吉祥寺幸荘物語
 
 
  志は高かれど、はっきり言って童貞です。 未来を信じ明日を生きる 青年の群像を描いた花村文学の新境地。  
著者
花村満月
出版社
角川書店
定価
本体 1400円(税別)
ISBN4−04−873216−1

〈わぎだま〉とは、追いつめられるなどして、かろうじて作り笑いなどをしてみせるときに頬 にできる楕円形の筋肉の集まり、と広辞苑にある。 というのは真っ赤な嘘だが、しかし、それにしても円町君の頬には見事な〈わぎだま>がで きていた。 円町君は余裕の笑顔をつくっているつもりなのだろうが、頬を無理やり持ちあげて筋肉を盛 りあげ、眼を細く弓なりに変形させているだけであるから、なんだか腐った魚を盗み食いした 猫が食中りの予感に怯えているかのような顔にしかみえない。 僕は少々意地悪な気持ちになり、じっと円町君を見つめた。

「なんや。わしの顔になにかついてるか」 「べつに。おい」 「なんや」 「関西弁になりかけてるぞ。わし、だって」 円町君の額や首筋に汗がうかんできた。僕は擦り切れた畳を何気なく宅って、ふと思いつい て囁き声で迫った。「毟るって漢字、知ってるか」 「しらん」 「こないだワープロで変換して驚いたんだが、少ない毛って書くんだ。少ない毛で劣る」 「それが、どうした」 「いや、べつに」 べつにと言いながら、僕は意地悪く円町君の額に視線を据えた。とたんに円町君の顔が歪ん だ。〈わぎだま〉も消えた。 「俺の額は生まれつきだぞ」 「なにも言ってない」 「見ただろう」 「被害妄想」 「そうか」 「そうだ」 「じゃあ、許す」 「許すもなにも、円町君は自分の立場を理解してない」 「証拠がないだろう」 「円町君以外に考えられないんだ」 「だが吉岡は部屋に鍵をかけていないじゃないか」 僕は頷いた。部屋に鍵をかけたことはない。僕だけでなく、このアパートで暮らす者のほと んどは部屋に鍵をかけない。

万が一盗まれて困るものは、持ち歩くことにしている。つまり現金などは、常にポケットの 中である。今年で築三十三年という幸荘に伝統があるとしたら、それは鍵をかけないというこ とだ。 「誰でも入れるって言いたいわけだ、円町君は」 「まあな」 「すると、その口のまわりにくっついている香ばしそうな茶色はいったいなんでしょう」 * 吉祥寺駅前からサンロードに入って、すぐに左に折れる。そこがダイヤ街チェリーナードだ。 しばらく行って十字路になっているところの左側にサトウという肉屋がある。 看板にはサトウという店名をはさんで松阪牛、神戸牛と大書されている。右を向いた黄色い 牛のマークがジンボルである。店構えはちょっと草臥れているが、いつもお客さんが群がって いる。

サトウは牛肉のブランド物を扱っているというだけの肉屋ではない。二階がステーキバウス なのだ。もっとも残念ながら僕はあまりステーキに縁がなく、サトウの二階でステーキを食べ たことはない。 僕はステーキが食べたくなるとスクーターに乗って三鷹まで行く。駅南口に〈くいしんぽ〉という店があって、安く、大量に牛肉が食べられるのだ。ただし、ここのステーキは霜降って おらず、じつにヘルシーである。 それはともかく、食べたことがないから断言はできないのだが、肉のサトウの二階のステー キバウスのステーキは、かなり霜降っているのではないかと思う。

この件に関して僕はいいかげんなことを言っているわけではない。というのも精肉業として のサトウの名物にメンチカツがあるのだが、このメンチカツがただものではない。夕方にはメ ンチを求めて長い行列ができるのだ。だから買うのも一苦労である。 あくまでも噂であるが、サトウのメンチカツは、ステーキ用の肉など上質の牛肉をさばいて、 あまった部分を固め、衣をつけ、揚げているという。 実際にこのメンチカツは絶品だ。ジュージーなどという科白は僕が口にすると少々薄気味悪 いが、からっと揚がった衣に歯を立て、ぐいと囓った直後、肉汁と脂がじわりと滲みだす。

そ の瞬間、僕はメンチカツハイを味わって意識が朦朧慌惚となる。 その食感は、ねっとりまったりとした霜降り系の肉に飢えている貧乏な輩にとっては途轍も ない御馳走であり、宝物である。だから当然ながら幸荘の住人にも大評判である。ステーキは 無理だが、メンチカツなら並びさえずれば買えるというわけである。 数ヶ月前、僕はフリーマーケットでオーブントースターを値切りまくって三百円で買った。 いい買い物をしたと思う。 というのもサトウのメンチカツは脂がのっているだけに、冷めるとせっかくの美味しさが半 減してしまうのだ。そこでオーブントースターの出番である。

アルミホイルでメンチカツを包み、トースター内に安置する。ときにヒューズが切れて停電 し、罵られることもあるが、強力八百ワットで三分間、あの揚げたてメンチの復活である。 僕は昨日買って残しておいたメンチカツだけを愉しみにアルバイトからもどったのだ。オー ブントースターによるメンチカツ再生の儀式だけを脳裏に描いて前傾姿勢、足早に人混みで浮 かれている夕刻のサンロードを抜けた。 五日市街道に突きあたったら、街道を国分寺方面に約五分、吉祥寺北町に幸荘はある。木造 二階建て、玄関を入って黒光りする床に腰をおろして靴を脱ぎ散らす。

ところが僕は妙なところで潔癖というか物事を割りきれないたちで、スニーカーの靴紐をし っかりと結わえなければ気がすまないのだ。 結わえたものは、ほどかなければならない。だから玄関の上がり権に座って、苛々しながら 靴紐をほどく。 一応、下駄箱はあるのだが、それには目もくれない。靴は幸荘の伝統に則って、脱ぎ散らし たままだ。 その脇には骨董品じみたピンク電話が据えつけてあるが、住人たちはこの電話をあまり使わ ない。

というのもこの電話であれこれ喋れば、即座に幸荘中の噂になってしまう。特に女性が らみは嫉妬もはいって、かなり鬱陶しいことになる。 しかも、外からこのピンク電話に電話がかかってきても誰も受話器をとろうとしないのだ。 いくらベルが鳴っても、みんな、面倒臭がって無視をする。つまり電話としての役目をほとん ど果たすことがないというわけだ。せめて大家がいればいいのだが、幸荘の持ち主は都内にいるそうで、僕はいちども大家を見 たことがない。また大家がいないからこそ、この梁山泊というか、無法地帯が成りたっている というところもある。

ちなみに家賃は吉祥寺駅前の古い不動産屋に持参する。 さて、僕は、軋みのでている木の階段を、メンチメンチメンチメンチメンチメンチメンチと 連呼し、念じて駆けあがった。 そして、だ。我が部屋の、やや歪みかけた合板のドアを開いたら、円町君がいて、よお…… と片手をあげてきたわけだが、どうもその笑顔が不自然で、頬には〈わぎだま〉ができていた。 腰が引けているその態度に不審を抱くまでもなく、彼の口のまわりを汚した揚げパン粉の焦 げ茶色で僕はすべてを悟ってしまい、食い物の恨みは恐ろしいということをとことん思いしら せてやるために、こうしてねちねちと絡んでいるわけだ。

「なあ、円町君。僕に向かって笑いかけた時点で、ばれちゃってんだよ。〈わぎだま〉ができ てたじゃないか」 「なにがくわぎだま〉かよ。そんな言葉は幸荘の中でしか通用しないぞ。幸荘方言だ」 「居直るなよ。食べたんだろう」 「ちゃんと用意してあるんだよ」 「なにを」 「代金」 ジーパンのコインポケットに中指を突っこんだ円町君を、僕は苦笑まじりに見守った。人の ものを勝手に食って、ばれて間いっめられたら払えばいいんだろうと開き直る。 「おい、吉岡」 「なに」 「今日のところは許してやれ」 「誰を」 「俺を」 「つまり金がないんだろう」 「ないわけじゃない。ほら」 コインポケットから円町君がほじくりだしたのは十円玉が三枚と、一円玉が同じく三枚、計 三十三円也であった。

「朝からなにも食べてなかったんだ。許してやれよ」 「日本語、変だよ」 「まあ、いいから。許してやれ」 盗み食いをした本人が、他人事のように『許してやれ』というのには呆れてしまう。だが呆 れてしまうと同時に、なんとなくユーモラスな様子もあって、僕は許してやろうかという気に なりかけた。 「二度と僕の部屋に入らないでくださいよ」 「そんなことを言うな。あれこれ借りることもある」 「円町君は借りるばっかりで、誰かになにかを貸すのはとことん嫌がるでしょう」

「気にするな。許してやれよ」 「許してやれよって、円町君自身が問いつめられてんだぜ」 「ごちゃごちゃ言うな。こんど金が入ったら、奢る」 「円町君のおごるって、傲慢の傲の字が当てはまるんじゃないかな」 「作家志望は、言うことが小難しくていけねえな」 「音楽家志望は、言うことに論理がなくていけねえな。感性だけで生きてんじゃないの」 「いいねえ、感性。それだよ、それ。感性で生きてんだよ、俺は」 「感性は馬鹿者の言いぐさ」 「なんだ、それ」 「そういう広告コピーがあったんだ」 「感性の意味がわかってねえなあ」 「でも、音楽雑誌の広告にあったんだぜ。音楽スクールの生徒募集広告だったかなあ」 「なんで感性は馬鹿者の言いぐさなんだよ」

「僕は楽器とか弾けないし、歌もうたえないけど、推察するに、だめな音楽家志望ほどきちっ と技術を磨かないで、いいかげんな演奏をして、その拙さを言い逃れるために感性なんて科白 を持ちだすんじゃないかな」 「おまえね、言うことが難しすぎるの。砕いて喋れよ」 「まあ、感性だけで生きてる円町君には通じないかもしれないなあ」 皮肉な顔をつくって嘆息してみせたとたんに、腹が鳴った。かなり大きな音だった。驚いた。 同時に自分が哀れになった。 逼迫していたのだ。ここ数日、かなりきつい経済状態だった。残金が数百円という状態だっ た。しかし新人賞応募原稿締め切りである六月末が迫っていた。だからアルバイトにでる気に はなれなかった。

しかし原稿が捗らなければ、絶食の危機である。僕は思案した。肉のサトウでメンチカツを 二個買った。メンチの衣が炭水化物、中の肉が脂と蛋白質、そして野菜として玉葱が入ってい る。そんなどうでもいいことを脳裏に描いて、メンチを買った。あのときの僕にとってメンチ は、ある究極の栄養食品であるかのように思えたのだった。 メンチさえあれば、なんとかなる。この危難をのりきれる。応募原稿は見事に完成し、この 吉岡信義は選考委員に絶賛を受け、文學界新人賞を受賞する。

とくに山田詠美選考委員の選評は僕の作品を鋭く、厳しく、しかし優しく愛撫するがごとく 批評してくれる。吉岡君、悪くないよ。そんなひとことをかけてくれ、吉祥寺でデートしてく れる。 僕は吉祥寺の西荻窪よりのあたりで山田詠美さんが歩いているところを目撃したことがある のだ。椅麗な人だった。世の中には椅麗な人は幾らでもいるが、抽んでた小説を書ける美人は、 まあ、いない。 「どうした」 円町君が声をかけてきて、僕の夢想は消しとんだ。僕の眼前にいるのは山田詠美ではなくて、 若禿のミュージシャン志望だ。 「メンチは諦めるから、でてってくれないかな」「冷たいことを言うなよ。、バイトしてきたんだろう」 「してきましたよ。冷凍庫」 「じゃあ、一圓に行こう」

「奢ってくれるんですか」 「なにをおっしゃいます、吉岡さん。冷凍庫作業なら日払いじゃございませんか」 「メンチを食われた上に、なんで僕がラーメン奢んなきゃならないの」 「持ちつ持たれつ」 「円町君の場合、持たれつだけじゃねえか」 「気にするな。腹が鳴ってたぞ。吉岡は空腹なんだよ。一人で食う飯ってのは味気ないだろう。 付きあってやるって」 「あ−あ。円町君が山田詠美だったらなあ」 「なに言うてはるの」 「なんでもない」 「さあ、殿。御出立でござる」

結局僕は円町君に促されてアルバイトの疲労のたまった脹脛を意識しながら外にでた。何気 なく振りかえって見た幸荘は、ちょっとだけ傾いている。気のせいか。それともほんとうに傾 いているのか。 「傾いてるのは、おまえだよ。吉岡は馬鹿正直だから庫内作業、手抜きなしだろう」 「うるせえな。こんなことなら大戸屋で夕飯を食ってくるんだったよ」 「大戸屋か。いいな。米もいい。実質的な食事ができるってもんよ。よし。予定変更。一圓か ら大戸屋へ。針路を南南西にとれ」 帰途の中央線の車中では夕食を食べて幸荘にもどるつもりだったのだ。

しかしメンチを残し ていることに思い至り、夕食の誘惑を振りきった。原稿が書き上がらない最悪の場合を想定し て残したメンチカツだった。 原稿は思いのほか捗って、自分でも納得のいく百八枚が完成した。文學界新人賞の応募規定 には、枚数は四百字詰め原稿用紙百枚程度、とあるので八枚オーバーは許容範囲内だろう。 なぜ文學界新人賞に応募したかというと、山田詠美や島田雅彦といった選考委員の選評が凄 くおもしろいからだ。なんといえばいいのだろう、選評が時代と乖離していないというところ か。

とにかく原稿は昨夜完成し、完成祝いにメンチを食べようとも思ったが、ビールが欲しいな どと生意気なことを思っているうちに精も根も尽き果ててしまい、原稿の上に突っぷして眠っ てしまっていた。 朝、目覚めたときには、なぜか万年床で毛布にくるまっていたが、いつ寝床に移ったのかは 記憶がない。 僕は寝汗で湿った寝床の中で思案した。原稿が書き上がったのはめでたいが、経済的逼迫が それで解消するわけではない。新人賞賞金五十万円也が入るのは十二月の発表時、つまり半年 先である。 そこで当座の金を稼ぐために日銭のはいる冷凍庫である。 本文P.3〜13より

 

 

http://www.books-ruhe.co.jp/ ****** ・・・・・・HOME・・・・・・