彼とのつきあいがどんなに長かろうと、どんなに過酷な体 験を共有していようと、この際関係ない。 「ひじの具合はどうだ、先生?」マリーノは私の左腕を煙突のように固定しているギプスを さしてきいた。 「骨が折れてるの。ものすごく痛いわ」必要以上に力をこめてひきだしをしめる。「薬、飲んでるか?」 「飲まなくてもなんとかなるわ」 マリーノは私の一挙一動を見守っている。

「薬をちゃんと飲まなきゃだめだよ」 突然、ふたりの役割が逆になってしまった。私が粗暴な警官のような態度をとり、マリー ノのほうが弁護士で医者である私のように、落ち着いて理性的にふるまっている。 シーダー材で内張りされたクローゼットに戻り、ブラウスをとってスーツケースにおさめ はじめた。上のほうのボタンがはまっていることを確かめ、シルクやポリッシュト・コット ンの生地のしわを右手でのばす。左ひじは歯痛のようにずきずき痛み、ギプスのなかの腕が 汗をかき、かゆい。 今日は一日の大半を病院ですごした。骨折したひじにギプスをはめるのに、それほど時間 がかかるわけではない。しかし医師たちはほかにけががないか、念入りに調べるといってき かなかった。家から逃げるとき正面の階段でころんでひじを骨折しただけで、ほかに異常は ない、とくりかえし説明したのだが。ジャン・バプティスト・シャンドンは一度も私にはふ れなかった。大丈夫よ、ほかにけがはないわ、とレントゲンをとられるたびに言いつづけ た。だが病院のスタッフは午後遅くまで私を帰してくれず、刑事たちが検査室をでたり入っ たりしていた。

彼らは私の服をもっていってしまい、姪のルーシーが着るものをもってこな ければならなかった。睡眠はまったくとっていない。 電話が金属片のように空気を切り裂いた。ベッドのそばの内線電話をとりあげる。「ドク ター・スカーペッタですが」受話器にむかって言うと、名前をなのる自分の声が、夜中にか かってくる電話を思いださせた。刑事がどこかでおこった死亡事件についての、気の滅入る ような知らせを伝える電話だ。いつもどおりの事務的な応答は、いままで避けていたイメー ジを呼びおこした。ベッドに横たわる私の無惨な死体。血がとび散ったこの部屋。私が殺さ れてだれかが現場にいかなければいけない、と電話でどこかの刑事、たぶんマリーノから伝 えられたときの副検屍局長の顔。そうしたものが目にうかんだ。現場へはいったいだれがい くだろう?うちの局からはだれもいくことができない、とふと思った。

私はバージニア州が国内でも最高の災害対策計画をたてるのを手伝った。検屍局は大規模 な航空機事故やコロシアムの爆破、洪水などには対応できる。だが私の身に何かおこったら どうなるのか?近くの管轄区、たぶんワシントンから法病理学者をつれてくることになる だろう。ただ問題は、私が東海岸のほとんどの検屍官と知り合いである点だ。私の死体の検 屍を手がける人には同情する。犠牲者を知っていると、仕事は非常にやりにくい。おびえた 小鳥のようにこうした考えが頭のなかを飛びかっている間に、何かいるものはないかと、ル ーシーが電話できいた。大丈夫よと答えたが、そんなはずがない。 「大丈夫ってことはないでしょう」と、ルーシーは言った。 「荷造りしてるの」と、教える。

「マリーノがここにいて、私は荷造りしてるところ」凍りついたような目でマリーノを見つめながら、くりかえした。彼はあちこちに視線をさまよわ せている。マリーノが私の寝室に入るのは、これがはじめてであることに思いいたった。彼 が何を想像しているかは考えたくない。マリーノとは長年のつきあいだが、彼の私への尊敬 の気持ちが不安定で、恋愛感情がまじっていることに前から気づいている。 マリーノは図体の大きな男で、太鼓腹がつきでており、不機嫌そうな顔をしている。さえ ない色の髪は、ぶざまにも頭から体のほかの個所へ移ってしまっていた。電話でルーシーの 声をききながら、マリーノの目が私のプライベートな部分をさぐるのを感じた。ドレッサー やクローゼット、ひらかれたひきだし、私がスーツケースにつめているもの、そして私の 胸。ルーシーが病院にテニスシューズとソックスとスエットスーツをもってきてくれたが、 ブラジャーのことは考えなかったらしい。そこでしかたなく、ここへ帰ったときに、家で雑 用をするときにうわっぱりがわりに着る、古いだぶだぶの白衣をはおった。

「おばさんも、そこにいるなって言われたのね」ルーシーの声がきこえてくる。 長い話になるが、姪はアルコール・たばこ・火器局のエージェントだ。警察は捜査をはじ めるとすぐに彼女を私の家から追いだした。多少知識をもっているものは危険なのだろう か。警察は連邦捜査官が捜査に介入することをおそれたのかもしれない。理由はよくわから ない。とにかくルーシーは昨晩私が殺されかけたときにいあわせなかったこと、いままた私 のそばにいないことに罪悪感を感じている。私はすこしも彼女を責めていない、とはっきり 言った。 だがそう言いながらも、もしシャンドンがきたときに、ルーシーがよそで女友達の世話を するかわりにここにいてくれたら、状況はどんなに変わっていただろうと思わずにはいられ なかった。シャンドンは私がひとりではないことを知って、家に近づかなかったかもしれな い。あるいは、ほかの人が家にいることに驚いて、逃げだしたかもしれない。

あるいは私を 殺すのを明日かあさっての晩まで、クリスマスまで、もしくは二〇〇〇年までひきのばした かもしれない。 ルーシーが早口で説明したりまくしたてたりするのをコードレスホンでききながら、歩き まわった。姿見にうつった自分の姿が目に入った。短いブロンドの髪は乱れ、青い目はどん よりして疲労とストレスのためにしょぼついている。まゆをひそめた顔は、しかめ面のよう でも泣き顔のようでもある。白衣はしみだらけでうすよごれ、およそ局長らしくない。顔は ひどく青ざめている。酒とたばこがほしいという気持ちがいつになく強く、がまんできない ほどだ。まるで殺されかけたことによって、瞬時にアルコールとニコチンの依存症になった かのようだ。 自分の家にひとりでいるところを想像した。

何もおこってはいない。暖炉の前でたばこと フランスワインを楽しんでいる。ワインはボルドーがいい。バーガンディーほど複雑ではな いから。ボルドーは、腹をさぐる必要のない昔からのよい友達のようなものだ。私は夢想するのをやめ、現実に直面した。ルーシーが何をしたか何をしなかったかなど関係ない。シャ ンドンはいずれ私を殺しにきただろう。おそろしい天罰が一生私を待ちうけていたかのよう に感じる。死の天使が私のドアに印をつけたかのように。だがふしぎなことに、私はまだこ こにいる。本文P.7〜16

 

 

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