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 蒲公英草紙 常野物語
著者
恩田陸/著
出版社
集英社
定価
税込価格 1,470円
第一刷発行
2005/06
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ISBN 4-08-774770-0
 
20世紀が幕を開け、少女の心は変化の予感にざわめく。折しも村に不思議な一家がやってきて――。今最も輝いている作家・恩田陸の魅力あふれる感動作。
 
蒲公英草紙 常野物語 恩田陸/著

本の要約

懐かしさと切なさあふれる感動長編。 20世紀が幕を開け、少女の心は変化の予感にざわめく。折しも村に不思議な一家がやってきて――。運命が導く出会い、果たされる約束。今最も輝いている作家・恩田陸の魅力あふれる感動作。



オススメな本 内容抜粋

一 窓辺の記憶


いつの世も、新しいものは船の漕ぎだす海原に似ているように思います。
新しい、という言葉にいつも人々は何を求めているのでしょうか。ぴかぴか光るその大海原
を、若者たちは顔を紅潮させ期待に満ちた瞳で見つめ、今にも勇んで飛び込みかねぬ様子。中
には手近にある小舟ですぐに漕ぎだす者もいます。一方、その後ろで見守る年寄りは不安や畏
れの色を滲ませて身体を縮めています。自分の持っている、今まで使ってきた船で航海をする
ことができるかどうか思案しております。それでも、何か大きなものが海の向こうにあるとい
う予感を感じている点では両者とも同じでございます。遠い水平線から寄せてくる浜辺の白い
波のように、足元にその気配を感じているのですね。
あの頃の私は、そんな予感を感じていたのでしょうか。何か大きなうねりが将来自分を飲み込むことを知っていたのでしょうか。確かに知っているひともいましたーあの奇跡のような
目をしたむすめや、その家族たちは。それはかつての私には全く無縁の世界に思えました。あ
の当時、福沢諭吉先生や一部の偉い方たちが、新しい世紀を迎える催しを盛大に開かれたこと
を覚えております。皆が二十世紀という新しい世紀に何かが変わるような期待を抱いていまし
たけれど、私たちには陛下の御世というずっと昔から馴染んできた立派な暦があるのですから、
西洋の大きくて白くて不思議な言葉を話す人たちのにゅう・せんちゅりいなるものが私たちに
何の関係があるのでしょう。そんなふうに思っておりました。
このところ、私の記憶はいつもあの日々に還って参ります。新しい世紀を自分とは違う世界
のことと感じていた日々、最も温かく幸せだった日々の記憶です。
私は日記を付けておりましたー先生に勧められ、お父様からも綴方の稽古になると言われ
て付け始めたものでございます。あのよもぎ色の帳面を思い出すと、私はぼかぽかした、懐か
しく柔らかいものに身体が包まれるのを感じます。
私はいつも暗い窓辺からお隣のお屋敷を眺めておりました。お隣のお屋敷と我が家との間に
は小さな丘がございました。丘とも呼べるかどうかわからぬ小山、築山のようなぽこんと優し
い形をしていて、春には小さな野花が咲きます。柔らかな黄色のたんぽぽに、薄い紋白蝶が戯
れるさまを、新たな春が来る度にその窓から眺めておりました。
小学校に上がる春、お父様から帳面をいただいた私は、改まった面持ちで窓辺に立ち、しっ
かりお勉強をして世の中の役に立つ人問になりたいと考えたのを覚えています。その日も窓の
外の丘には麗らかな光が降り注いで、愛らしいたんぽぽがすくすくと群れ咲いていました。そ
の時、私はこの日記に名前を付けることにしたのです。なぜそんなことを思い付いたのか、
今でもよく分かりません。『御伽草子』や『枕草子』を知ったのはずっと後のことだと思うの
ですが、どこかでその名を漏れ聞いて知らず知らずのうちに背伸びをしていたのかもしれませ
ん。
たんぽぽそうし。ふっとその名前を思い付いた瞬間を、この歳になっても思い出すことがあ
ります。あの麗らかな春の午後、暗い家の中から窓の外を眺めていた幼い頃の私を。
『蒲公英草紙』は随分長い間私を支えてくれました。髪が伸び背が伸びて、お友達やお裁縫に
割く時問が増えていくと、暫く開かないこともありました。けれど、何かの折、一人になりた
い時が訪れると、再びそれを開くことになるのでした。
自分が幸せであった時期は、その時には分かりません。こうして振り返ってみて初めて、あ
あ、あの時がそうだったのだと気付くものです。人生は彩しい石ころを拾い、背負っていく
ようなものです。数え切れぬほど多くの季節を経たあとで、疲れた手で籠を降ろし、これまで
に拾った石ころを掘り起こしていると、拾った石ころのうちの幾つかが小さな宝石のように輝
いているのを発見するのです。そしてあの幾つかの季節、あのお屋敷で過ごした季節が私にと
ってその宝石だったのです。
私はつい最近も、長い夜のあとの夜明けの夢に聡子お嬢様の声を聞きました。初めて私に話
しかけた時と全く変わりません。綿飴のように軽く柔らかくお優しい声です。
峰子さん、きっと聡子と一緒にリボンをつけて女学校に行きましょうね。
初めて聡子お嬢様に会った時のことは今でも鮮明です。こんなお人形のような顔をしたひと
がこの世にいるのか、となんとなく空恐ろしくなり、対面しているうちにどきどきして、顔が
熱くなってきたものです。
記憶の中のものごとを整理するのは思ったよりもむつかしゅうございます。頭の中では順序
だてて思い出したいと考えているのに、すぐにあちこちに思いが飛んでしまいます。


(本文P. 5〜8より引用)



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