序章
如是我聞一時仏住西方沙海中説舎利経法
かくの如く、我聞けり。ー時、仏は西方の沙海
の中に住したまひ、舎利の経法を説きたまふ。
目の前に鉛色の風景がひろがっていた。一面を灰色の雲に覆われた空には、ところどころ、ひときわ黒いすじ雲が渦を巻いている。たぶんもうすぐ雨が降り出すだろう。大気はすでに雨の匂いを含んでいた。その下の海はどんよりと濁り、風にあおられて盛り上がった波濤さえ灰色だった。風は西風。四角い帆をふくらませ、耳元を吹きすさぶ風。故郷に向かって吹く風……。故郷か……。木造船のへさきあたりに立って、前方の海を見つめていた円載は、自分の考えていることがおかしくなって、皮肉な笑みを浮かべた。この海の向こうに故郷がある。だが、いったい故郷とはなんだろうか。日本を離れて、もう四十年になる。もはや、円載の人生のうち、唐で暮らした年月のほうが長かった。実際、唐の言葉で話すほうが、ずっとわが身にしっくりくるようになっている。
四十年の歳月は、希望と野心にみちた留学僧を、ただの老いぼれに変えてしまった。円載はすでに七十歳になっている。こうして指先で触れると、顔に刻まれた深いしわが感じとれる。もう先は長くないだろう。そんな老人を、危険な海の旅に駆り立てたものはなんなのか。海を渡ることがどんなに危険か、円載はよく承知していた。なにしろ、唐にやってきたときには、暴風雨に巻き込まれて、あやうく死にかけたのだから。望郷の念だろうか。だが、円載にはもう、どこが自分の故郷かわからなくなっている。仮に日本に無事帰り着いても、肉親が存命とは、とても思えなかった。異国とはいえ、唐には少なくとも、友人たちがいる。いまさら日本に帰っても、円載を知る者が残っているのか。
昔、はるか昔に別れたきりの円仁は、生きて迎えてくれるだろうか。やはり昔、天台山で会った円珍は……。円載の頬に、また皮肉な笑みが浮かんだ。燃え上がる野心と、その裏腹にある不安とがないまぜになった円珍の顔を思い出す。かつての自分そっくりだった。円珍は、円載が国清寺の広修座主から得た解答に不満を持っていた。自分こそ誰よりも仏道を熟知していると思い込んでいた。狭い島国で頭でっかちになった円珍。ばかばかしい。円載自身、広修座主の
解答が完全なものであるとは考えていなかった。天台山の教えを鵜呑みにして崇めたてまつるのも愚かなら、自分たちは唯一無二の真理を見いだしたと思い込むのも愚かなことだ。円載が天台山で学んだ最大のことは、仏の道には限りがないということだった。
天台山に収蔵された何万、何十万もの経典や経論疏を目のあたりにしたとき、円載は眩量を感じた。これらすべてを読み解き、仏の真理に迫るには、何百年もの時間が必要だろう。四十年間にわたって勉学をつづけた円載自身、深甚なる仏の教えをほんのわずかかじったにすぎない。すべてを知りつくしたいという欲望に比べて、人生はあまりにも短すぎた。知りたいだけのすべてを学ぶ時間がない。もしかしたら、これこそが人間の持つ最大の煩悩かもしれない……。円載は苦笑した。
ふと、船倉に収めた経典の一節が頭に浮かんだ。智慧の門は解り難く入り難くして、知る所なり。唯仏のみ是を経典……。そう、円載が帰国を決意したのは、望郷の念からではなく、あの経典を持ち帰りたかったからだ。比叡山の誰も知らない経典。円載にとっても謎めいた経典。そして、あの変化観音……。「上人……」背後から、ひかえめな声がかかった。振り返ると、従僧の智聡が思いつめたような顔で立っていた。「どうやら嵐になるようです。ここは危のうございますから、船のなかにお戻りになっていただけませんか」「そうか。わかった」円載と智聡は甲板を戻っていった。
新羅人の水夫たちが忙しそうに帆を調整している。ひどい嵐になるのかもしれない。暗くけぶった空を見上げる瞳通りすぎるとき、赤ら顔をした水夫のひとりが吐き捨てるようにつぶやいた。「妙なものを載せるから嵐に遭うんだ」だが、円載は気にもとめず、振り向きもせずに、船内に消えていった。元慶元年、西暦八七七年の出来事である。
第一章
蒼い月
三千大千世界非在唯六趣四生衆生過去有仏現在
有仏未来有仏仏処無量無辺不可思議阿迦尼托天
心得自在入三昧我等不能瞻仰
三千大十世界には、唯六趣四生の衆生のみ在る
に非ず。過去に仏有せり。現在に仏有す。未来
に仏有さん。仏は無量無辺不可思議の阿迦尼吃
天に処し、一に自在を得、三昧に入りたまひ
て、我らは晦仰ること能はず。
1
自宅から通じるアルミサッシのドアをくぐって、君枝はアパート一階の薄暗い土間に出た。天井に並ぶ蛍光灯は四本あったが、一本はまったく点かないし、残り三本も切れかかっていて、しゃっくりするように不安定に点滅している。まるで腐りかけたように両端が黒ずんだ蛍光灯は、すぐに取り替えるのが、店子に対する大家の義務だろう。だが、大家には一つまり君枝には一いまのところ、そんな気はかけらもなかった。義務と権利はコインの両面だ。店子のほうもきちんと義務を果たすのなら、考えてやらないこともない。不充分な照明のおかげで、土間や壁のコンクリートに浮き出た染みや亀裂はかき消されていた。
君枝は月に一度、夜しかアパートにやってこないので、そんなものははなから存在しないと考えていた。まずは一号室の老人だ。磨りガラスの小窓から明かりが漏れているから、部屋にいるはずだった。何よりも、ガラスを爪でこするような音色が聞こえてくるのだから、間違いない。君枝は薄っぺらい木製のドアをやや乱暴にノックした。それでも、いささか耳の遠くなった老人を呼び出すには、少し時間がかかった。「はい」半開きのドアから顔を出したのは、腰の曲がりかけた老人で、コールテンのズボンに古びた茶色の上着を着て、まだ左手にヴァイオリンを持っていた。痩せさらばえた貧弱な顔つきで、頭はすっかり禿げ上がっている。
「あの、お家賃をいただきに来たんですけど」君枝が単刀直入に切り出すと、老人はしわだらけの顔を卑屈に歪めて、「ああ、もうそんな日にちゃったか……。すんませんが、もうちょっと待つちゃらんですか」「もうちょっと、もうちょっとって、三ヵ月もたまってますよ」「すんません。商売のほうがうまくいかんけん、わしも往生しとるとです。ほら、こげな不況じゃけん、客も財布のひもが固うて固うて……」老人は大道芸人と自称していた。路上でヴァイオリンを弾いて、逆さに置いた帽子のなかにほうり込まれる金で、生計を立てているらしい。
いまどき福岡市内ではほとんど聞かれない博多弁まるだしの言葉づかいは、おそらくは観光客を喜ばすため、身に染み込んだものだろう。金がない真の理由は、バブル以後の日本経済の停滞ではなく、老人の音楽的才能にあるのではないか、と君枝は思っていた。毎夜毎夜、ぼろぼろになりかけた譜面の束を見ながら、練習と称して奏でるヴァイオリンの音色は、手習いに通いはじめたばかりの三歳の子供よりひどかった。小銭を投げるどころか、逆に精神的苦痛の慰謝料をもらいたいくらいだ。語気を強め、きつい言葉を投げかけても、老人は頭を下げ、謝りつづけるだけだった。こうなっては何を言っても無駄だ。「来月は必ずお願いしますよ」根負けした君枝がそう告げると、老人はほっとした顔でドアを閉めた。二号室の男は画家と称していた。それも、雑誌の挿絵や街頭で似顔絵を描いているわけではなく、「芸術家」なのだという。
実際、男はほとんど部屋の外に出ず、いつもキャンバスに向かって、何やら描いていた。君枝には芸術はわからない。男の絵を見せてもらったことすらない。ただ、芸術家を店子に持つ大家の苦労だけは、身にしみて知っていた。今夜も、画家は平然と「金はありません」と答え、君枝がヒステり一を起こしかけると、不遜な口調でこう言った。「大家さん、もっと長い目で物事を見なければなりませんよ。芸術家は誰しも、若い頃に貧困を経験するものです。振り返れば、そんな青春時代がなつかしく感じられるものだ。ご存じですか?若き日のピカソはたった一着しか上着を持っていなかったんですよ」まるで、自分は古着屋で買った上着を三着持っているから、ピカソの三倍有名になる、と想定しているような口ぶりだった。
君枝はため息をつき、十年後に五千万円ほど払ってもらう約束でがまんすることにした。来月、画家が餓死か夜逃げをしていなければの話だが。三号室は空室だったし、四号室の住人は夜勤つづきで部屋にいなかった。君枝はアパートの外に出て、二階につづく階段を昇った。薄雲がまだらになった夜空に、真ん丸い月がかかっている。雲を通ってかすかに青みを帯びた月光が、アスファルトの舗道をほのかに照らしている。君枝は錆びついた階段に立ち止まり、ふと、遠くの電柱のあたりに目をやった。何かが動いたように見えたからだ。そう思って目を凝らすと、電柱の陰に誰か立っているような気もした。じっと見つめても、人影らしきものは動かなかった。
目の錯覚だろう、と思って、君枝は骨の折れる集金作業をつづけることにした。たったふたりきりの二階の住人のうち、ひとりは不在だった。東南アジアか中東からの出稼ぎ労働者らしいその男は、入居するときは堪能に日本語をあやつったが、不思議なことに、家賃の話題になると突然カタコトになるのだった。さて、最後は八号室だ。君枝は安堵の息をついた。問題児ぞろいの店子のなかで、この八号室の榊原だけは優等生だった。ドアをノックすると、榊原は無言で顔を出した。「あの、家賃をいただきに来たんですが」君枝が愛想のいい笑顔を見せても、榊原はなんの返事もせず、黙りこくったまま、部屋に引き返していった。まったく妙な男だ、と君枝は思った。
榊原はいつもサングラスをかけていて、ほとんど口を利かない。鋭角的な顎を横切る薄い唇は、きつく結ばれ、笑みを浮かべたのを見たこともなかった。たぶん人間嫌いなのだろう。榊原は玄関に戻ってきて、君枝に茶封筒を差し出した。開くと、新品の一万円札が六枚入っていた。「いまお釣りを持ってないんですけど……」ポーチのなかの小銭を数えた君枝が、困り顔でそう言うと、榊原はようやく口を開いた。「いつでもいいですよ」そして、ドアを閉めた。無愛想ったらありゃしない。鼻先でドアを閉められた君枝は、少し不機嫌になった。だが、人間には誰でも欠点がある。貧乏という欠点より、無愛想という欠点のほうが、君枝にはありがたかった。ポーチの奥に茶封筒を押し込むと、君枝は二階の廊下を戻っていった。階段口に来たとき、視線が自然と遠くの電柱に向いた。人影らしきものは、いまも立っていた。誰かが電柱の陰に隠れ、身を押し縮めているように思えた。君枝はなんとなく気味が悪くなってきて、軽く身震いすると、カーディガンの前を合わせて、足早に階段を降りていった。本文P.10〜20より
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