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停 電 の 夜 に
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著者
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ジュンパ・ラヒリ
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出版社
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新潮社
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定価
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本体 1900円(税別)
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ISBN4−10−590019−6
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停電の夜に 臨時の措置、と通知には書いてあった。五日間だけ、午後八時から一時間の停電になるという。 天候が落ちついてきたので、吹雪でやられた箇所の復旧作業をするらしい。停電といっても、二 の道筋だけのこと。静かな並木道になっていて、ちょっと歩けばレンガの店先が何軒かならび、 市電の停留所もある。夫婦が暮らして三年になる。 「通知してくれるだけ親切よね」文面を読み上げてからショーパが言った。シュクマールに聞か せるためというよりも、自分に向けて読んだようなものだ。書類でふくらんだ革カバンが肩から ずり落ちたが、これを廊下に放っておいて、キッチンヘ行った。ポプリン地で濃紺のレインコー トを引っかけ、グレーのスウェットパンツに白いスニーカーという格好で、いま三十三歳。あん な女には絶対ならないと言っていた、そんな女になってきた。 帰り道、ジムヘ寄った。クランベリー色の口紅が唇のまわりだけ消え残り、アイライナーは□ の真下に木炭でもなすりつけたようになっている。こんな顔だったな、とシュクマールは思った。 パーティーへ行ったり夜のバーで飲んだりした翌朝は、顔を洗うのも億劫らしく、ただただ彼に しなだれかかったものである。 ショーパは郵便をどさっとテーブルに置いたが、そっちへは目もくれずに、反対の手に持った 通知だけを見ていた。「どうせなら昼間やってくれればいいのに」 「僕がいるときに、か」シュクマールはラムを煮ている鍋にガラス蓋をした。いくぶんか湯気の 逃げ道を残しておいた。一月からは自宅で仕事をしている。インドの農民一揆をテーマに、博士 論文の仕上げにかかっているのだった。「工事はいつから?」 「三月十九日たって。きょうじゃないの?」ショーバは冷蔵庫の脇の壁にかかっているコルクの 掲示板に近づいた。ウィリアム・モリスの壁紙模様のカレンダーだけが留めてあった。まるで初 めて見たように、しげしげと、上半分の模様をながめてから、下半分の升目と数字に目を移した。 クリスマスに友人が送ってくれたものだが、去年はもう二人でクリスマスを祝う気分ではなかっ た。 「きょうからだわ」とショーバは言った。「そういえば、あなた、来週の金曜目は歯医者に予約 してたのね」 シュクマールは舌先で歯をぞろりと舐めた。けさは歯を磨かなかった。きょうに始まったこと ではない。きょうもきのうも一日じゅう家にいた。ショーバが外に出て、わざわざ職務外の仕事 をかってでて残業がちになると、逆に彼は家にこもって、郵便が来たかを見ることもなく、フル ーツやワインを買いに停留所のほうへ行くこともなくなった。半年前の九月、彼がボルティモア の学会へ出ていた留守に、ショーバは産気づいた。予定より三週間早かった。どうしても出たい 学会ではなかったが、ショーバが行けと言った。そろそろ人脈づくりをしておかないと、来年は 教職の口があるかどうかの勝負である。ホテルの電話番号はわかっている、と彼女は言った。旅 の予定も飛行機のフライトナンバーも控えてある。いざとなったら友人のジリアンが卓で入院さ せてくれる手はずなのだ。空港へと走り去るタクシーに、彼女は手を振って立っていた。ローブ を着て、ふくらんだ腹に腕を一本あてがった姿に、まるで違和感はなさそうに思えたが。 あのときの、まだ妊婦だったショーバを見た最後のときを思うたびに、乗ったタクシーがまざ まざとよみがえった。ステーションワゴンだった。赤い卓にブルーの文字が入っていた。うちの 車にくらべれば洞穴のように大きいと思った。シュグマールも背丈は百八十センチを越え、ジー ンズのポケットに突っ込むと窮屈なくらいの手をしている男だが、後部座席におさまっていると 小人になったような気がした。そうやってビーコン・ストリートを走り抜けながら、いつか自分 たち夫婦もステーションワゴンを持つことになって、子供たちを音楽のレッスンや歯の診療に送 り迎えするのではなかろうかと思った。しっかりハンドルを握っていると、横にいるショーバが うしろの子供たちにジュースのパックを持たせている──というような子育ての想像は、以前な らシュグマールの心を乱した。三十五にもなって学生の身分であることが、あらためて気にかか った。だが、あの朝、まだ木々の枝にブロンズ色の葉がゆさゆさついていた秋の朝は、そんな空 想を初めていいものだと思った。 学生のスタッフが、どこも似たような会議室をさがしてシュクマールを見つけ、ぴんと張った 真四角なメモを渡したのだった。電話番号だけだったが、シュクマールには病院だとわかった。 ボストンヘとって返したときには、もう終わっていた。死産だという。ショーパはベッドで眠っ ていた。手狭な個室で、付き添って立つのがやっとである。出産準備で案内されたとき、こんな 病棟には来なかった。胎盤の力がなくなって帝王切開をしたのだが、いささか手遅れだったらし い。よくあることだと医者は言った。職業上の笑いとしては最高度に親身な笑顔だった。ひと月 もしないうちに立って歩けるようになるだろう。産めない体になったわけでもない。 近,ころはシュグマールが起きれば、とうに彼女は出かけていた。起き抜けの目に映るのは枕に 残った長い髪の毛であり、頭に浮かぶのは整った身なりの妻が、三杯目のコーヒーを口に運びな がら、ダウンタウンのオフィスで教育図書の校正をしている姿だった。色鉛筆を使い分けて、こ れこれの記号を書き入れる、と言っていた。あなたの論文が仕上がったら、その校正をしてあげ る、のだそうだ。そんな仕事の具体性がうらやましかった。まとまらない論文とは大違いだ。研 究者としては凡庸で、こまかい事実を寄せ集めることはできるのだが、心底打ち込んでいたとは 言いきれない。それでも九月までは一応がんばって草案を練り、クリーム色を帯びた用箋に書き つけていた。だが、いまとなっては飽きるくらい一人で寝ころんで、クロゼットをながめてばか りいる。ショーパがきちんと閉めないものだから、ツイードの上着やコーデュロイのズボンが見 えてしまう。どれを着ていこうと考えるまでもない。死産がどうあれ前学期はもう予定を変えら れなかったが、春からは指導教授のはからいで、教える義務を免除されていた。 本文P.6,7,8,9より |
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