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翻 訳 夜 話
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著者
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村上春樹 柴田元幸
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出版社
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文春新書 / 文芸春秋
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定価
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本体 740円(税別)
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ISBN4−16−660129−6
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翻訳の神様 まえがきにかえて 村上春樹 ずっと以前から、翻訳についての本をいつか書きたいと思っていた。それは翻訳の技法や歴史 や目的についての本ではなく(まあ、そんなものは書こうと思ったところで書けっこないわけだ けど)、「どうして自分は翻訳をしなくてはならないのか?」というシンプルな疑問に対して、自らが答える内容の本になるはずだった。というのは、これまでずいぶん多くの人に「村上さんは 本職が小説家なのに、そしてけっこうお忙しいでしょうに、どうしてそんなに熱心に翻訳をする のですか」というような質問を受けてきたし、僕自身、自分がどうしてこんなに一生懸命、寸暇 を惜しんで翻訳に励まなくてはならないのか、ときどき不思議に思っていたからだ。 決して自慢するわけではないのだが、プロの翻訳家から作家に「転身」した人々を別にすれば、僕くらいたくさんの翻訳をこなしている現役の小説家は、ちょっといないのではないかと思う。 そして打ち明けてしまえば、翻訳をするというのは、僕にとって苦痛でもなんでもないのだ。誰 に頼まれなくても、翻訳のことになると、ついつい手が動いて、仕事が進んでしまう。いったい どうしてそんなことが起こるのだろう? それについては、この本の中でも再三語ったし、その結果いくつかの理由や動機のようなもの は明確に列挙できるようになったと思う。しかしそれでもなおかつ、翻訳をしているときに、僕 がどうしてこんなにも「生き生きとした気持ちになれる」のかという問いかけの説明にはなって いないような気がする。それをわかりやすく説明するのはむずかしい。しかしいずれにせよ、机 の左手に気に入った英語のテキストがあって、それを右手にある白紙に日本語の文章として立ち あげていくときに感じる喜びは、ほかの行為では得ることのできない特別な種類のものである。 もちろん翻訳というのは決して簡単な作業ではない。手間もかかるし、時間もかかる。大きな 責任も負わなくてはならない。それに対する経済的な報酬も、ほとんどの場合、それほど大きな ものではない。しかしそこには何にもまさる無形の報い(bounty)があるように、僕には感じ られる。いささかオーバーな物言いをすれば、どこか空の上の方には「翻訳の神様」がいて、そ の神様がじっとこっちを見ているような、そういう自然な温かみを感じないわけにはいかないの だ。 僕は柴田元幸さんと話したり、一緒に仕事をしたりしていると(かれこれ十五年ばかりつきあ いがある)、「ああ、この人も翻訳をしているときに、きっと僕と同じ喜びを同じように感じてい るんだろうな」と常に実感することになる。そう感じずにはいられない人なのだ。肩書きから言 うと、柴田さんは東大の助教授であり、正統的に英語を研究された第一線の研究者である。それ に比べると僕は専門的に英語を勉強したことが一度もない、ただのやくざな小説家である。バッ クグラウンドはずいぶん違う。しかし、それにもかかわらず、僕らは文芸翻訳という一種の病に (情熱に)とりつかれているという共通認識を仲立ちにして、それぞれに励ましあい、刺激を与 えあってくることができた。情報を交換することもできた。僕は小説家としての。 パースペクティ ブをわずかなりとも提示できたと思うし、柴田さんは僕に言語が言語であることの完結性のよう なものを辛抱強く教示してくれた。それは僕にとってはとても有益なことだった。しかしだから 柴田さんの翻訳が論理的で、僕の翻訳が感覚的かというと、そうでもないところが文芸翻訳の面 白さである。これは二人の「競訳」を読み比べていただければおわかりいただけるのではないか と思う。 このようにして、柴田さんとの共著というかたちで、翻訳についての本を上梓できたことは、 僕にとってまことに大きな喜びである。とはいうものの結果的にこの本が、翻訳小説を好んで読 まれる読者や、翻訳を志す若い人々にとって、どのような現実的な効用を持つことになるのか、正直言って僕にはよくわからない。実際的にはほとんど役に立ちそうにもないような気がする。 だからむしろ単純に、「なんだ、こいつらはずいぶん楽しく翻訳をやっているみたいだな。翻訳 ってそんなに楽しいのかねえ」と感心したりあきれたりしながらこの本を読んでいただけると、 僕としてはとても嬉しい。 翻訳夜話 フォーラムT 柴田教室にて 一九九六年十一月、東京大学教養学部の、柴田の翻訳ワーク ショップに、村上がゲストとして参加。翻訳を語り、また学 生からの質問に答えた。学生は約百人、おもに教養課程の学 生たちで、村上の参加は事前に知らされていなかった。この フォーラムがきっかけとなって、本書が生まれることになる。 偏見と愛情 柴田 今日の授業は、ごらんのとおり村上春樹さんにおいでいただきました。翻訳についていろ いろお話をうかがえればと思っています。最初に、僕のほうからいくつか質問させていただきま す。まず、村上さんは小説家としてご自分の文章を書かれる方でもあるし、翻訳をされる方でも あるわけですけれども、自作するのと翻訳するのとでは脳味噌の使い方はずいぶん違いますか。 村上違いますね。小説を書くのと翻訳するのとでは、脳の中は全く逆の側が使われている感じ がするんです。小説をずっと書いていますと、こっち側(と右側のこめかみを指でさす)あたり を使っているなという感じがするわけです。だから小説を書き終えちゃうと、翻訳が自然にした くなるんです。つまり今度はこっちのほう(と左のこめかみを指でさす)を使いたいなというの が出てくるわけですね。左右は逆かもしれないけど、とにかく。それで、誰に頼まれたわけでもないんだけど、自然に机に向かって翻訳をしちゃうという傾向があります。そうしないとうまく 自分のなかでバランスがとれないということなのかな。 小説を書くというのは、簡単に言ってしまうなら、自我という装置を動かして物語を作ってい く作業です。自我というか、エゴというか、我というか。我を追求していくというのは非常に危 険な領域に、ある意味では踏み込んでいくことです。ある場合にはバランスを失うぎりぎりのと ころまで行かなくてはならないし、外の世界との接触が絶たれていく場合も多いんです。それく らいの危機をはらんだ作業であるということができる。出来上がったものが立派であるかどうか は、また別の問題として。 ところが翻訳というのはそうじやない。テキストが必ず外部にあるわけです。だから外部の定 点との距離をうまくとってさえいけば、道に迷ったり、自己のバランスを崩したりというような ことはまずない。こつこつとやっていれば、ほとんどの部分は論理的に解消できます。そういう 作業は僕にとっては、すごくありがたいことなんです。ほっとできるというか。 柴田素人考えでいくと、基本的には翻訳するよりもご自分の文章を書くほうが大変だろうなと 思うわけですけれども、翻訳するほうが大変な面というのは何かありますか。 村上気持ち的にはそりゃ翻訳のほうがずっと楽ですよ。立ち上げのところを考えなくていいか ら。考えなくていいというのは表現が過激だけど、要するに、ほとんど語学的、文章的、技術的 なことだけを追求していればいいから。それに比べて小説を書くのって、ゼロからいちいち起こ していくわけだから、それはしんどいです。 ただ創作には原理的に作者の間違いってまずないんです。なんか変だといわれても、それはフ ィクションだ、ということでだいたい片づけられる。なんだって作者は神様ですから。たとえば フォルクスワーゲン・ビートルのラジエーターのことを僕は一度書いたことあるんですが、よく 考えたら、ビートルは空冷エンジンだから、ラジエーターなんて存在しないですよね。でも極端 なことを言えば、「これは別の宇宙の話であって、そこではビートルはちゃんと水冷なんだ。そ れで何が悪い」と断固突っ張ることだってできます。なにせ小説だから。 しかし翻訳だとそうはいかないですよね。テキストが厳然として存在するから、間違いはあく まで間違いであって、それは間違いとしてあとあとまで残りますよね。そのへんが大変といえば 大変かなあ。 柴田なるほど。では逆に、ご自分の作品が翻訳されるということについてはいかがでしょうか。 自作が翻訳される場合に、翻訳家なり訳文に何を求められるかをお聞かせ願えますか。 村上ひとくちでいえば愛情ですね。偏見のある愛情ですね。偏見があればあるほどいいと。 柴田ご自分の作品が訳されたものを読んで、これは愛情があるなというのがわかりますか。 村上わかりますよ、それは。僕のを英語に訳している人は三人いるんだけど、おもだった人は 二人で、一人はアルフレッド・バーンバウムというアメリカ人、もう一人はジェイ・ルービンと いう人で、バーンバウムは一種のボヘミアンなんです。特に定職もなく、大学に属しているわけでもなくて、タイに行ったりミャンマーに行ったりフラフラして暮らしている。彼はある場合に は自分の好きなように訳すんです。正確かどうかよりは、出来上がりのかたちを重視する。だか らわりに自由自在にやって、部分的に適当に削ったりもする、勝手に(笑)。もちろんほとんど のところでは忠実に訳しているけど。場合によっては、ということです。 柴田増やしたりはしないですか。 村上増やさないですね(笑)。増やされるとさすがにまずいですよね。それに比べてジェイ・ル ービンは八一ヴァード大学の正教授で、社会的にもきちんとした偉い人で、ユーモアの感覚みた いなのはすごくあるんだけど、翻訳作業については非常に真面目で厳密な人で、わかんないこと があるといつも電話をかけてくるんです。ここの「は」は本当は「が」じゃないかとかね(笑)。 全く逆な性格の二人なんです。でも僕はどっちの翻訳者も個人的には好きなんですよ。という のは、彼らは僕の作品をよく理解してくれているし、好きだし、いやなものがあればいやだとは っきり言うし。たとえばジェイは『ねじまき鳥クロニクル』は好きだけど『国境の南、太陽の 西』は好きじゃないとか、バーンバウムは『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は 好きだけど『ノルウェイの森』は好きじゃないとか、はっきりしているんですよね。だから、や ると言った分はきちんと愛情を込めてやってくれる。 もっともバーンバウムはそう言いながら『ノルウェイの森』を講談社英語文庫で英訳している けど、あれはたぶん生活のためだな(笑)。 柴田ははは。 村上彼らが訳したものを、いちおう英語訳でざっと読むわけですよ。そうするとなんか、すご く楽しく読めるんです。僕は自分が書いた小説って、まず読み返さないんですよ。読み返すとと にかく恥ずかしいから。書くときはすごく一生懸命書いているんだけど、いったん書き終わっち ゃうと、本のページを開くことってまずないですね。なんか脱いだ自分の靴下の匂いをかぐとき のような気がして。でも、英語だと読み返せるんですよ。というのは、僕が書いたものと、そこ に訳されたものとのあいだには、ある種の乖離というか遊離があるからね。自分の書いたもので ありながら、自分のものではないという二重性があるから、そのへんのすきまみたいなものを楽 しんで読めちゃうのね。 ぱらぱら何ページかめくっているうちに、「けっこうおもしろいじゃん」と思い始めて、すら すら読んじゃう。あとでたとえば誰かに、「バーンバウムの訳はここがスポッと抜けているけど、 いいんですか、村上さん」と言われたりするんだけど、僕は読んでいて気がつかなかったんだよ ね。というのは、書いたあとでぜんぜん読み返さないから、何を書いたのか書いた本人も忘れち ゃっている。でもまあ結果として、おもしろければそれでいいじゃないかと思うんですよ。あま りうるさいことは言いたくないという気持ちもある。自分の書いた本なのに「おもしろいじゃな い」と他人事みたいに言って、最後まで読んでしまえるというのは、訳として成功していると言 ってしまっていいんじゃないかと思います。 柴田僕も自分が英語に関わっているから、英語の翻訳だと正しさとかが気になりますけども、 たとえばフランス語とかドイツ語の翻訳を読むとき、正しさよりもおもしろさを圧倒的に求めま すよね。 村上そうですね。細かいところが多少違っていたって、おもしろきゃいいじゃないかと僕も思 います。でも僕自身のことを言えば、僕は翻訳者としてはどちらかといえば逐語訳です。ルービ ンさんのほうに近い。で、バーンバウムの訳はおもしろいと思うけど、僕だったらああいうふう にはやらないと思います。一語一句テキストのままにやるのが僕のやり方です。そうしないと僕 にとっては翻訳をする意味がないから。自分のものを作りたいのであれば、最初から自分のもの を書きます。もちろんそのためにはしっかり敬意を抱けるテキストを選択することが不可欠なん ですけど。 柴田そのこともぜひおうかがいしたかったんですけども、こういう翻訳論の授業をやっている と、みんなの思い込みとしては、直訳というのはだめで、いかにうまく意訳するかが翻訳の極意 だ、みたいな思いがあるようなんです。でも僕が皆さんのレポートに書くコメントというのは、 わりと直訳を褒めて、意訳すると凝りすぎとか、原文からずれているとかいうコメントをするこ とがどうも多いみたいなんですよ。 村上正しい姿勢だと思います。 柴田ありがとうございます。みんな聞いた、今の?(笑)。そのへんの、直訳で実はいいんだと いうようなあたりの話をおうかがいできますか。 村上単純に直訳でいいんだというふうに言っているわけではないですけど(笑)。とにかく僕は そういうふうにやります、ということです。 ただ、皆さんは誰でもいちおう、自分自身の文体を持っているわけですよね。多かれ少なかれ。 巧いとか、下手だとか、強固か、強固じゃないかというようなことはとりあえず別にして。そし てその文体のなかにはいろんな文章的要素が詰まっているわけですよ。たとえば語彙をどれだけ 豊富に使うかというのが文体のいちばん大事なことだと思っている人もいるし、どれだけわかり にくく書くのかというのが大事なことだと思っている人もいますし、逆に、どれだけわかりやす く書くのかが大事だと思っている人もいるし。いろんな要素があります。美しく書きたいとか、 簡潔にシンプルに書きたいとか、おもしろく書きたいとか。自分なりのポリシーというか、文章 を書くときにプライオリティのトップにくるものが、それぞれにあるはずです。 僕の場合はそれはリズムなんです。呼吸と言い換えてもいいけど、感じとしてはもうちょっと 強いもの、つまりリズムですね。だからリズムということに関しては、僕は場合によってはテキ ストを僕なりにわりに自由に作りかえます。どういうことかと言うと、長い文章があれば三つに 区切ったり、三つに区切られている文章があったら一つにしたりとか。ここの文章とここの文章 を入れ換えたりとか。 なぜそれをするかというと、僕はオリジナルのテキストにある文章の呼吸、リズムのようなものを、表層的にではなく、より深い自然なかたちで日本語に移し換えたいと思っているからです。 英語と日本語のリズム感というのは基礎から違いますし、テキストの文章をそのままのかたちで 訳していくと、どうにも納得できない場合がある。そう感じた場合には、僕の独断でつなぎ換え たりします。そのことに関しては「直訳派」とは言い切れないところがあるかもしれない。その かわり、それ以外のレトリックとかボキャブラリーとか、そういうことに関してはテキストに非 常に忠実にやりたいと。だから僕が皆さんに言いたいのは、ここだけは譲れないと、でもあとは しっかり譲りますと、そういうポイントを掴むといいんじゃないかなということです。そんなに 単純に「直訳派」「意訳派」と区切れないところはあります。厳密に言えば。 柴田村上さんの場合、英語一センテンス=日本語一センテンス対応というポリシーはないです よね。特にレイモンド・カーヴァーの翻訳を拝見していると、カーヴァーよりセンテンスがやや 長めになって、短いものがくっつくことが多いですね。 村上それはまあ、僕はカーヴァーの文章というか、小説世界を、ある程度自分の血肉のように 理解しているという自負みたいなものがあるからかもしれません。どんな作家に対してでもそれ ができるとは思わないです。 柴田なるほど。ではこのへんで、皆さんのほうから、ぜひこれは聞いておきたいということが あれば・・・・・・ 本文P.3〜22より |
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