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 ミノタウロス
著者
佐藤亜紀/著
出版社
講談社
定価
税込価格 1,785円
第一刷発行
2007/05
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ISBN 978-4-06-214058-4

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二十世紀初頭、ロシア。人にも獣にもなりきれないミノタウロスの子らが、凍える時代を疾走する。―文学のルネッサンスを告げる著者渾身の大河小説。
 
ミノタウロス 佐藤亜紀/著

本の要約

悪の中の最悪の悪が、生き残る!     ロシア革命時期、無政府状態のウクライナ平原を駆け抜ける3人の若者たちがいた。時に機関銃つき馬車、時に飛行機を操って、当たるを幸い歯向かう敵をなぎ倒す!



オススメな本 内容抜粋


ぼくは時々、地主に成り上がる瞬間に親父が感じた眩量を想像してみる。親父がまだヴォズネ
センスクにいて、農機具店で働いていた頃のことだ。ぼくが生れるより二十年も前の話だ。
独学で身に付けた簿記と、腰の低さと、お愛想笑いが生活の手段だった。三十を過ぎても独り
身だった。爪に火を灯すようにして僅かばかりの給金を貯め込む小男に嫁こうという女はいな
い。日の当らない店の奥で青白く面窶れはしていても病気一つしなかったし、重い鉄床をちょっ
と踏ん張るだけで抱え上げるくらい頑丈だったが、女たちは親父を宙官か何かのように考えてい
たらしい。実際、頭の両脇を短く刈り上げ、頭頂部に癖毛を一つまみ生やしたあの頃の親父の写
真は、妙な具合に宦官じみていた。
六歳で家を出たと聞かせてくれたことがある。母親に連れられて甜菜の農場に雇われたのだ。
母親は百人もの女たちと列になり、屈み込んで植え付けをやる。甜菜が太り始める季節になる
と、夜通し、土が乾かないよう水を遣る。夜も昼も見回って、手で虫を取るのは子供たちの仕事
だった。収穫の後は農場の中にある製糖場に雇われた。工場は暑く、外は身を切るほどに寒く、
壁に少し寄るだけで釜に向けた顔は火照り、背中は凍りついた。働き手たちは、夏も冬も、交代
で休みなく働き続けた。
農場から農場へと渡り歩く暮しは十四まで続いた。ちっちゃかったからな、と親父は言った。
普通は十かそこらまでだ。それよりでかくなると一人前の男の労賃を払わなけりゃならん。一日
に十五コペイカか十六コペイカ。お袋と組で二十五コペイカなんて年もあった。男一人分ってこ
とだ。何にもしないうちから差配が頭を撫でて褒めてくれたもんさ。飲まない、ごねない、仕事
は一人前でも払いは半人前で済む、ってな。
農場の上がりを歩合で取る差配は、親父には畏敬の対象だった。揺るぎない支配は神性に似て
いる。狡猜も、残忍も、十の子供を眠気と空腹と諦めで小さく縮んだ老人に変えてしまって顧み
ない冷淡も、神々の特質に他ならない。母子一組で二十五コペイカ。どうしても必要な力仕事の
ためにとことんまで買い叩いた男手。あと必要なものは何だろう。肥料か。製糖場で使う石炭
か。犂を引かせる馬か。親父はとっくに理解していた。差配に金時計をぶら下げさせ、親父の目
には月から落ちてきたように見える、破風を上げ列柱を連ねた不在地主の屋敷を立ち腐れさせて
おくだけの金がどこから出てくるのか。
ぼくは親父を不信の目で眺めた。親父はズボンのポケットに両手を突っ込み、そっぽを向いた
まま歩きながら答えた。おれは違う、何だほら、主義者か、ああいうんじゃない。
不愉快なくらい理路整然とも、恐ろしいくらい威張り返っても喋れる親父だったが、ぼくに話
をする時にはいつもそんな風だった。ほら何だ、あれだーまるで頭からそのまま言葉を垂れ流
すような具合だ。十で腰が曲がる。ひやずな奴は製糖場から出た途端に熱を出して死ぬ。ぼくは
暫く考えて、話の筋道を推測する。親父は言葉を繋ぐ。どうせどいつもこいつも農場から農場に
渡り歩いて暮すんだ。ご時世が変わったってな。で、どいつもこいつも日当が五十コペイカか。
六十コペイカか。あとは何だ。学校か。病院か。欲のないこった。
親父が見ているのは広大な荒地だ。ひねこびた灌木と黄色く枯れた草に覆われた荒地が、視野
を横切り地平線に沈むまで続いている。そのすべてが、親父のものになる。やがては切り開か
れ、鋤き返されて黒々とした土を曝し、重い麦の穂をざわめかせ、刈り取られ、霜を被って穏や
かに冬を待つ畑となる荒地だ。
丁稚をしながら読み書きを覚え、帳簿を覚えて店を切り回す間、想像していたのがどんな土地
だったのか聞いたことはない。甜菜は早々に諦めた。利が厚すぎる。向いた農地は売りに出な
い。出たとしても旦那衆の間で消える。消えないとしても途方もない値が付く。何十年も小作を
続けてきた百姓が猫の額ほどの地面を譲ってもらうことさえ難しいのだ。親父は狙いを南に移し
た。小麦だ。高値を続けてはいたが、甜菜ほどではない。土地の値も張らない。金はそのうち貯
まるだろう。老いぼれて、その気にもならなくなる前には。
ヴォズネセンスクで親父が目を背けて通った居酒屋は、昔は馴染みの店だった。ほんの時折だ
が、親父はそこで温かい飯を食い、酒を飲み、擦れて裏も表も消えかけ縁の捲れあがった骨牌に
小銭を賭けて遊んだ。相手は市に出て来た小商人や百姓で、つまりは親父が帳簿を預る農機具店
の客で、町でのつましい放蕩を心待ちにしていた。
だからその男はひどく場違いだった。大人しい野良犬のように入って来て誰にでもたかった。
だが、不思議と嫌われはしなかった。


(本文P. 5〜7より引用)

 

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