ジャンピング☆ベイビー
著者
野中柊/〔著〕
出版社
新潮社
定価
本体価格 1300円+税
第一刷発行
2003/08
ISBN 4-10-399902-0
 
もっと素直になっても、いい。  生命は奔放で、貪欲だから。
 

日曜の昼下がり、別れた夫と鎌倉へ愛猫の墓参り。苦くも、懐かしい日々を思い出し、新しい生への愛おしさがこみあげる。



十二時十五分を少し過ぎたところで携帯電話が鳴った。
鹿の子はグリーン車のリクライニングの座席を目一杯後ろに倒して、人の目も気にすることなく、昼百中からビーフジャーキーをッマミに缶ビールを飲むという、ちょっとオジサンじみた振舞を楽しんでいる最中だったのだけれど、初夏の薄青い空を車窓から眺めつつ盛り上げたせっかくのほろ酔い気分もたちまち吹っ飛び、他の乗客からどやされるのではないか、と気を操みながら大慌てでバッグの中を探った。
そうして、ネコフンジャッタ、ネコフンジャッタ、ネコフンヅケチャッタラヒッカイタ……と、もちろん歌詞までは歌いあげないものの、ちゃらちゃらした電子音で意気揚々とメロディを奏でるお道具を取り出した。
口元を右手で被って小声で、 「もしもし」と応じると、
「あ。もしもし」
案の定、相手はウィリーだった。
彼はほとんど託りのない日本語で、
「どこにいるの?」と言った。
おそらく、彼はもう鎌倉駅に着いて、待ち合わせ場所の江ノ電の改札口のあたりで、鹿の子の姿を探しているのだろう。
「今、まだ電車の中。戸塚を過ぎたところなの」
「戸塚?」
「うん。ごめんね、遅れちゃって」
「…一…ああ」
「でも、もうすぐ着くから。あと十分くらいかなあ?」
「OK。じやあ、待ってるよ」
「ほんと申し訳ない」
何度か、ごめんね、を繰り返してから電話を切った。
ウィリーと待ち合わせをすると、鹿の子は必ずといっていいほど遅刻をしてしまう。
彼は恋人ではない
。恋愛特有のときめきなど微塵も感じない。
とはいえ、友達というには互いを知り過ぎている。
友人との間にあってしかるべき距 離感も緊張感もまるでない。
今となっては、彼は離れて暮らしている家族のようなもの。
父親か兄、もしくは、弟のようなもの。
三年ほど前に別れた夫について、鹿の子は常々そう思っているせいで、こんなときについ甘えが出てしまうのかもしれない。
そして、実際、ウィリーは彼女が笹度のように遅刻してきても、まったく怒る素振りも見せないのだ。
いつもばたばたと泡を食って駆けてくる彼女を当たり前のようにして受け入れ、二言もなじることはない。
前々日に電話で打ち合わせをしたとき、十二時十五分に待ち合わせじゃ間に合わないかもしれないよ、と心配そうに眩いたウィリーに、ダイジョブ、ダイジョブ、ぎりぎりちょうどいいくらいよ、と請合った手前、決して遅刻は許されないはずだったのに、やはり鹿の子はまたやらかしてしまった。
携帯電話を切った後で、待っている間に小さなものでいいから花束を買っておいてちょうだい、と言えばよかったと気がついて、もう一度こちらから電話をかけて頼もうかとも考えたが、横浜でずいぶんと乗客が降りてグリーン車の車内はさほど混雑していないとはいえ、携帯電話を使うのは揮られたし、いずれにしても時間がない。
ウィリーが鎌倉駅近辺の花屋を探しているうちに、鹿の子が待ち合わせ場所に着いてしまうだろう。
(本文P.5〜6 より引用)


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