どちらかが魔女
Which is the Whitch ?
「ねえねえ、叔母様」西之園萌絵は紅茶のカップをテーブルに戻し、膝に両手をのせて姿勢を正した。「魔女という言葉があるのに、どうして、それに対する男性の言葉がないのかしら?」「別の意味になるからよ」佐々木睦子は煙草の煙を細く吐き出し、萌絵を横目で見る。「間男っていう言葉、貴女、ご存じ?」「いいえ」萌絵は首をふる。「まおとこ、ですか?重箱読みですね」「いいえ、訓読みです。字が違います。あとで辞書を引くといいわ」「英語だと、ウィザードですよね?」「魔法使いはね」睦子は頷く。「どっちかっていうと、それは良い魔法使いだと思うわ。そういえば、ウィザードレスっていわないか。変ね……。えっと、どうして急にこんなお話になったのかしら?」「叔母様、魔法使いみたいだって、言われません?」「誰から?」睦子は急に低い声になって萌絵を睨む。六十分の一秒ほどの一瞬の閃光が感じられた。サブリミナル効果かもしれない。幼い頃は、叔母のこの表情が恐がった萌絵だが、そのバグは、最近のバージョンアップで取り除かれた。
「小さいとき、テレビで魔女が出てくるドラマをやっていたんですよ。あれは、えっと……」「誰から?」さらに声を落として睦子がもう一度同じ質問をする。「誰が私のことを魔女だって言ったんです?」「あ、いえいえ」萌絵は慌てて片手を振った。「ほら、救急車が目の前を通り過ぎるとき、サイレンの音が急に低くなるでしょう?」「ドロップ効果」睦子は低い声で言う。「で、誰が言ったの?」「ドップラ効果です。じゃあ、嫌なことばかりで、いらいらして、気が滅入ってしまって、憂鬱になって、だんだん……」「ノロイーゼ、じゃなかった……、えっと」「ノイローゼです。叔母様、全然覚えてませんね」「誰が言ったんです?」「えっと、いえ、夢を見たのかしら。気のせいだったと思うわ」「萌絵」睦子が余裕で微笑む。
「私の目をご覧なさい」「あ、でも、ほら、今みたいに黒いドレスを着ていたりすると、妖艶なというか……、素敵な雰囲気が、まるで……」「まるで、何なの?」「魔女」萌絵は白い歯を見せる。「黒いドレスなんて最近着たことありませんよ。今日が初めて……」灰皿で煙草を消したあと、睦子は萌絵から目を離さずに、最後の煙を吐き出した。その煙に何の魔力もないとは、とうてい信じられない光景だった。「あ、そうか……、そういえば先週、元市長のお葬式で着ましたね。なるほど……、お兄様ね」萌絵は咳払いをする。「教えてくれてありがとう。正直な貴女が好きよ」睦子が言う。「私、何も言ってないわ」萌絵は首をふった。お兄様と睦子が言ったのは、萌絵の叔父にあたる西之園捷輔のことである。今頃、瞬間最大風速四十メートルの豪快なくしゃみをしていることだろう。発電に利用すれば、髭が剃れるくらいのエネルギィは捻出できるかもしれない。そこまで考えて萌絵はくすっと吹き出した。「可笑しくありません」睨みつけたまま睦子が言
う。
「貴女だって、あと十年も経てば、思い知るのよ」「え、何をです?」萌絵は目を見開いて首を傾げる。「私が何を思い知るんです?」「歳を重ねる、ということですよ。私くらいの歳になれば、意味がわかるわ」「何のお話でしたっけ?それに、私と叔母様なら、十年じゃなくて、二十年でしょう?」「人それぞれ単位が違いますからね」「ああもう、意味不明」部屋に諏訪野が入ってきた。二人がそちらを向くと、彼は静かに一礼する。「捷輔様からお電話がございまして、本日は急用のため、こちらへはいらっしゃれないとのことでございました」「あら、そう」睦子が顎を上げる。「それはそれは残念ですこと。寂しいわね。ボケ役がいないと場が盛り上がりませんものね」睦子は壁の時計を見上げる。「そうか……、あ、それじゃあ、喜多先生をお呼びしましよう」「え、叔母様、それは……」今度は萌絵が叔母を睨む。
「なあに?」睦子は横目で姪の視線を軽く受け止める。きっと叔母は目の中にキャッチャミットを持っているのだろう、と萌絵は思った。「そんな勝手なことはやめて下さい」「勝手?喜多先生、貴女のものなの?」「叔母様、それって、失礼ではありませんか?」「誰に?」「えっと、喜多先生と私にです」「まだこんな時間ですもの、失礼ではありませんよ」「どういう意味ですか、それ」「もしご都合がよろしければ、というお誘いです。諏訪野、良いわね?」諏訪野は萌絵を見る。ボケ役に喜多助教授を呼ぶ、というイメージが萌絵の頭の中をぐるぐると独
楽のように回った。しかし、それはすぐに回転力を失って倒れる。彼女は口を斜めにして不満の表情を作ったが、しかたなく頷いた。「かしこまりました」諏訪野はお辞儀をして部屋を出ていった。「犀川先生と安朋さんがいらっしゃるのだから、喜多先生だって、来やすいはずじゃありませんか?」睦子が言う。
「少なくとも、場は盛り上がる」「知りませんから」萌絵は口を尖らせた。犀川助教授は萌絵の指導教官。大御坊安朋は萌絵の従兄。二人は今夜のパーティに既に招待されていた。そして、この二人は、喜多助教授と中学・高校時代の同級生だ。叔父の捷輔が来られなくなった穴を、若くてハンサムな男性で埋めようという睦子叔母の野望、否、臨機応変な措置である。客観的に見て、三人の中では、喜多が最もそういった(つまり、穴を埋めるのに無難な、ようするにユニバーサルな)タイプではある。萌絵としても、特に反対ではない。ただ、彼女は、犀川助教授さえ来ればそれで満足だったので、あとは、クリスマス・ケーキにのっているサンタの人形やチョコレートの山小屋、あるいは、もみの木の蝋燭のようなものだ、と連想しただけのこと。彩りとして魅惑的で、わくわくする飾りものではあるが、ケーキの味には本来関係がない。
目を瞑ってしまえば消えてしまう存在。そこまで考えて、これでは自分の方が喜多先生に失礼だ、と気づいて反省した。残念ながら、まだクリスマスでもない。萌絵や睦子の誕生日でもない。何の理由もなく。パーティを開く。それが、西之園家の伝統的な手法であった。トラディショナル・メソッド、を略したわけではないが、TMコネクション、これが、今夜の会合の正式名称である。当初と比較するとかなり意味が変化していたし、しかも、参加者のほとんどが、最初の目的も正式名称も知らなかった。それは、参加者が大幅に入れ替わっているからだ。「そろそろ貴女、着替えてきたら?」睦子が言った。「あ、ええ……」萌絵は頷いて立ち上がる。「叔母様が黒だから、私も黒にしようかな」「ご随意に」睦子はファッション雑誌をラックから引き抜きながら言った。「ブラック・シスターズね」「シスターズ?」戸口で萌絵は立ち止まって振り向いた。
「あのね、叔母様……、私と叔母様、いくつ違うか、お忘れなの?」「あまり短いスカートは駄目ですよ」「どうして?」もちろんミニスカートを穿くっもりはなかったが、意味がわからなかったので萌絵は尋ねた。「魔女だと思われてよ」「どうして、ミニだと魔女だと思われるんです?」「そりゃ貴女、魔法使いとは思われないからよ」睦子は雑誌に視線を落としたまま答える。萌絵が黙っていると、睦子は顔を上げてにっこりと微笑んだ。「面白いジョークでしょう?」「全然」頭痛の前兆のような軽い眩量がしたが、萌絵は短い溜息をついて部屋を出た。
2
西之園家のキッチンでは、ディナの準備が着々と進行中だった。当然ながら、西之園家の家事のすべ てを取り仕切っている老執事、諏訪野が今そこにいる。だが、今夜に限っては、いささか手持ち無沙汰の諏訪野だ。というのは、佐々木睦子が連れてきた北林という名の家政婦が、今夜の料理の一切を担当していたからである。北林は、諏訪野よりはずっと若いが、そろそろ老年といって良いだろう。ふっくらとした丸い顔は子供のように愛敬があり、空気が顔に当たるだけで平生から笑っているように見える。髪は黒いが、おそらく染めているに違いなかった。佐々木家に住込みで働くようになって既に十五年ほどになる。もっとも、西之園家のマンションに北林がやってきたのは、これが初めてのことだった。
諏訪野は料理以外の仕事に集中できた。もちろん多少気にはなったので、合間にキッチンを覗き、北林の仕事振りをそれとなく窺っていた。キッチンのどこに何があるのか、といったことで彼女と短い会話が何度かあった。しかし、それだけである。世間話などはまったく出ない。二人とも黙っていた。シェトランド・シープドッグのトーマが、キッチンの片隅で伏せている。不思議そうな目つきで北林の姿を追っているようだ。もしかして、美味しいものをくれるかもしれない。自分にとって有益な人物かどうかを見極めようとしているのだ。萌絵がキッチンの戸口に現れた。北林の方を見て彼女はにっこりと微笑む。北林も慌てて頭を下げた。「着替えます」萌絵が諏訪野の方を向いて言う。「上に幾つか、ご用意してございます」
「黒いのがある?」「はい、もちろんございます」諏訪野は上品な口調で答える。「きっと、お嬢様はそうおっしゃるものと思っておりました」「何故?」「睦子様の新しいお召しものが黒でございましたので」「ああ………、かなわないわ」萌絵は軽く頷き、諦めたように口もとを少し上げる。「叔母様もまだまだお金をかけているようね。ところで……、喜多先生には、連絡ついたの?」「はい。快いお返事でございました。すぐにこちらへ向かわれると、そうおっしゃっておられました」「そう、それは良かった。どなたかの思う壼」萌絵はまた同じ表情で口もとを斜めにする。「どうして、壼が思うのかしら?」彼女は壁の時計を見た。「そろそろ、犀川先生も安朋さんも、いらっしゃる頃ね」萌絵がトーマの傍らに屈んで、彼の頭を撫でているとキき来訪者を告げる小さなチャイムが鳴った。上階のリビングや食堂あるいは萌絵の部屋では、この音は聞こえない。
諏訪野がいる部屋に限って鳴るようになっている。「あ、犀川先生かしら」萌絵は急に明るい表情になって立ち上がった。トーマもつられて頭を持ち上げる。「お嬢様、着替えをなさった方がよろしゅうございます」諏訪野は静かに言った。そして、萌絵が口を尖らせて頷くのを見届けてから、部屋を出て玄関へ向かった。螺旋階段のあるホールを抜けて、ドアを開けるまえに、カメラが捉えた映像を液晶の画面で確かめる。見たことのない人物が映っていた。諏訪野はドアを開ける。来訪者が中に入ってきた。「こんにちは」「いらっしゃいませ。あの、失礼ですが、どちら様でしょうか?」諏訪野は丁寧な口調で尋ねた。「あ、あの……、大御坊ですけど」「は?」不注意にも、諏訪野は思わず小さな声を上げてしまった。本文P.8〜15
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