ローマの街角から
 
 
 
 
これは日本の友人へ送る手紙です
 
著者
塩野七生
 
出版社
新潮社
 
定価
本体 1200円(税別)
 
ISBN4−10−309626−8
 
 

口ーマに住むこと

フィレンツェでそうであったと同じで、ローマでも都心に住んでいる。選挙区では第一区 だから、ローマの「千代田区」というところだろう。都心中の都心に住むのは、二千年も昔 から人が住んできたのだから、安全度だって大丈夫にちがいないという、単なる思いこみに よる。

それに、わが家から一、二分の距離に、初代皇帝アウグストゥスが建てさせたローマ 帝国皇帝たちの墓もある。いくらなんでも皇帝たちの墓所を、水害や地震の心配のある場所 に建てるわけがないというのも、この家を選んだ理由の一つだった。

フィレンツェでもそうだったが、河の近くに住んでいる。ただし、アルノ河に面する家に 住まなかったように、ローマでもテヴェレ河ぞいには住んでいない。百年前にイタリアを統 一したトリノの人たちの考えによって、何ぞいは道路が走るように変ってしまったからだ。

フィレンツェでもローマでも河に面して建つ建物は昔のままなので、土手を地盤整備して 堤防を張り出し、その上を道路にしたのだろう。当時は何ぞいの散策路を作ったつもりだっ たろうが、百年後の現在は猛スピードで走る自動車道になっている。『法王庁殺人事件』で は主人公をテヴェレ河に面した家に住まわせたが、五百年も昔の話だったから粋な住まい方 になれたので、今ならば二重ガラスにでもしないかぎり、粋どころの話ではなくなっている。

いや、窓を二重ガラス張りにしてもダメですね。水面を伝わってくる騒音のすさまじさは、 古代のローマ人と同じテヴェレを眼前にしている、なんていう想いも吹きとばす勢いだ。 ゲーテは多分、北からローマに入るフラミニア門からフォロ・ロマーノに向うコルソ通り に居をかまえていたと思うが、古代ローマに憧れていた彼ならば当然だ。

コルソ(競走)通 りと名の変るのは謝肉祭中に仮装競走が行われていたルネサンス時代からで、それ以前は古 代と同じに、フラミニア街道と言ったのだった。国道三号線として今でも使われているフラ フラミニア街道は、現代ではポポロ広場の北辺に立つフフミニア門から北に向う街道の名として 残っている。

わが家は、このポポロ広場から三分。日常の行動範囲だから、フラミニアとい う名は、街道としても城門としても始終眼にしているわけだが、そのたびに独り言を言う。 「ハンニバルの策略にはまって討死しちゃったあなただけど、国道三号線の名で遺っている のだからいいじゃないですか」 紀元前二一七年、中部のトラジメーノ湖畔で戦死したガイウス・フフミニウスだが、その 数年前に、ローマからリミニに通ずる幹線道路を敷設させていたのだった。

大学の卒業論文の冒頭を『イタリア紀行』ではじめたほど私には馴染み深いゲーアだが、 ローマでの住まいまで彼を見習うことはできなかった。かつてのフラミニア街道、現在のコ ルソ通りが、ローマの中心部を通って行くために大変な騒音なのである。バスは行き交い車 の往来も激しく、自動車時代の波をモロにかぶって、ロマン派の作家の気分など追えるとこ ろではない。

同じ現象は、これまたわが家から五、六分の距離にある、スペイン広場界隈とて同じだ。 詩人キーツやシェリーが住んでいた時代ではないのだ。スペイン階段は今や、観光客やそれ 相手に何かを売る人たちで埋まっていて、石肌も見えない有様。「世界で一つしか存在しな い家の持主になれます」なんてささやく不動産屋の言に耳を傾ける気になれなかった。たし かにスペイン階段は世界に一つしかないから、それを眼前にする家の資産価値も落ちること はないだろう。

ローマでは、不動産の価値には借景が大きく影響する。とはいってもこの喧 騒に付き合っていては、古代ローマを書くどころではない。キーツだったかシェリーだった かが住んでいた家は、今では記念館になっている。ゲーテの住んだ家は、ドイッチェ・イン スティトゥートになっているのではなかったか。 というわけで、彼らのような文豪になる怖れはまったくない私は、安心してローマでも、 実に普通の家に住んでいる。ただ、そこに住んでいる私の頭の中だけは、普通であってはな らないとは思っているけれど。 .(一九九四年五月) 本文P.9〜より

 

 

 

 

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