コンセント concent
 
 
 
  兄はなぜ、引きこもり、生きることをやめたのか? インターネット界の女王、衝撃の処女小説!  
著者
田口ランディ
出版社
幻冬舎
定価
本体 1500円(税別)
ISBN4−87728−965−8

不快な目覚めだった。 エアコンが強すぎたらしい。咽の粘膜がひりひりして鳴咽が込み上げてくる。 隣に寝ている男を起こさないようにシーツから抜け出して、冷蔵庫からミネラルウォーターを 取り出して一息に飲んだ。怠い。飲みすぎた。身体が酒を分解できずにもがいている。 仕事鞄から眼鏡とノート型パソコンを引っ張り出した。アダプターを繋いで、ラブホテルの床 を這い回りようやくテレビの裏に空いているコンセントを見つけ、接続する。動いていると気が 紛れるのか吐き気を感じない。ベッドサイドの電話をひつくり返し、モジュラーをパソコンの内 蔵モデムに繋ぐ。電源を入れると、ウィーンというかすかなモーター音とともに、パソコンが起 動し始めた。

この瞬間が好きだった。画面にライトが灯り、カチャカチャとせわしなくハードディスクが働 き始める。まるで命を吹き込まれたみたいだ。 「働け、働け、小人さんたち」 床にべたんと座ったまま前かがみにキーボードを叩いていたら、男に呼ばれた。 「何してるの?」 悪戯を見つかったみたいでなぜかバツが悪い。 「ちょっとね」 振り向くと男は裸の上半身をモソモソと起こして私のほうを見ている。 「パソコン?」 「うん。前の相場の動き見たいなと思って」 男は中指で目頭を押さえてぐりぐりしている。私と同じように二日酔いなんだろう。

「仕事?」 「まあ、そんな感じ」 寝てればいいのに、と思う。邪魔されたくない。 「株って、俺、全然わからないけど。面白い?」 よく聞かれる質問だ。株って面白いの?面白いに決まっている。この世界の裏側を動かして いるシステムなのだ。それを知らずに平気で生きているほうが私には不思議だ。 「面白いっていうか、変だよ、すごく。相場って動かしてるのは男の人なのに、ヒステリックな 女みたいに感情的なの。上がり下がりが激しくて少しの刺激でカッとなって、そのくせ勘がよく て未来を予知したり、世界規模のシンクロニシティを起こしたりする。経済ってけっこうオカル トかも」 ザラザラと無数に並んだ数字を眺めていく。

一見、ただの数字の羅列だけれど、毎日相場を見 ていると、この数字の中のある並びに時々ひっかかる。なだらかで美しい芝生のある一カ所だけ が逆目になっているような、そんな感じ。それを発見するのが楽しい。床に腹ばいになってパソ コン画面を見入っている私の後ろで、男は裸で途方に暮れているみたいだった。 「なあ……」 男が呟く。 「なあに?」 「俺さあ、遊びのつもりじゃないから」 私は顔を上げて男の顔を見た。男はベッドに上半身を起こし、呆れるほど真剣にこちらを見て いる。ちょっと悲しげな間の抜けた顔。やや斜め四十五度に傾けた頭といい、裸のなで肩の線と いい、一迫真の演技中のダスティン・ホフマンみたいだ。

私はぶっと吹き出して、笑いをかみ殺しながら言った。 「やめてよ、バカらしい」 結局、明け方二度寝をしてしまい、部屋に戻ったのは昼近くだった。 男は撮影があると言って、こうるさいほど私を気遣いながら朝八時に出て行った。

私はベッド の中で手を振った。一人になったら急に眠くなって、ラブホテルのモーニング・コールで起こさ れるまで熟睡した。 ホテルから出ると蒸れた熱気がアスファルトの地面から立ち上がっている。 そういえば今日から八月だった。暑い。夏の街の熱帯果実の匂いがする。 駅に向かって歩きだすと下半身がすうすうする。空気が染みるような感じ。激しい性交をした 後はいつもパンツを穿き忘れたような気分になる。スカートの中がひどく無防備で剥き出しな感 じだ。 男は何かを確かめるみたいに明け方また挿入してきた。 二日酔いのせいかなかなか射精しない。

貪るように腰を擦りつけてくる。前夜よりもずっと激 しくて支配的なセックスだった。私は男にしがみついていくらでも受け入れた。男の欲情がじん わりと身体の中を這い上がってくる。それをじっと待っていれば男に共鳴していくらでもイケる。 幾度となく私が絶頂に達しても、男は果てない。痙攣している私の膣をゆっくりとこねていく。 男の動きに呼吸を合わせていると新しい快楽の波が寄せてくる。 「抱かれてる時は別人みたいだ」と言われる。そうかもしれない。欲情が去ると私はまるで男に 興味がなくなるのだ。 吉祥寺のマンションに戻ったらもう午後だ。

渋谷の街を歩いただけで汗だくになった。ぬるいお湯に浸かってアルコールを抜きたかった。 バスタブに湯を張る。ざあざあという水音がだんだん頭の中いっぱいに溜まっていき、怖くなる。 自分まで流れていきそうだ。 なぜ、木村と寝てしまったのだろう。ゆうべの記憶がところどころ消えている。新しく立ち上 がるオンライン証券会社の取材を終えてから、カメラマンの木村を食事に誘ったのは私だった。 そのままバーを何軒か梯して、泥酔して丸山町のラブホテルまで行ってしまった。 ざあざあざあ。考えが頭から溢れ出してまとまらない。ぼんやりと溜まっていくお湯を眺めて いたら、電話が鳴った。 はっと我に返り、慌てて受話器を取ると、不愉快なほど強引に言葉がねじ込まれてきた。 「タカが死んだぞ」 父の声だった。

一瞬、床がぐにやりとやわらかくなって、そのまま自分の重みでずぶずぶと落っこちていく。 「いつ?」 と聞くと、父は「知らん」と答える。「腐ってドロドロでもうわからない」と呟いた。 「とにかく、すぐに帰ってこい。いいか、ぐずぐずするなよ、こっちは大変なんだ」 慇懃に叱咤する口調で、電話は一方的に切れた。 私は受話器を置いて椅子に座った。頭の中が洪水になって考えが全部流れ出てしまう。ざあざ あざあ。何も感じない。ひどく透明な気持ちだった。 兄が死んだのだ。 息はまだ酒臭くて、こめかみがズキズキと痛んだ。頭の中の血管が収縮してヒクヒク痙攣する。

とにかく、兄が死んだのだから、家に帰らなければならない。 クリーニングのカバーから喪服を取り出して荷造りした。仕事先にファックスを送って、化粧 をし、戸締まりをしてのろのろと鍵をかけた。部屋を出て驚いた。外はすでに夏の夕暮れを迎え ていた。駅前に続く商店街の居酒屋からは焼き魚の匂いがする。夏休みの子供たちが連れ立って そぞろ歩いている。死と無関係に世界は気持ちのよい淡い黄昏だった。時間の感覚がズレている。 眩暈がした。

まるで私だけ白黒の世界に入り込んでしまったみたいだ。 兄はニカ月ほど前から行方不明になっていた。 兄の死を、私はひどく冷静に受け入れていた。こうなるような気がしていた。そう思った。 もしかしたら兄はゆうべラブホテルの天井にぽわんと浮かんで私のセックスを見ていたかもし れない。死んで最期のお別れにきたら妹は泥酔して男に抱かれているのだ。抱きしめた男の肩越 しに見上げると、無表情の兄と目が合う。ぞっとした。そんな恐ろしいことがないように、私は いつも目を閉じて男と寝るのかもしれない。

1. 甲府盆地にほど近い山あいの駅に着いたのは夜八時頃だった。 四方の山が闇だまりになって黒く街を取り囲んでいる。 タクシ、に乗ろうと思ったのに、タクシーが一台もいない。ひと気のない駅前のロータリーを 横切って、私は実家までの道を二十分ほど歩くことにした。 駅前にはさびれたスーパーがある。昔は流行っていたのだが、駅の反対側に大きなショッピン グセンターができたために、かつての商店街はすっかりさびれてしまった。私が子供の頃にこの スーパーは一度火事になった。夜を焦がすように火の粉が上がり、私は兄や近所の人たちといっ しょに、闇が燃え上がるのを見た。 スーパーの横を線路沿いに歩くと道はだんだんと細くなり、市街地をはずれてついに田んぼに なる。

かつての農道はきれいに舗装されて、ぼつんぽつんと灯りもあった。 周りは山に囲まれたわずかな水田地帯で、草いきれでむせかえるようだ。顔にぶつかる小さな 蛾を追い払いながら私は歩みを速めた。 高校の部活の帰り、自転車でこの道を通った。油の切れた前輪のギシギシとした回転音や、恥 骨に伝わってくる畦道のデコボコが鮮明に蘇る。 私は誰だろう。今朝方まで渋谷のラブホテルにいた私、金融雑誌の雇われライターの私、締め 切りを気にしながら仕事先にファックスを送っていたのは本当にこの私なんだろうか。現実の生 活が夢のように曖昧になっていく。

繁茂する植物の匂いに過去の記憶が蘇る。かつてこの土地に 暮らした私。この道を歩いた私が目覚めている。湿気を帯びた真夏の闇が皮膚にまとわりついて くる。無数の虫たちの鳴き声。闇に潜む生物の息遣い。何も変わってない。 兄もよくこの道を通学路に使っていた。 中学生の頃だ。田んぼで遊んでいると兄が学校から帰ってくるのが見える。私と兄は十も年が 離れていたので、私はたぶん六歳くらいだったのだろう。兄はいつも目を吊り上げ、前屈みに怒 ったように歩いていた。私が覚えている兄は、もうあの頃からどこか別の世界を生きているよう に見えた。

そういえば私には子供の頃の兄の記憶があまりない。断片的な出来事なら思い出せる。でも毎 日どのように寝食を共にしていたのかが思い出せない。食卓に兄はいただろうか。いたはずなの だが、見えない。 私が覚えているのは、兄から受けたいじめの記憶だ。 幼い頃、兄にはずいぶんいじめられた。 学校から帰ってくると「ユキ、プロレスごっこしよう」と言う。 四の宇固めだの、コブラツイストだのと言ってはまだ幼い私を組み伏せた。痛みに泣き叫んで もやめてくれない。

一度、股関節を脱臼したことがあった。 最初は遊びなのだ。遊びで始まったことがいつしか本気に変わっている。そういうことがよく あった。ある瞬間、スイッチが入ると兄は歯止めがきかなくなり形相が変わる。最初は笑ってい ても、いつしか寡黙になる。無表情になり殴り続ける。見開かれた瞼。焦点の合わない黒目。私 を見ていない。何も見ていない。えたいの知れない恐ろしいものに支配され、殴り続ける。そう いう時、この人に殺されるかもしれないと思った。

灯りの途切れた畦の闇に白い影が動く。 一瞬、恐怖で歩みが止まる。 おそるおそる目をこらすと草むらから一匹の犬が現れた。 シロだ、と思った。子供の頃ほんの少しの間だけ兄が飼っていた犬だ。頭のいいメスの野良犬 だった。どこからか兄が拾ってきて、家の縁の下に住みついた。小遣いを削って魚肉ソーセージ を与え、兄はシロをずいぶんと可愛がっていた。 まさかと思う、シロは死んだのだ。 ある日、泥酔して帰ってきた父が兄の目の前でシロを撲殺した。

サカリがついたシロは茶色いオス犬と交尾していた。父がそれを見てひどく怒りだし、兄のバ ットで二匹の犬を殴りつけた。日曜日の真昼間だった。父は前夜から近所の家にあがり込んで酒 を飲み続けており、完全な泥酔状態だった。 シロはオス犬と繋がったまま鳴いて逃げ惑い、父からもう一撃くらった。シロの鳴き声を聞き つけて兄が家から飛び出してきた時、シロは兄を見ても捻り、逃げようとした。脅えた目で後ず さり、そして倒れて息絶えた。

この犬がシロであるはずはない。 あれはもう二十年以上昔のことだ。犬は私のほうを一瞥てから、足音も立てずに農道を先に 歩く。私は犬の後を追う。 この先には小さな無人踏切りがある。 事故が多いので人食い踏切りと呼ばれていた踏切りだ。その踏切りを渡り、左に折れて川沿い の畦道を通ると、さらに暗い道だが家までは近道だ。 この踏切りで少女が自殺した。 他校の生徒だった。顔だけは知っている。顔の真ん中にソバカスを散らした普通の女の子だっ た。

その朝は私たちの修学旅行の日で、女子高校生を鮨詰めに乗せた電車を目がけてその子は身 を投げたのだ。噂ではウチの生徒に恋人を取られた腹いせだという。本当かどうかわからない。 以来、この踏切りには少女の幽霊が出るとみんなが恐れた。バラバラにもぎとられた腕の一本 が発見されなかった。野犬が拾って食べてしまったのではないかと町の人たちは言っていた。戻 らない腕を探して、少女はさ迷っているらしい。

無人踏切りの赤いランプが点滅している。 線路を伝う電車の振動が空気を揺らす。シロは踏切りの前で私を振り返り、一声吠えた。そし て踏切りを越えてあっち側へ駆けて行く。 シロを追おうとした瞬間、カンカンとけたたましく鳴る警鐘が私の身体をこちら側に引き止め た。 踏切りの向こうの闇にすうっと、シロに寄り添うように人影が見えた。どこからともなく現れ た人影にシロは夢中で尻尾を振っている。 「お兄ちゃん?」 私は叫んだ。

「お兄ちゃんなの」 私の声は警鐘に遮られてあっち側には届かない。人影はこちらを振り向かない。だけどあの痩 せた猫背の後ろ姿は兄に似ている。踏切りを渡ろうと思うのだが、頭の隅に血まみれの少女の亡 霊が見え隠れする。人食い踏切りに引き込まれそうで怖い。 「お兄ちゃん」 もう一度呼ぶと、人影はゆっくり振り向こうとした。 その途端、轟音が響き、電車がいきなり私の視界を遮る。まぶしい車内灯が闇に慣れた目をめ くらます。

視界から電車が去った後には、 もうシロも兄の姿もなかった。 「ねえ、無人踏切りのところで、お兄ちゃんを見たよ」 実家の玄関で靴を脱ぎながらそう言うと、奥から出てきた父がいきなり私の胸ぐらを掴みあげ た。 「ふざけたことを言うんじゃない」 父の息はすでに酒の匂いがした。 「あいつは死んだんだ、死んだんだよ。俺はこの目で見てきたんだ。あいつはな、ドロドロに腐 って溶けてたよ。顔なんかなあ、ふた目と見られたもんじゃなかった。

ひでえもんだった。目玉 から蛆がわいてたよ。そりゃもう情けない死に様だったよ」 そう言って、父はわあわあと男泣きに泣きだした。 「遺体は?」 と母に尋ねると、母も涙声で、 「病院」 と答えた。 「死因は何だったの?自殺?」 母は首を横に振る。 「自殺じゃないの?じゃあなぜ……」 母はもつれたような口になり、父のほうを見た。父は廊下に膝をついたまま俯き、鳴咽してい る。私は薄暗い実家の玄関に立ったまま、居心地の悪い沈黙のなかで思い出していた。そうだ、 この人たちは肝心なことは何も言わないのだった。本文P.3〜15ページより
 

 

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