■はじめに
すべてはここから始まる
考える力、やり抜く力!
中村修二私は今、アメリカのカリフォルニア州サンタバーバラに住んでいる。サンタバーバラ、そこはカリフォルニア州南部、太平洋沿岸の異国情緒たっぷりの都市だ。市域には多くのスペイン風の建物が残されているが、特にサンタバーバラ布教所は歴史的にも重要な建築物で、その美しい姿を見ようと観光客が絶えない。また、四季を通して穏やかな気候に恵まれ、落ち着いたりゾート地としても知られている。海を見下ろす小高い丘にはアメリカでも有数の高級住宅地が広がり、「住んでみたい場所」の上位にランクされる、アメリカ人にとってもあこがれの場所の一つである。私はそのサンタバーバラの「ホープ・ランチ(希望牧場)」と呼ばれる超高級住宅地に住んでいる。時価約一億円の豪邸だ(アメリカは日本に比べて土地が安い。日本円に換算して一億円の家は、広大な庭園つきの文字どおり豪邸である)。
丘の中腹にあるこの住宅地には、実業界の大物や、ケビン・コスナー、ブラッド・ピットといったハリウッドのスターたちの別邸もある。日本人から見れば、まさしく夢のような土地なのである。そんな、アメリカ人でも羨むような別天地へ、つい先日まで徳島県の山奥でうらぶれたサラリーマンをしていた男がなぜ住めるようになったのか。数億円の給与条件を蹴って決めた私の”新天地”私の今の肩書は、カリフォルニア大学サンタバーバラ校工学部教授。市の中心地から車で三十分ほど走ると、海沿いに大学の広大なキャンパスが広がる。学生数はおよそ二万人。美しく刈り込まれた緑の芝生の中に、四季を通じて色とりどりの花が咲き乱れる。ごみごみとした日本の大学からは想像もつかない程の別天地だ。私はここへ、二〇〇〇年二月十九日付で正式に着任した。
五月には家族も合流した。前年の十二月に会社を辞めた時には、私の一連の実績を評価してくれたアメリカの企業から、数億円にものぼる給与を条件に、入社の要請が来た。一億円の豪邸、十億円のストックオプション付といった、まさにプロ野球の超一流選手並みの破格の条件を提示してくる企業もあった。企業からの誘いは五社以上にのぼる。また、大学からの誘いは十校もあった。スタンフォード、プリンストン、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)、MIT(マサチューセッツ工科大学)などの有名大学だ。学長待遇を用意したいという大学もあった。しかし、これら企業や大学の誘いをすべて断った。そして、選択したのがカリフォルニア大学サンタバーバラ校の研究室。私の研究分野では世界のトップレベルにある大学だから、思いつきりやりたいことができると考えたからだ。
日本ではできなかったことが、ここでは自由にできると実感したのである。私の成果に対してアメリカではこれだけ広範に認めてくれたにもかかわらず、不思議なことに日本国内の企業や大学からは一つも誘いがこなかった。といっても不平を言っているわけではない。たとえ誘いが来たとしても断っていたからだ。会社を辞めた時点で、もっと大きなところで勝負してみたいと考えていたし、日本に比べてアメリカの方が研究予算も多く、自由だ。それに、日本の企業だと、他の研究者とかけ離れた待遇を提示するわけにはいかないといった横ならび意識が常に働いてしまう。これでは十分な研究ができないと考えたからだ。実は、本当は大学ではなく企業の研究室に行きたかった。しかし企業に行ったとすると、どうしてもそれまで勤めてきた徳島の会社の競争相手にならざるを得ない。
どうしても以前の会社とのいざこざが生じると思い、最後の段階で大学に決めた。アメリカの知り合いの大学教授数人に「おまえは企業には行けないよ。おまえが有名過ぎるからだ。選択肢は大学しかないよ」とも言われた。この一言が、私を大学へ傾けた。すべてが「自分の身に返ってくる」システム企業に比べれば低いとはいえ、カリフォルニア大学サンタバーバラ校が保証してくれる年収は、大学としては破格のものだった。新任であるにもかかわらず、私の年収は十六万ドル。日本円にすれば約千七百万円。だがこれは九カ月分で、政府や企業から研究開発費を引き出したら、その中から三カ月分は給与として受け取ってもいいシステムになっている。
カリフォルニア大学サンタバーバラ校には、企業や軍関係からの研究費が集まっている。だから、少なく見積もっても年収は二十二万ドルくらいにはなる。給与水準というのは普通は段階を踏んで上がっていくものだが、私の場合は一気に最高水準となっているのだ。アメリカでは、成果を上げれば上げるだけ自分の身に返ってくるというのが常識だ。それが、いわゆるアメリカン・ドリームを生む源泉となっている。大学の教授たちがみな大邸宅に住んでいるのも、このシステムがあればこそだろう。とぼしい研究費のやりくりに苦労し、家もなく金もなく、ただ名誉と地位だけで満足するといった日本的なあり方からは考えられないことだ。
着任したばかりの時、大学が用意した備品選びからして、日本とは違っていた。机もイスも「好きなデザインのもの、好きな色のものを選んでくれ」と言われた。灰色の事務机が並んでいた私の研究室がとてもみすぼらしく思えてくるような待遇だ。この恵まれた環境で、誰にも邪魔されることなく好きな研究に没頭できる地位を私は得たのである。
「ノーベル賞に最も近い男」が見る夢
そんな私を、雑誌や新聞やその他のマスコミが、「ノーベル賞に最も近い男」と評してくれる。それはそれで有難いことだと思う。ニューヨーク・タイムズでも「日本の発明家が世界屈指の大企業を出しぬいた」と絶賛してくれた。大学の研究室に入ったことで、企業人でいるよりも大学人でいる方がノーベル賞は取りやすいと言ってくれる人もいる。だが、私にとってノーベル賞は、ある意味ではそれほど大したことではない。もちろんいただけるものならいただきたい。けれども、それはこれから新しい何かにチャレンジしていくにあたっての一つの通過点だと思っている。それよりも今は、ベンチャー企業を興して、五年から十年で成功させてみたい。
同僚の教授も自らの力で巨額の資金を募り、ベンチャー企業を興している。大学の教授がベンチャー企業を?と不思議に思う人がいるかもしれない。日本の大学なら、研究者は研究室にとじこもって研究バカになっていればいい。けれども、アメリカでは研究者でも実力さえあれば資金を自由に調達できる。十分な資金を調達できれば、大学の教授でも会社を興せるのだ。
アメリカは創造性を生かす国である。だから、創造的な発明か発見をし、それを生かしてアメリカン・ドリームを実現する。それが私の夢でもあるのだ。「アメリカン・ドリームはアメリカにしかない」そう思って日本を出てきた。だから、たとえゼロからの出発になったとしても、三年か五年ぐらいでビジネスを興し、今の家を引っ越して南に海を見下ろす丘に五億、十億円の豪邸を建てる。
二十一世紀の世界を変えてしまうくらいの大発明はこうして生まれた!
出まかせやハッタリで言っているわけではない。独創的な頭脳さえあれば、それが可能になるのがアメリカなのである。そして私は、この独創性を生み出す方法を知っており、また、独創性を現実のものとして実らせていく方策をも、過去の実績を通して知っているのである。青色発光ダイオードの開発がそれだ。青色発光ダイオードという聞き慣れないものについては本文でくわしく説明するが、実はこれが二十一世紀の世界を変えてしまうくらいのとんでもない大発明だったのである。この大発明を、私はたった一人で、しかも徳島県の田舎の中小企業の実験室で成功させた。
このことは、いったい何を意味しているのだろうか。開発に成功した時には気づかなかったのだが、私はある時ふとこう考えた。ひょっとすると、このような快挙とも言えるべきことでも、何らかの発想の転換と、成功へと導くコツみたいなものさえつかめば、誰にでもできることなのではないか、と。そう考えて、私自身のたどってきた道を振り返ってみると、実際、極めて単純なことの積み重ねが成功へと導いてくれたことに気づいたのである。それは、「考える力、やり抜く力」こそがすべてだということだ。成功へと至る道は誰にでも開かれている。ハイテク時代といえども、それは同じである。
だから、私の実践してきた単純にして明解な方法が、これから夢や目標を追いかけていく人たちに、何らかの役に立てればと考えて筆をとった。何も難しい理論や、高度な学力など必要はないのだ。いや、むしろ、そのようなものは邪魔になると言ってもいいかもしれない。自分を信じて突き進む勇気さえあれば、成功は現実のものとなる。大きな成功はつい目と鼻の先に転がっているのだ。
それをつかむもっかまないも、ひとえにあなた自身の目的への執念と発想の転換にかかっている。考える力、やり抜く力にかかっている。そして、すべてはここから始まる。井戸は水が出るまで掘れ。この本がそのための一助となれば幸いである。そして私は、そうなると信じてもいるのである。本文P.13〜20より
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