1 願い事
窓の外に奇妙な形の雲が広がっている。ドーナツ状の雲の中央に、たった今、離陸して
きた地方都市の街並みが見える。
今泉圭介は膝に広げていた雑誌を前座席のポケットに入れた。頭上のシートベルト着用
サインはまだついている。
圭介が生まれて初めて飛行機に乗ったのは、今からもう二十年以上も前、小学校四年の
春のことだった。
あいにく楽しい家族旅行ではなく、横には、やはり初めて飛行機に乗る着物姿の祖母が
おり、座席に正座してもいいものだろうか、と頻りに圭介に聞いてきた。
その前の晩、両親と兄は大阪へ出かけていた。大阪に住む父の従弟の結婚式だった。
圭介だけ家に残ったのは、週末に所属しているバスケット部の試合があり、最後の最後
になってレギュラーメンバーに選ばれてしまったからだ。
両親は圭介だけ残していくのを当初は心配したのだが、家には祖母もいるし、たった二
泊のことだしと、結局あっさりと大阪行きを決めてしまった。
圭介も初めての飛行機に未練がないことはなかったが、四年生で唯一自分だけがレギュ
ラーになれた快挙のほうが勝った。
大阪に着いた母から電話があったのは、その晩の八時を過ぎたころだった。すでに食事
も済ませ、風呂にも入り、パジャマでテレビを見ていた圭介が電話に出ると、日ごろおっ
とりした母が声を上ずらせ、「圭ちゃん?おばあちゃん、いる?ちょっと代わって!」
と言う。
「今、大阪に着いたよ〜」ぐらいの電話だと思っていた圭介は、母の慌てぶりに自分まで
慌ててしまい、横で縫い物をしていた祖母の鼻にぶつけてしまうほど、強く受話器を差し
出した。
「え?なんて?なんでまた……、どこで……」
祖母がそう眩きながら、震える手で電話を撫でる。心細くなった圭介は、横でじっと祖
母が着ていた浴衣の袖を握っていた。
兄の広志がバイクに擾ねられ、大阪の病院に運ばれという知らせだった。祖母は翌朝大
阪へ向かうことを決め、隣に住む叔父にチケットの購入と空港までの送迎を頼んだ。
翌朝早く、祖母はバスケット部の顧問教師に電話を入れて事情を話した。電話を代わっ
た圭介に、若い教師は、「しっかり、おばあちゃんを連れてけよ」と言った。
生まれて初めて乗った飛行機で、圭介は「お兄ちゃんが無事でありますように」と祈り
続けた。空に近い分、願い事が叶うような気がしてならなかった。
幸い、兄は軽い怪我で済んだ。事故のショックで一時体温が下がったりしたらしいが、
圭介が病院に着いたころには、「痛い、痛い」と顔をしかめながらも、美味しそうに搾り
たてのリンゴジュースを飲んでいた。
その後、病室に結婚式を終えたばかりの新郎新婦や、まだ晴れ着姿の親戚たちが次々と
駆けつけて、看護師も笑い出すほど妙な雰囲気になってしまった。
病室の窓から、大空を横切る飛行機が見えた。空に近くも見えたし、さほど近くもない
ようにも見えた。
飛行機の中で兄の無事を祈ったことを、圭介は誰にも言わなかった。誰かに言うと、
救ってくれた神様を裏切るような気がしたのだ。
考えてみれば、それ以来、飛行機に乗ると、圭介は願い事をしてしまう。バスケットの
試合で遠征したときは優勝を願い、大学受験に向かったときは合格を、好きになった女に
告白する前に、用もないのにわざわざ札幌まで飛んだこともある。
あれからすでに二十年以上、叶った願いもあれば、もちろん叶わなかった願いもある
が、飛行機が離陸して、シートベルト着用のサインが消えると、圭介はほとんど習慣的に
目を閉じ、心の中で手を合わせてしまう。
上昇を続けていた機体が、ふとカを抜いたように軽くなり、水平飛行になったことが分
かった。次の瞬間、見上げていたシートベルト着用のサインが、乾いた音と共に消える。
「ちょっと、ごめん」⊆
目を閉じようとした瞬間、窓際に座る妻から声をかけられた。寝つきを邪魔されたよう
な気分で、「なんだよ?」と睨むと、シートベルトを外しながら、「ごめん、ちょっとトイ
レ」と立ち上がる。
さすがに足を跨がせるわけにもいかず、圭介は自分もシートベルトを外し、狭い通路に
立った。
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