第一話
ブルマもハンバーガーも居酒屋の梅干で消えた靴と博士たち
1 水柿君は、国立大学の助教授である。所属は工学部の建築学科。専門は建築材料で、その関連
の講義や実験を担当している。今年で三十三歳。よく独身と間違われるが、それは、大学に夜遅 くまで残っているからなのか、あるいは、どことなく冴えない風貌そして身の回りの状況から判
断されるものか、理由はわからない。女性に対してはほとんど興味を示さず、また、縁があるよ うにも見えない。ところが、二つ歳下の須摩子さんと結婚したのは、彼が二十四歳のときだった
ので、恋愛期間を含めればかれこれ十年以上にもなる。趣味が多く、移り気な水柿君にしては、 奥さんは長く続いている、と分析好きの親友たちの声も聞かれるが、熱しやすく冷めやすいのは
水柿君の外見上の性格であって、実は意外に執着する人間であることを知っている人は少ない。
水柿君の趣味は模型工作だ。主として飛行機や鉄道関係のミニチュアを好んで作る。仕事は大
学の研究室でしかしない主義だったので、自宅には専門書が一冊もない。テレビを見たり音楽を 聴いたりする趣味はなく(昔はあったのだが)、食事をてきぱきと済ませると書斎に閉じ寵も
り、デスクに向かって工作に熱中するのが水柿君の日課だ。彼の人となりに関するディテール は、物語の中でおいおい明らかになる。ここではこのくらいに留めておこう。
一方、奥さんの須摩子さんであるが、こちらは実に気さくで、はっきりとした人柄だ。暖昧で 内向的な水柿君とは対照的といって良い。
一晩寝ればリセットされる一昔まえのパソコンのよう な人で、しかも、どんなことがあっても(たとえば、ディープ・インパクトのようなパニックが
あっても)夜は所定の時刻には布団に入る。天体の運行のように規則正しい生活を堅持してい た。昼間も寝ていることが多いのだが、だからといって、夜に眠れなくなることは絶対にない。
「寝るところが違う」と彼女は表現するのだが、そんなシュールな言い回しが通用する範囲は極 めて限られるだろう。 須摩子さんは、基本的には、読書とイラストが趣味だ。以前はステンドグラスなどの重工作に
凝った時期もあるが、体力が伴わないので最近諦めた。起きている時間は、たいていデスク(と いう名の炬燵である)に向かって本を読んでいるか、何か絵を描いているかのどちらかだ。
この 点で二人は似ている、といって良いだろう。夫婦でどこかへ出かけたりすることは滅多になく、
スポーツに興じるようなことはまず考えられない。暑いときに炎天下で汗を流したり、寒いとき にわざわざ雪を求めて出かけるような真似は、この夫婦には無縁だった。
そんな二人であるので、夫婦の会話というものは当然ながらそれほど多くはない。もちろん、 そんなものが必要だとも考えていない。 先日の日曜日、水柿君は、須摩子さんを助手席に乗せて車を運転した。郊外のショッピングセ
ンタへ食料品の買い出しにいったときのことだ。「ついにS女学園もブルマを廃止したんだって」 突然、須摩子さんが切り出した話題に、水柿君は驚いた。
しかし、驚いたような顔をすること は彼の場合はない。妻は何の話をしたがっているのだろう、とすぐに考え始める。
ブルマ? ああ、体育の時間に女子が穿くスポーツウェアの名称だな。 「廃止したっていうと……、つまり代わりに何か別のものを穿くことになったわけだね?」
「タンパン」須摩子さんは答える。 タンパン? 単パンかな……。もともと「複パン」だったものが、技術の進歩によって一つになって「単パ
ン」になったのだろうか。水柿君の頭には、複葉機から単葉機になった航空史が思い浮かんでい る。 あるいは、端パン、炭パン、短パン:::。
「ああ、そうか」思わず口に出る。 「何が?」助手席の奥さんがきいた。 「ズボンの短いやつのことだね?つまり、半ズボンだ」 「当たり前じゃない。ショートパンツ」
「いや、小学生のときだけど、僕、あれが不思議だったなあ。
長ズボンってのがあって、その半 分よりもずっとずっと短いくせに、半ズボンとはこれいかに」
「これいかに、なんて言わないでよ。恥ずかしい」 「いや、とにかく、半ズボンという呼び名は不適当だと思ったんだ」 「不適当なんて難しい言葉を知っていたの?小学生のくせに」
「今だったら、さしずめ、東急半ズボンって感じだな」 「さしずめ?鮨詰めとか、深爪なら言うけどね」 「だから、東急ハンズ本っていう、同人誌のジャンルでさ」水柿君は自分のジョークの手応えを
確かめようとして、やっきになって解説を付け加えている。こういうとき、人間は自分を見失 い、無防備になるものだ。 「何の話してるの?」にこりともしない須摩子さん。
というような、攻防があって、夫婦は理想形へとまた一歩近づくのだ(近づいてもしかたがな いが)。
柿君の住んでいる地区にある中学・高校一貫教育の私学だ。そこの女子学生を
近所でよく見かける。水色のリボンが特徴のセーラ服なので、そういったことに比較的疎い水柿 君でも、他の学校の生徒との区別くらいはできた。クワガタとカブト虫を選り分けるのと同様の
手法だ。このようなパーツによる識別は、基本的に幼稚である。カブト虫がダイバーシティアン テナを付けたり、クワガタがオーバーフェンダを装備して改造を施し、太いタイヤとかに履き換
えてくると、もう判別不能だ。 水柿君、自分の思いつきにぶっと吹き出す。「何にやにやしてるの?」 「あ、いや……」慌てて咳払いする水柿君である。
「私も、あれは嫌だったもん。ホント、この世から廃止すべきだよね」 「何を?」 「だから、ブルマ」 「ブルマを?」水柿君は意味がよくわからない。
「諸悪の根元。あれがもとで発生する犯罪もあると思うな」須摩子さんはいつもの口調である。
「そんなに嫌なものが、今までどうして廃止されなかったわけ?」水柿君は不思議に思って、素 直にきいた。 「そりゃ、いやらしい先生が猛反対していたんだね。きっとそう。小学校とか中学校にいるの、
そういう変態のセンコウがさ」 言葉が乱れてきたぞ、と水柿君は身構える。 ちょうど、そこで信号待ちになったので、水柿君は助手席の奥さんの顔を恐る恐る見た。
「なんか、不満そうじゃない」奥さんは水柿君を睨み返してくる。 「どっちかっていうと、短パンの方がいやらしくないか?」 「え?」と顔をしかめる須摩子さん。声が急に小さくなる。「何ですって?」
「ブルマって、そんなにいやらしいかなあ」 「うわあ!」須摩子さんは目を丸くする。
信号が変わったので、水柿君は前を向いて走り出す。 「信じられない、信じられない」ぶつぶつと呟く須摩子さんの声が横から聞こえた。
ブルマの話はそれっきりだった。明らかに、須摩子さんは気分を害した様子で、その後、ろく ろく口をきかなくなってしまった。水柿君は、理由がよくわからない。
しかし、理由がよくわからない、といった状況は、夫婦の間には日常茶飯事なのであって、こ の程度のことで紛糾したのでは、たちまち生活が立ち行かなくなる。細かい謎をいちいち解明し
ていたらきりがない。凸凹も、少々のギャップも、飛び越えて素早く走り去るのが、コツといえ よう。これが、「夫婦オフロードの教訓」あるいは、「夫婦ぜんざい一気飲みの教え」と呼ばれる
法則で、水柿君は、既にこれを心得ているのだった。
2
須摩子さんとは食料品売り場の前で別れ、水柿君は、書店へ足を運ぶ。これもお決まりのコー
スだ。食料品売り場に入るのが、水柿君は嫌いではない。だが、日曜日の午後のショッピングセ ンタといえば、大混雑なのである。どこも夫婦で買いものにきているから必然的に人口密度が高
い。頭を七・三に分けて光らせているのに、妙にカジュアルな服装の中年男性が目的もなく歩い ている。中年男のブラウン運動だ。水族館のペンギンの方が、これよりは確固たる目的を持って
いると判断できる。 「今日は家族サービスデーファッション」とでも呼べる極めて均一で統一された「似合わなさ」が際立つ装いである。
さらに、皆が揃ってのろのろとショッピングカートを押しているため、高
速道路の大渋滞にも類似している。平和といえば平和であるが、明らかに余分な人間がいるのが 原因であり、合理的な状況ではない。水柿君は、人混みが大嫌いだし、哀れで滑稽な男たちの姿
を見て「微笑ましいな」などと思えるほど人間ができていないのだった。 そういうわけで、書店に逃げ込むのだが、やはり同じことを考えている男性たちで、こちらも
混み合っている。頭をグリスで固め、整髪料の匂いをぷんぷんさせているのに、半ズボンを穿い ていたり、突き出た腹が自分のチャームポイントだと信じているのか、体形を強調するファッシ
ョンが多い。
こういった光景を見ると、まさに身が引き締まる思いがする。きっと、社会の摩擦
で神経をすり減らし、ついに無神経になったのだろう。派手なTシャツやトレーナを着ているお じさん連中が、ずらりと並んで週刊誌などの雑誌を立ち読みしているのだ。文庫のコーナにはほ
とんど人がいない。これが日曜日のショッピングセンタ内の書店の典型的な情景といえる。レジ に人が並んでいることも稀で、明らかに誰も本を買おうとしていない。
水柿君は、少なくとも外見はそういった中年男性の仲間には見えない。これは、インドにガン ジーがいたのと同じくらい幸いなことである。
それに、自分がそのグループに属することを彼は 恐れている。嫌悪しているといっても良い。しかし、他に行くところはないのだから、しかたが
ない。この点では、周囲の男性たちに同情する水柿君だ。 いつものとおり、模型関係の雑誌を立ち読みして時間を潰していたら、須摩子さんが更そうな
買いもの袋を両手に、書店に入ってきた。水柿君は読んでいた本を速やかに棚に戻して、彼女の ところへ行き、荷物を持ってやる。 こ人は駐車場へ向かう途中でマクドナルドに寄り、ハンバーガを買った。それで(既に午後三
時近い時刻だったが)昼御飯を済ますことになった。こういつたことに対して、水柿君はまった く抵抗がない。食事などに彼は関心がないのである。毎日ハンバーガでも文句はなかった。
「あ、そうそう」車に乗り込むと須摩子さんが話した。「昨日ね、西山商店街にオープンした。ハ
ン屋さんで、私、得しちゃったんだよ。四つパンを買ったのに、レシートに三つしか打ってなか ったの。なんか安いなあって思ったら」 「それ、わざとだと思うな」水柿君はエンジンをかげながら言った。「そうやって、お客を良い
気持ちにさせる商法があるんだ」 「ふうん、そう……」須摩子さんは目を丸くして感心した様子である。「ああ、なるほどねえ。 そうね、なんとなく、また行こうかなって思うし、このまえ得したから、今度は高いの買っちゃ
えみたいな…:・」 「ああ、でも、いつだつたか、自動販売機が故障して、缶コーヒーがざくざく出続けたことがあ ったね」彼は話しながら、そのときのことを思い出した。
田舎道で車を停めて、缶コーヒーを買おうとしたのである。水柿君は車の中で待っていた。須 摩子さんがコインを入れたのだ。自動販売機から、まるで。パチンコ台のようにじゃんじゃん缶
コーヒーが出始めた。
取り出しても取り出しても、減らない。二十本ほどはもらってきたが、まだ
出続けていた。さすがに恐くなってそのまま走り去った、という経験があったのだ。この程度の ことで大喜びする人生というのも虚しいものだ、とあとで二人で落ち込んだことも記憶に新しい。
「でも、うちに帰ったら、買ったはずのものが入っていない、という場合も腹が立つよ」須摩子さんは言う。「店員が間違えて入れなかったりして。額が小さいと泣き寝入りでしょう?電話
してやってもいいんだけど」 「僕も一度だけ不思議な体験をしたことがあるよ」 「へえ、どんなどんな?」須摩子さんは声を弾ませる。どうやら、さきほどのブルマのことは水
に流してくれた様子である。 「学生の頃だったけど、ハンバーガをね、確かに二つ買って、帰ってきたんだけど、下宿で食べ ようと思ったら袋に一つしか入っていないんだ」
「店員が入れ忘れたの?」 「いや、入れるところは見ていたから、それはありえない」
「え?」須摩子さんは片目を細くする。何かひっかかることがあるときに彼女が必ず見せる仕草
だった。「それじゃあ、途中で、どこかに置いたりしたんでしょう?その間に盗まれたと か?」 「途中で書店に寄ったけど、でも、下宿に帰るまで、ずっと袋は抱えていた。一度も手から離し
ていない」 「うわ、なんか、凄いトリック?」白い歯を見せて、須摩子さんは期待の表情だ。 「いや、そうじやないけど。でも、本当にそのときはびっくりした」水柿君は口もとを上げて、
頷く。「あれえ−って感じでさ」 「うんうん。で?」目を見開き、須摩子さんは夫に問う。 この時点で、既に水柿君は後悔していた。どういうのだろう、魚が釣れたは良いが、大き過ぎ
て、このままでは竿が折れるのが必至といった状況……、みたいな感覚だろうか。いや、全然違 うな。
「うん……、まあ、叙述トリックというのかな……」 「叙述トリック?」須摩子さんの声は大きくなった。
「あのさ、なかったことにしよう」 「何が?」 「うん、だからね」水柿君は溜息をつき、前を見ながら話す。「袋の中をよく見てみたら……」
「え!もしかして、入っていたの?駄目よ!そんなのアンフェア!絶対許さんからね」 「違う違う」水柿君は首をふった。「よく見てみたら、中から丸めた紙が出てきて、つまり、食
べた跡があった」 「誰が食べたの?」 「自分」 「、え?」須摩子さん、鼻の横に搬を寄せて、不満の表情を露にする。「自分って、君のこと?」
「そう」 「どういうこと、それ」 「途中で無意識で食べたんだね」水柿君は静かに答える。 「それを思い出したわけ?」 「いや、思い出せないんだけど、まあ……、そういわれてみれば、食べた気もするかなって感じ
で……」 本文P.6〜15
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