実録・外道の条件
 
 
 
  許さん。復讐の鬼と化した俺は三年間洞窟にこもって本稿を書き綴った。  
著者
町田康
 
出版社
メディアファクトリー
 
定価
本体 1400円(税別)
 
ISBN4−8401−0139−6
 
 

ファッションの引導鐘 1995年5月

設計を担当した者の安易な発想が、丸窓、分かりにくい位置にあるエレベーター、空間 効率の悪い階段などに表現される、当人にすりゃあ奇抜、通常人から見りゃあ陳腐な外観 の、しかしよく見るとところどころいかにも安手の材料・材質・施工、しかも、管理運営 がきちんとなされていないせいか、ペンキは剥落し錆が浮き建物全体が挨にまみれて薄汚 れた集合住宅。なかなかやって来ぬエレベーターに業を煮やした自分は、駅から歩いてす ぐですよ、という圧下蓮子の言葉を信じ、三十分近くも歩いて足が棒のようになっている のにもかかわらず、遅刻を恐れた自分は、背後の階段を四階まで一気にかけ登った。 急激な運動によって心臓に痛みを感じ、はあはあ苦しげな呼吸をしつつ時計を見ると、 五分前である。狭いエレベーターホールまで行き、全部で三つあるドアの部屋番号を確認 して、402とある部屋のブザーを押そうとして自分は、ふと躊躇した。たしか圧下蓮子 はスタイリストの事務所と言っていたはずである。ところが事務所であるべき402号窒 に事務所名を記したフレート等がなく、ただ、紙にマジックで猿田彦十という個人名を書 は いた紙が貼ってあるばかりで、これはなにかの間違いか、と自分は、念のため持ってきか ファクシミリをポケットから取り出して広げた。 402。間違いない。あれえ、なんてえながら自分はブザーを押してみた。誰も出てこ ない。やっぱり違うのか、と思いつつ、いま一度押したが、やはり出てこない。三分ほど 待ってもう一度押したが同じこと。いったいどうなっとるのだ、って、ファクシミリを見 てもやはり同じ、402、スタイリストの事務所に10:30に来て下さい。とある。間違っ てない。ドアノブをつかんで回してみたが鍵がかかっている。 しょうがねえなあ、と、自分は、ファクシミリに記された電話番号に電話をかけた。と ころが、プリセットされた留守応答メッセージの人工音声が流れるばかりで誰も出ない。 ってことはやっぱりここなのか、と思ったが、しかしながら、十時三十分と指定しておき ながら十時二十五分にいねえたあ、どういう訳だ。おなめになっているのか。くそう。っ て、自分は圧下蓮子の顔を思い浮かべた。 思えば圧下の言動は最初からおかしかった。かかるスチール撮影に際して、事前に被写 体に面会を求める編集者は概ね無能であることが多いが、はたして圧下は面会を執拗に求 めた。自宅から約一時間三十分がけて指定された銀座の喫茶店に出掛けていった自分に、 十分遅刻しでやってきた圧下は、いくつかの、ストリート、トレンドといった片仮名語に、 って感じ、って雰囲気、という日本語をくっつけた空疎な文言を、いかにも私は仕事が出 来る人間なのだ、といった風情の早口で映ったうえ、やがて言うことがなくなると、今回 の撮影は、だいたいこういうコンセプトです、と言って、傲然と胸を反らした。つまりな にも語らなかった。また、自ら、若しくは、発注業者に対して、デザイナーの方が、スタ イリストの方が、おっしゃるには、いらっしゃるので、などと丁寧語を用いるのも奇異で あった。約三十分の圧下との無意味な会談を終え、また一時間三十分がけて帰ってった自分のところに、ファクシミリが送られてきたのは、それから二、三日経ってからのことで、 チュルチュル出てきた紙を見ると、いい加減なマジック書きで、帽子を被って半ズボンを はいた男が虫取り網を持って立っている、三歳児の落書きのごとき絵と、スタイリスト事 務所の周辺図、電話番号などが記してあった。なにがなんだか分からない。しかしまあ、 と自分は思った。しかしまあ、なんだか分からぬが、服を着て写真を撮られればよいのだ ろう、と高を括っていたのである。 しかしながら困った。自分はめったやたらとブザーを押してみたが、やはり応答がない。 ロケハンにでも行ったのか、って、表に出て公衆電話から記されたいまひとつの番号、す なわち圧下の携帯電話の番号に電話をかけてみたが、聴こえてくるのは、スタイリストの 事務所と同じく、留守番電話サービスの応答メッセージばかりである。いったいなにをや っとるのだ、と、また、しかし今度はエレベーターで四階に上がり狭いエレベーターホー ルにたどり着いた時点で時刻は十時四十五分になっていた。自分は、どうせいねえんだろ、 と思いつつブザーを押した。相変わらず誰も出てこない。とにかくなにか根本的な手違い があったのだ。しょうがねえ、また下に降りて編集部に電話をかけてみるか、と、エレベ ーターのボタンを押したとき、背後でドアが開き、若い女が左手をドアノブにかけ、右手 を壁について十センチばかりのドアの隙間から、顔を覗かせ怪訝そうな顔で当方の様子を 窺っている。さっき下に降りた際、人が戻ってきた様子はなかったが、いつの間に戻った んだ。或いは、この建物にはもう一基、別のエレベーターがあるのか、と訝りながら自分 は振り返り、女に名前を名乗った。ところが女はますます怪訝そうな表情をするばかりで、 やはり地図が間違ってたのかと思いつつも自分は、一応、圧下さんいませんか、と訊いて みた。すると女は急に納得したような顔をして、ああ、と言うと、美容窒の店員のような、 取り澄ました調子で、どうぞ、と言ってドアを大きく開いたので自分は中に入った。 黒いゴムシートのようなものを敷いたなんだか磯っぽい玄関口で、そのままでどうぞ、 と言うので靴を脱がないで上がり廊下を右に行って、左のリビングルームには大音響でヒ ップホップが流れていた。これではブザーの音など聴こえっこない。 本文P.4,5,6,7より

 
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