睡蓮の長いまどろみ
 
 
 
  自殺したはずの女から届く謎の手紙─  
著者
宮本輝
出版社
文芸春秋
定価
本体 1429円(税別)上・下
ISBN4−16−319590−4 上
ISBN4−16−319600−5 下
 
 

第一章アッシジ

ドアをあけたままそのホテルの大理万の浴槽に深く身を沈め、ほぼ目の高さと同じところに ある居間の床から中庭のほうに視線を投じると、青緑色の池と蔦のからまった階段の手すりが 見える。 庭には花々が咲き、葡萄棚があり、その横にミラヴェルの古木が枝をひろげている。 昔もいまも、夕暮れになると、聖フランチェスコ教会に帰って行くカラスの大群の影が、R ホテルの中庭を真夜中のようにさせるらしいのだが、世良順哉は五日間宿泊して一度もその情 景を見ないまま、イタリアのアッシジから日本へ帰ってきた。 帰国後順哉と一緒に初めての外国旅行を楽しんだ妻の津奈子が撮った写真ができあがってき て、そのなかに、浴槽から中庭を撮影したものが二枚あった。 どうしてこんなところから写真を撮ったのかという順哉のいぶかしそうな問いに、あなたが 何度かそこからカメラを構える真似をしていたので、湯を抜いたあと、同じ格好をして写して みたのだと津奈子は言った。 一枚は右側からの光線が強くて、中庭の池も葡萄棚も白く光っていたが、別の一枚は暗い色 調のなかでそれぞれの輪郭は鮮かで、階段の手すりにからみつく蔦の曲線に妖しさまでが感じ られた。 津奈子は、出発直前に奮発して買った交換レンズ付の精度の高いカメラに感心していたが、 まぐれとはいえ、この一枚は素人離れしていると順哉は本心から誉め、自分でもいささか偏執 的と思える計略を思いついた。 順哉は津奈子に内緒で、その写真を使って絵葉書を五十枚作り、もしお気に召しましたらお 使い下さいますようにとしたためたカードを添えて、四十二年前に夫と離婚し、まだ赤ん坊だ った息子の順哉を捨てた母に送るつもりで宛名を書いた。 しかし、それはまだ順哉の机の引出しの奥にしまったままになっている。 旅行から帰って二週間後、珍しく定時に社を出た世良順哉は、家から歩いて三十分ほどのと ころに借りている一部屋きりのアパートに行った。このアパートのことは、妻にも中学生の息 子にも秘密にしてあった。風呂はなく、狭いトイレとひとつきりのレンジと小さな流しが付い ているだけの六畳の部屋に、順哉は自分の痕跡をとどめるものを置いたことはなかった。 このアパートの部屋に入ったら、順哉は自分への羞恥や理性を捨てて、自分のなかに棲むひ とりの女に快楽を与えつづけなければならないと割り切ったはずなのに、ドアの前に立つと、 いつもかすかな罪悪感で廊下や階段を盗み見てしまうのだった。 部屋に入り、ドアに鍵をかけ、何日も閉めきったままの窓をあけ、空気を入れ換えているう ちに落ち着きを取り戻すと、順哉はおそらく八歳のときから自分のなかに棲み始めた女が恥じ そうに出てくるのを待つのだった。 その女に特定の顔はなく、声もなく、順哉をいささかたりとも苛立たせる自意識もなかった。 なまめかしい裸体と性器と、萎えない喜悦のくねりを持っている。被虐的に扱われることを恥 らいながらねだり、果てても果てても敏感に反応しつづけ、汚れた心を持っていないのだった。 そして、その女を思いどおりに組みじたく男にも顔はなく、声もなく、性格もなく、ただ終わ ることのない長大な隆起だけを持っていた。順哉が、その男になったことは一度もなかった。 だから順哉は、そのとき自分がいったいどっちになっているのかを考えてみたことが一度な らずあって、やはり女のほうであろうと結論を下したとき、自分は気づいてはいないが、その ような機会があれば、男色の、受け身の側へとのめり込むのかと考えたが、想像するたびに、 それは鳥肌が立つほどの嫌悪感として迫ってきた。自分はそのときどちらにもなっていないの かもしれないと考えたのだった。 本文P.5,6,7より

 
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