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 猫を抱いて象と泳ぐ
 
小川洋子/著 出版社:文芸春秋 定価(税込):1,780円  
第一刷発行:2009年1月 ISBN:978-4-16-327750-9  
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伝説のチェスプレーヤー、リトル・アリョーヒンの密やかな奇跡。触れ合うことも、語り合うことさえできないのに…大切な人にそっと囁きかけたくなる物語です。
 
猫を抱いて象と泳ぐ 小川洋子/著

本の要約

2009年は小川洋子さんの最高傑作で始まります。天才チェスプレーヤー、リトル・アリョーヒンの密やかな奇跡の物語。廃バスに住む巨漢のマスターに手ほどきを受け、マスターの愛猫ポーンを掻き抱き、デパートの屋上に閉じ込められた象インディラを心の友に、チェスの大海原に乗り出した孤独な少年。彼の棋譜は詩のように美しいが、その姿を見た者はいない。なぜなら……。海底チェス倶楽部、からくり人形、人間チェス、白い鳩を肩にとまらせた美少女、老婆令嬢……やがて最も切なく愛(いと)おしいラストへ。めくるめく小川ワールドをご堪能ください


小川 洋子 (オガワ ヨウコ)       
1962年、岡山県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業。88年「揚羽蝶が壊れる時」で第7回海燕新人文学賞、91年「妊娠カレンダー」で第104回芥川賞を受賞。2004年「博士の愛した数式」が第55回読売文学賞、第1回本屋大賞を受賞。他の主な作品に「ブラフマンの埋葬」(2004年第32回泉鏡花文学賞)、「ミーナの行進」(2006年第42回谷崎潤一郎賞)などがある(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


オススメな本 内容抜粋

第一章

リトル・アリョーヒンが、リトル・アリョーヒンと呼ばれるようになるずっと以前の話から、
まずは始めたいと思う。彼がまだ親の名付けたごく平几な名前しか持っていなかった頃の話であ
る。
七歳になったばかりの少年は、時々、祖母と弟の三人でデパートへ出掛けるのをささやかな喜
びとしていた。路線バスで二十分ほどの道のりは、乗り物に弱い彼にとっては苦しみに満ちた時
間であったし、また、おもちゃを買ってもらったり、大食堂でお子様ランチを食べたりというデ
パートならではの楽しみが約束されているわけでもなかったのだが、それらを差し引いてもなお、
そこでの時間は特別な体験だった。
祖母と弟が二人で電車の模型や潜水艦のプラモデルやシルクのドレスや鰐革のハンドバッグな 
どを見物して歩く間、少年は一人、屋上で過ごした。当時のデパートの屋上がどこもそうであっ
たのと同じく、そこには回転木馬やコーヒーカップといった遊具が設えられ、子供たちの歓声が
響き渡っていた。
しかし彼は遊具になど見向きもしなかった。乗り物酔いの名残りがまだ胸でもやもやとしてい
たし、何より切符を買うお金を持っていなかった。彼は真っ直ぐ屋上を横切り、観覧車の裏側、
ボイラー室の壁とフェンスに囲まれた一角にたたずんだ。そこが彼の指定席だった。目の前には
小さな立て札が立っていた。
『本デパート開業記念として印度からやって来た象のインディラ、臨終の地。もともと子象の間
だけ借り受け、しかる後、動物園へ引き渡す約束であったが、あまりの人気に適切な返却期間を
逸し、大きくなりすぎて屋上から降りることができなくなった。そのため、三十七年間この屋上
にて子供たちに愛嬌を振りまきながら、一生を終えた』
学校で読み書きを習い始めたばかりの少年にとっては少し難しい文章だったが、祖母に何度と
なく立て札を読んでもらっていた彼は、既に文章を全部暗記してしまっていた。
立て札の支柱にはインディラの形見と思われる鉄製の足輪がはめられていた。それはすっかり
錆だらけで、子供の手では到底持ち上げられないほどに重々しかった。更に説明文に続いて、房
やビーズの飾りで印度風のお洒落をし、得意げに鼻を持ち上げるインディラの姿が描かれていた
が、少年にはその絵がインチキだとすぐに分かった。彼女の足に鉄の輪がはめられていなかった
からだ。
少年は長い時間そこに立ち、吹き抜ける風に頬を冷たくしながらインディラについて思いを巡
らせた。エレベーターに乗せられ屋上にやって来た小さなインディラ。もの珍しさに感嘆の声を
上げ、チャンスがあれば少しでも触ってやろうと押し合いへし合いする見物客。親に肩車され、
奇声を発する子供たち。インディラは目をくりくりさせ、鼻を振り、バナナを食べる。
やがて時が過ぎ、とうとうお別れの日が来て、盛大なサヨナラセレモニーが催される。子供ら
は泣きながらお別れの手紙を朗読する。さあ、いよいよ出発だ。飼育員さんに導かれ、インディ
ラはエレベーターに乗ろうとする。「あれっ」と誰かが声を漏らす。天井に頭がぶつかって中へ
入れない。飼育員さんは棒で鼻の付け根をぐいぐい押さえつけ、他の人たちは力を合わせてお尻
を押し込めようとする。インディラは自分の身に一体何が起こっているのか見当もつかない。で
きることなら飼育員さんをはじめ皆さんの希望にこたえたいと思い、彼女なりに工夫をして耳を
パタパタさせてみたり、尻尾を丸めてみたりするのだけれど、何の役にも立ちはしない。身体の
節々が痛んで、涙がにじむばかりだ。誰がどう考えても、エレベーターの四角い箱に収めるには、
インディラは大きくなりすぎている。


(本文P. 5〜7より引用)


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