仁淀川 によどがわ
 
 
  昭和二十一年秋、満州から引き上げてきた二十歳の綾子。戦後の混乱と復興のなかでの、綾子の苦難と葛藤、最愛の母喜和と父岩伍の死までを描く待望の長篇  
著者
宮尾登美子
出版社
新潮社
定価
本体 1800円(税別)
ISBN4−10−36850−4

故郷の山河

第一章

故郷の山河 秋の陽ざし降りそそぐなか、目に沁みるぼど鮮やかな緑の野菜がいちめんに拡がっている畑 の道を歩いているとき、地響きにも似たその水音を綾子の耳は捉えた。 轟々ととどろき、どうどうと響き、そして縷々と絶えないその音を聞いた瞬間、綾子は思わ ず我を忘れて駆け出していた。畑の道から土手まではゆるい坂ながら、両手に荷を提げ、美耶 をおぶった身ではすぐぜいぜいと息切れするのもかまわず、一気に登り切ったその眼下には、 豊かな仁淀川の水をここで仕切った八田堰の、一年半まえとすこしも変らぬままの姿があった。

堰は、こちらの岸から、人の形が豆粒ぼどに見える向う岸まで、地鳴りをあげて水を下流に 落しており、その直線の横列はまるで一枚のガラス板のように光って見える。午後の陽ざしは おだやかだが、奔騰する水は荒々しいぼどの勢いで四方八方に砕け散り、その飛沫はそこここ に小さな虹を作っている。豊かな水は川上から絶えまなく無尽蔵に来り、この堰で遊んではま たはるかな下流へと分散してゆく。

何という清らかな水、何という豊富な水量、綾子は呆然と土手に突っ立ったまま、長い時間、 仁淀川の姿に目を注ぎ続けた。昨年三月末、満州へと旅立つ朝、この土手を今日とは逆に伊野 駅へと向う途中、たしかにこの堰にも目をとめたはずなのに、川はいま、綾子にとって生まれ て初めて出会ったような、この上ない清冽無垢な姿に見えた。 考えてみれば、出発の日からつい五日まえの、葫蘆島から引揚船に乗り込む日までの一年半、 綾子は一度も、このように澄んで美しい水に出会ったことはなかったと思った。

出発は終戦の年の昭和二十年、空襲のなかをかいくぐって、小学校教師の要とともに渡満し た綾子だったが、暮し始めてみて何よりも悲しかったのは水の悪さであった。 大陸でも大都市は水道が完備されていたが、任地の開拓団入植地では水は全部露天井戸を掘 って使い、汲み上げると赤土を溶いたようなどろりとした水が上ってくる。 十分に煮沸して飲んでも、これでは一人の例外もなくアミーバ赤痢にやられ、無医地区では 薬もないまま、何とかやりすごしているうち水に馴れ、ようやく大陸向きの体ができ上ってく るという経験を、綾子も通ってきている。

こんな濁った水でも、せめて豊かに地下から湧いてくれれば洗濯でもできるのだけれど、雨 の少ない大陸では、少し気張って使えば井戸はすぐ干上がるし、住居の近くの飲馬河も、怒れ ば洪水となるものの、常時はからからの涸れ河川なのであった。 ましてや終戦直後から家族三人収容されていた難民収容所では水は最高の貴重品、難民の分 際で自由に使える道理もなく、綾子は今日まで、ろくに口をすすいだことなく、風呂も一年以 上入ったこともない。冷たく透きとおった水など、もはや望んでも得られぬもの、と生活感覚 から遠く遊離していた綾子に、この豊饒な景観と水音は鮮烈であった。

ここは正しく水のきれいな日本、日本のなかの高知県、高知県の吾川郡、吾川郡の仁淀川の 岸にいま、あたしはいる、といく度もひとつひとつ自分に向っていい、その言葉がまるで酒の 酔いのように体のすみずみまでをめぐったとき、綾子はいい知れぬぼどの安堵をおぼえた。 引揚船が佐世保港に着き、一年半ぶりに日本の山々を見たときも涙が滝のように落ちたし、 さきほど、伊野駅で下りたとき、駅舎のまわりにコスモスの咲いているのを見ても胸が熱くな ったけれど、それにも増してこの千年変らぬ清い水の流れは綾子に大きな安定感を与えてくれ たと思った。

終戦から引揚げまでの一年間、大陸の情勢はめまぐるしく変り、収容所のあった営城子炭坑 の倉庫から社宅へのすしづめの割当て、そのあと九台かまぼこ兵舎から新京(長春)の収容所 へと、デマにおびえながら移動させられ、そのたび、明日はどこへ追い立てられるか、行き先 は安全か、食糧は支給してもらえるか、不安にふるえていたことを思えば、ここはようやくに して辿りついた終着点なのであった。 この八田堰は藩政時代、山内家の家老野中兼山が吾川郡一帯の灌漑のために建設したもので、 仁淀川の堰ももう一ヶ所ある。

要の家の前を流れる川も八田堰から分水したもので、いま綾子が立っている土手からはゆる い坂の行当峠を直角に曲れば、もうそこは桑島村上であった。いつまでも川を眺めている綾子を要が促し、背中の美耶と三人、ゆっくりと歩き出したが、 その風体はたまさかすれ違うひとたちが振返っては立って眺めるぼどの印象であったらしい。 さきぼど汽車から下りたあと、引揚事務手続きのため、三人は駅舎の隣の地方事務所に寄った が、そのとき誰かが、 「や、汚い。乞食が来た」 といったのを綾子は耳に止めているし、手続きのあいだ中、ドアのあいだがら女子職員たち の顔が打重なってこちらを覗いていたのもおぼえている。

それに事務担当者は、偶然要の小学校の同級生だったが、彼は級友との久し振りの邂逅にも 多くの言葉を発せず、ただ固い唾を飲み込み飲み込みしながら、書類を作っていたのも目にと どめている。 このとき綾子と美耶は、新京で東亜楼の女将から恵まれた端切れでかろうじてもんぺという 衣服を身につけてはいるが、要は、綾子がゴミ箱から拾ってきた麻袋で縫った半ズボンをはい ており、三人ともその衣服は着たきり故に汚れに汚れ、その上、一年以上も顔も体も洗ったこ ともないために、自分では判らないが、たぶんかなりの異臭を放っていたものとみえる。

また栄養失調の果ては皮膚病にあらわれるといわれるとおり、三人とも、掻いても掻いても かゆみのとまらぬ疥癬にも全身おおわれており、誰が見ても、襤褸と瘡蓋にまみれた乞食以外 の何者でもないことは綾子もよく判っている。 飲馬河の住居で暴民に襲われ、文字通りの無一物で逃れてから一年、その間、どれだけ多く の人たちから最低の難民、乞食以下、と指差されてきたか、しかしそれは正しく事実であった し、抗弁する気持もないままに過してきた月日であった。 いま、地方事務所や、道で行き交う人々の好奇と蔑みのまなざしに出会っても、もはや綾子 は何とも思わなかった。

馴れるとはおそろしいもので、これ以下はないというところまで落ち てみれば、いっそ気は楽になり、ひそひそ声もどこ吹く風、とうそぶいていられるようになる。 その居直りの底には、こうなったのも自分の不心得じゃないよ、戦争のせいよ、といいたく なる気持もないではないけれど、それは同じ境遇の人間ばかり集った引揚船限りのこと、上陸 し、こうして平和を取戻した故郷に戻れば、綾子はともかく要は多少なりとも人の視線が気に なるらしく、さっきよりはいくらか急ぎ足になってくる。 分水の地行当の水門からは桑島上、中、下三村までずっとまっすぐな一本道、流れに沿って 下ってゆくと綾子には見おぼえのある家々、田畑、道のわきの栴檀の木、片側の流れにかかっ ている古びた一本橋などつぎつぎに過ぎ、そしてここで少しカ−ブしている三好家の笹竹の垣 と、家の隅の肉桂の木が見えて来た。

秋の陽はあまねく照り、時刻は午後三時ごろとおぼしく、綾子は門に入るまえ、 「お母さん、いまごろ家におるかしらん」 と眩くと、要も足をとめて、 「祖父さんだけじゃないかねえ。たぶん」 と、ついそこの外出先から戻ったように気軽くいい、それから綾子と並んで門の前に立ち、ちょっとの間、一年半留守にしていた家を眺めた。 コンクリートの門柱ふたつ、笹垣の内側左は便所と風呂があり、右側には倉、正面梅と紅葉 の植込みの奥の坪庭をへだてた藁葺きの母家はかわりなく、左手納屋とその向うの釜屋も、当 然ながら二人の出発前とは何の変化もなかった。

家のうちはしん、としており、門に続く飛石を渡ってもう一度坪庭を見渡したとき、陽の当 る縁側で杖をかたえに、祖父が日向ぼっこをしているのを綾子が見つけ、 「お祖父さん」 と駆け寄った。 祖父は驚いて見えぬ目を見張り、 「誰ぞ?姉か?」 と確かめ、要がそれに、 「祖父さん、戻んだよ」 というと、さもほっとしたように、 「そうか、そうか、二人とも戻んだか。 子はどうした?」 としわ手を宙に這わせるのへ、綾子は美耶をゆすり上げて傾け、その手に小さな手を触らせ ながら、 「美耶も元気で戻り着きました」 というと、今年八十三歳は耳だけはまだしっかりしていて、少しむずかる声のぼうに顔を白 け、いかにも嬉しそうに、 「そうか、そうか、子も戻んだか。三人揃うて戻んだか」 を繰返している。 そのうち、 「おっ母がどれぼど案じよったか。

一時は三人とも死んだもんとあきらめちよったきにのう」 ,と義歯の具合の悪そうな口ぶりでそう伝えた。 綾子は、内地の肉親は皆、自分たちがとうに死んだであろうと考えているのを予想してい上 し、無事生還したからにはその言葉はもう過去の話、として聞き流してしまったが、祖父は出 身の不安と憂慮を、嫁のいちの心情に託して明かしたものであったろう。 そして旅装を解くために皆釜屋に入り、以前どおり寸分も変っていない土間のたたずまい〔 一隅の畳の上に美耶をおろした。

汚ないリュックと、襤褸同然のものしか入っていない風呂乱 包みなど土間に拡げているとき、納屋の入口で,バタ、バタと気配があったと思うと釜屋の腰高 障子ががらりと開いて、弾んだ声の、 「よう戻んたねえ」 と満面笑顔の姑のいちであった。 このとき要が挨拶したかどうか、綾子はおぼえていないが、嫁としては、 「お母さん、ただいま戻りました」と頭を下げると同時に、 「美耶です」 と、坐っている子を押出した。 全身瘡蓋だらけの美耶は、このとき栄養不足で弱り切っており、痩せた足を投げ出してかろ うじて体を支えている様子だったが、いちは目を輝かせ、飛びつくようにして手をさしのべ、 「おお、おお、美耶ちゃんか、美耶ちゃんか。大きゅうなったこと。

さあ、おいでおいで」 と抱こうとしたところ、美耶は世にもつらそうな表情を浮べ、「あ−あ−」と消え入りそう に力ない声をあげて泣き出した。 それは赤ん坊の人見知り癖などではなく、綾子にだけはよく判る、おびえ切ったいかにも悲 しそうな泣き声であった。 いちは、ひょっとすると我が子の要よりも孫の美耶を見たさに今日の日を待っていたであろ うと思われるだけに、美耶のこの嫌がりようは姑に申しわけなく、綾子は、 「美耶ちゃん、ぼらおばあちゃんよ。美耶ちゃんを待ちよってくれたのよ。ほら、『ただいま』 いうて」 となお美耶を押しやろうとしたが、美耶は母親にしがみついて拒否するぼどの力はないまま、 弱々しい声と大粒の涙をこ、ぼしながら泣くだけであった。

このとき、一瞬ではあっても気まずい空気が流れたのを綾子は感じ取っていたが、さすがに いちはすぐ笑顔を取り戻し、 「無理もない、無理もない。この子と別れたのは生れて五十日目じゃったもんねえ。 あれから「年半も経つきにねえ。そのうち馴れてくれるろう。 それより皆、息災で戻んでくれたきに、よかった、よかった」 といいつつ、いそいそと小枝を折って焚きつけ、茶を沸かす用意をしている。

綾子は、美耶の生気のない様子を見て、この一年の収容所生活の光景が脳裏によみがえり、 赤ん坊ながら恐怖のいろを目に浮べたのはそのせいなのだと思った。倉庫のなかの集団暮しで は隣との境目もなく、老若男女いわば一家のかたちなのだけれど、そこに住んでいたひとたち は同居人と言葉を交わすことなど、ほとんどありはしなかった。 まして、乳幼児など飢えと疫病のために死んで当然だったし、よその子供をあやしたり、話 しかけたりする人など見たこともなかったのを今さらのように思い出す。そして時折、育て切 れなくなった幼児を乞われて中国人に預けたり、連れて行かれたりの話も聞き、こういうなか で子供を伴って引揚げて来るのは、大人も子供も運を頼み、というしかないぼど大へんなこと であった。

綾子も、人にはいえぬ心のうちを覗けば、空腹に耐えかねて美耶を一円のもち一個と交換し ようとの誘惑に駆られたこともいく度かあったし、第一、親も十分に食べられない毎日、美耶 にはいったい何を食べさせていただろうと、いまもってそれが思い出せないのである。もちろ ん母乳など出るわけはなく、たぶん配給される朝夕一椀の高粱粥の、自分の分のほんの一部を噛んで与えていたのではないかと推測されるが、赤ん坊ながらもこんな年月を過した美耶が、 両親以外の人間が近づけばおびえるのは当然のことであったろう。

子供ながらも本能というものが働けば、美耶はいちを見て、単に人見知りをしたというので なく、このひとは自分を危険な目に遭わせるため近づいたのだと用心するにちがいなく、しか し逃げようにも弱っていて足も立たず、悲鳴もあげられないのを悲しく思ったのだと綾子は判 る。 そう思えば綾子は美耶が不感になり、このさき、この子が果していちと親密な祖母と孫の間 柄になれるだろうかと、ふっと暗いものが過るが、いやいやここはもう日本、と不吉なかげを ふつ切って美耶を膝に乗せた。 そのうち、しゅんしゅんと音がして湯が沸き、いちが大きな手で茶葉代りの岸豆を掴んで、 見馴れた薬罐の蓋をあけて入れるととたんに香ばしい匂いが釜屋に拡がり、湯呑みには鮮やか な黄いろの岸豆茶が注がれた。

「まあ岸豆、なつかしい」 と喜ぶ綾子に、釣り籠の蒸し芋をいちはおろしてすすめ、それを見て要は、 「高系四号かねえ。よう肥っちょる」 というと、いちは、 「まだ掘るにはもったいなかったが、今日は何やらええことがあるような気がしてねえ。 まあ試し、と思うて昨日ちょびっと掘って今日はじめて蒸したところ。 存外甘いねえ」 と目を細める。 話によると、終戦以来要たち三人の生死はなかなか知れず、高知のお父さん、といちが呼ぶ 岩伍からは手紙が届き、もう少し待っても消息が知れなかったら、仮りの葬式をすることにし ましようか、との相談もあったという。

それが三人とも生きてあり、長春第一〇七大隊に所属して引揚げの日を待っている、という 知らせがもたらされたのは、一ヶ月ぼど以前のことだった。引揚援護局から伊野地方事務所に 連絡があり、その吉報を届けてくれたのは、この村から伊野へ自転車通勤しているあの同級生 であったという。そう聞くと、事務手続きのあいだ中、ほとんど無言のまま、硬ばった表情だ った彼は、あのとき、昔馴染みの「かなちゃん」のあまりの痛ましさに、いうべき言葉がなか ったというところらしかった。

しかし、生存の知らせばもらっても、いつ帰り着くかの連絡はなく、今日か明日か、と心待 ちにして、昨日は虫の知らせかまだ早い芋掘りをしておいてよかった、といちがいうのへ、要 が、そんなら、日頃陽が暮れなければ野良から帰らぬお母さんが、電話もないのにおれたちの 戻りを知ったのはなぜ?それも虫の知らせかね、と笑うと、 「私が畑におったら、上の安さんが堤防の上から『お一い、いまかなちゃんら三人が戻りよる ぜよ、早う家へ去んじゃりや』と大きな声で怒鳴ってくれた。そんじゃきにすんぐに戻ってこ れたわね」 本文P.7〜17

 

 

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