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凛として
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著者
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花田憲子
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出版社
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文芸春秋
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定価
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本体 1333円(税別)
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ISBN4−16−357150−7
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はじめに 最後の横綱土俵入りを終えた力士が、まぶしいぐらい明るい土俵の真ん中に座っていま す。第六十六代横綱若乃花。長男、花田勝。 そして、その髭に鋏を入れようとしているのは、第六十五代横綱貴乃花。次男、花 田光司。 国技館の花道の片隅に立たずみ、私は二人の姿を見つめていました。 土俵の上での二人の姿を見るのは、これが最後……。そんな思いで胸がいっぱいになり、 あふれ出る涙をこらえるのに精一杯でした。 やがて、父である師匠元大関貴ノ花、花田満が、最後の留鋏を深々と入れました。 このとき、私は心の中で勝に語りかけました。 (勝、これで終わったのね。もう、痛い思いをしなくてもすむのね) 息子たちが立派に成長し、兄は現役生活にひと区切りをつけ、弟は横綱として別れを告 げることを、私は心から喜んでおりました。 結婚してから三十年、部屋を開いて十八年余り、土俵に上がらなくとも毎日相撲を取っ ているかのような相撲漬けの生活を送ってまいりました。”貴ノ花の妻”として、”部屋の おかみさん”として、そして”兄弟横綱の母”として、無我夢中で走りつづけてきました。 素晴らしいこと、嬉しいこともたくさんありましたが、週刊誌やワイドショーの見出し や内容に驚き、怒り、そして傷つけられる日々が続いてきました。なぜ、こんなに真面目 に相撲に取り組んでいる部屋や家族に対して、心ない報道がおさまらないのでしょうか。 いつか、真実を語りたい。 数年前から私は、間違った報道によって傷つけられた家族と私自身の名誉を守らなけれ ばならない、という強い思いを抱くようになりました。 息子たちが現役を引退するまで、口を閉ざしておかねばならない、と自らを戒める気持 ちもありましたが、むしろ、一日でも早くこの本を出版することで、ひとりでも多くの方 に真実を知っていただきたい、それが相撲を取りつづける貴乃花のためでもあるのだから、 と思い切って筆をとることにいたしました。 いつまでも子どもだと思っていた息子たちですが、いつの間にか家庭を持ち、父親とな りました。これからは私自身も、ひとりの女性としてのびやかな人生を送りたい……。 いかなる運命のいたずらか、相撲という伝統ある世界で生きてまいりましたが、この機 会にこれまでの自らの生き方を振り返ることは、私にとってもひとつの転機となるような 気がしてなりません。 第一章 運命を変えた出会い 無責任な噂 勝と光司は、まぎれもなく花田満と私の息子です。 このようなことを改めて申し上げなければならないのには、理由があります。 勝が結婚し、光司が横綱になってからの平成七(一九九五)年二月末、野球評論家の 佐々木信也さんが、講演でこんなことをおっしゃいました。 「若貴は兄弟と言っても父親が違う。その証拠に体型や顔立ちがまったく似ていない。性 格も似ていないではないですか」 この講演の内容が『アサヒ芸能』の記事になって、佐々木さんは大阪の宿舎にいた親方 のところへお詫びに見えたというのです。その話を親方から聞かされたときには、あまり のことに、 「まず私のところに謝りにきていただきたいわ」 と唖然としてしまいました。 無責任な発言もここまでひどいとほとんど笑い話ですが、周囲の人たちに尋ねてみると、 「よく耳にする話ですが……」 と皆さんおっしゃいますので、知らないのは本人ばかりかとますます呆然となりました。 評論家という肩書の方が根拠のない話を公の場でなさったことには、やはり深い憤りを感 じざるを得ませんでした。 誰かが面白おかしく”お兄ちゃんの父親は先代の二子山親方で、弟の父親は横綱・輪島 だ”などと言いふらすと、その無責任な噂をもとに、週刊誌などが書き立てます。 いった ん活字になってしまえば何度でも引用されて、あたかも真実であるかのようにされてしま いかねませんから、放置しておくべきではないと思い、弁護士の先生を通して抗議いたし ました。 講演会を聴きに来られた方全員に対して佐々木さんからお詫びと訂正をしてはいただき ましたが、あまりにもばかげた作り話ですから、裁判で訴える必要もありません。 無責任な噂は二人の耳に入っているかもしれませんが、そんな雑音にはまったく左右さ れず、二人とも土俵に精進してくれました。その真蟄な姿に、私の傷つけられた心がどれ だけ癒されたでしょう。 やがて勝も綱を締めることができ、兄弟そろって横綱となったことは、私にとってなに より幸せなことでした。 賛沢な悩み 初めて花田満と出会ったのは昭和四十四(一九六九)年の夏、二十二歳になる直前のこ とでした。 少女時代から華やかな舞台に憧れ、いつかは女優になるのが夢だった私は、十九歳の秋 に大分から上京して松竹の研究生のオーディションに合格し、本名の「藤田憲子」でデビ ューいたしました。 権力をちらつかせながら誘惑してくる男性の誘いにも乗らず、自分を アピールする方法を工夫しながら正々堂々と役をもらい、女優としてのキャリアを積んで いく過程で、私はふと考え込んでしまったのです。 (このまま松竹にいることが、私にとって一番よい選択といえるのかしら) テレビが急速に普及しつつあり、映画産業自体も曲がり角に来ている時代でした。私が 憧れていた文芸路線は、すでに主流とはいえなくなっていたのです。 松竹に入社してから二年をひとつの区切りとして、フリーの女優として活動することに 決めました。幸いなことにマネージャーを買って出て下さる方があり、引きつづいて女優 の仕事に打ち込んでいた、そんな頃のことでした。 「紹介したい人がいるんです。一度、会ってみていただけませんか?」 今の西麻布の交差点近くのお寿司屋さんのご主人から強く勧められ、休みの日に何度もお電話をいただきましたので、お断りしては申しわけないような気になり、普段着のまま でお寿司屋さんの二階のご自宅へ参りました。 そこで紹介されたのは「花田」さんという力士の方で、若くして幕内に上がったのに、 内臓の病気で入院して十両落ちしてしまったそうでした。 お互いに一からの出発で、励ま し合うのにちようどいいだろうから、ということだったのです。 でも、幼い頃から相撲のことは全然知りませんでしたし、周りは初対面の男性ばかりで したから、恥ずかしさが先に立ち、付け人の方としゃぶしゃぶをつつく花田さんに背を向 けて、テレビの野球中継に熱中するふりをしながら、早く帰りたい……と思ってばかりで した。 それから一週間ほど経った、ある日のことでした。 下宿先に花田さんから何度もお電話をいただきました。でも、両親から「男性からの電 話は取り次がないで下さい」と頼まれていた大家さんは、後になって電話があったという ことだけを私に伝えて下さいました。 失礼なことをしてしまった、お詫びをしなくてはと思いましたが、相撲部屋の様子がわ からないので、どのように連絡を取ればよいのか思い悩み、親しい女優さんのお母さまに 相談すると、代わりに花田さんに連絡を取って下さいました。 すぐに電話がかかってきましたので、やはりお目にかかってお詫びしようと、 「お茶でも飲みに行きましょう」 というお誘いをお受けすることにいたしました。 待ち合わせの場所は、新橋のアマンドという喫茶店。二人でお会いするものとばかり思 っていたのですが、アマンドに着いてみると、その隣には学生服を着たひと回り大きな男 性が座っているのです。 とにかく肩幅がとても広くてその上に肩の張った学生服ですから、 「衣紋掛け」という言い回しが頭に浮かんで、おかしくなってきました。 「輪島というんです。僕の友達です」 「どうも初めまして」 と挨拶した途端、私はこらえきれずに笑い転げてしまったのです。 この方が、当時、学生横綱だった輪島博さんでした。 先代二子山部屋の力士は、花籠部屋へ出稽古に行くことがよくあったそうですが、花籠 部屋は輪島さんが所属する日本大学の相撲部と隣同士で、そのご縁で輪島さんと親しくな ったようでした。 後年、輪島さんは、 「あの頃は、貴ノ花関とよく出歩いた。貴ノ花関が僕のタニマチだったよ」 と笑っておられたものです。 輪島さんは私と同学年で、どちらかというと寡黙な花田さんに対して、おしゃべりな方 でした。二人の話は掛け合い漫才みたいでとても楽しかったし、心を許し合った仲のよい 友達同士のそばにいると、こちらまでリラックスできました。もしも二人きりだったら、 初対面の日と同じく、会話はうまく進まなかったことでしょう。 その日は当時流行していた絨毯クラブに行って、肝臓を痛めて禁酒中の花田さん、その 頃はお酒が飲めなかった輪島さんと、三人ともジュースで楽しく夜中までおしゃべりいた しました。 それ以来、お付き合いが始まりました。 といっても、お誘いを受けるといつも、 「輪島さんも一緒ですか?」 と聞くようにしておりましたから、実際には三人でのグループデートでした。とはいえ、 輪島さんのことを男性として意識していたわけではなく、その明るさ、初対面とは思えな い気楽さがただ楽しくて、またお会いしたいと純粋に思っておりました。 二度目か三度目に会ったとき、輪島さんが気をきかせて席を外し、二人きりになると、 花田さんは愚痴をこぼしはじめました。 「若乃花の弟と言われるのがイヤだ。人気があるのもイヤだし、人に見られるのも、騒が れるのもイヤだ」 なんと賛沢な愚痴を言う人だろうと少し呆れてしまった私は、思わず強い口調になりま した。 「人気なんて、欲しくて作れるものじゃないでしょ。ありがたいと思って、それに応える ように頑張ったらいいじゃないですか」 その頃の私は、自活で小林旭さんと共演した後、映画を一本撮り終え、さらに次の映画 の準備に入っておりましたが、女優としてはまだまだ駆け出しでした。 それにひきかえ「花田」という名前は、全国津々浦々まで知れ渡っているようでした。 人気を恨んで愚痴をこぼすなんて、賛沢な悩みだと思えてなりません。 努力すればさらに上に行ける地位にいるのだし、チャンスは無限に広がっているのです。 どうして、もっと積極的に考えられないのでしょうか……。私は自分の立場と比較しなが ら、必死で励ましたのです。 あとでわかったことですが、そんなことを言ってくれる女性はめずらしかったようでし た。.若くて人気者でしたからおだてる人ばかりが多く、苦言を呈する人はほとんどいなか ったのではないでしょうか。私は近づきたいという思いがなかったために、思っているこ とを率直に言えただけなのですが、その言葉でやる気を出してくれたようでした。本文P.9〜17より |
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