100万回の言い訳
著者
唯川恵/著
出版社
新潮社
定価
本体価格 1600円+税
第一刷発行
2003/09
ISBN 4-10-446902-5
 
恋愛すると結婚したくなり、結婚すると恋愛したくなるのは、なぜ?
 

士郎と結子は結婚七年、夫婦仲は悪くない。だけど何か足りない――。子供を作ろうかと考えた矢先の思いがけない事による別居生活で、二人はそれぞれ独身に戻ったかのような華やぎを取り戻す。一緒に住むから夫婦なのか。では私たち、どうして別れないのだろう――。離れて、恋をして、再び問う夫婦の意味。著者渾身の結婚小説。

 

唯川恵 (ゆいかわ・けい)

1955年石川県金沢市生れ。銀行のOLを経て、1984年「海色の午後」でコバルト・ノベル大賞を受賞し、作家デビュー。恋愛小説やエッセイで多くの読者の共感を集めている。2002年『肩ごしの恋人』で直木賞受賞。著書は『あなたが欲しい』『ため息の時間』『今夜 誰のとなりで眠る』『永遠の途中』等多数。

 

子供をつくろう。
と思ったのは、先月のことだ。
梅雨明けの挨っぼい空気に満ちた地下鉄に揺られている時だった。
なぜそう思ったのか、結子はもちろんわかっている。
三十八歳の誕生日を迎えたからだ。
すでに出産にリミットが迫りつつある年代に入ったことは十分に自覚していた。
夫婦仲はよい方だと思っている。
何をもってよしとするか、定義づけるのは難しいが、互いに今の生活をそれなりに快適に過ごしているように思う。
けれども、そろそろ変化のような、区切りのようなものが欲しくなっていた。
このまま家族として熟してゆくには何かが必要に思えた。
それは子供ではないかもしれないが、それ以外となると、どうにも思い浮かばなかった。
「ねえ、子供をつくらない?」
と、言った時の、士郎の驚いたように新聞から顔を上げた後の、いくらかきまり悪そうな表情をよく覚えている。
「何だよ、今さら」
「反対?」
「いや、そうじゃなくてびっくりしてるだけさ」
結子はコーヒーカップを手にした。
「手遅れになる前にと思ったの。でも、こればかりは私ひとりじゃどうにもできないしね。
士郎の 協力が必要でしょう』
決して士郎を追い詰めるセリフのつもりではなかったが、彼は読みかけていた新聞に慌てて目を落とした。
そんな様子に、結子は少し笑いたくなった。
世の中の妻たちがみな、夫の性的関心が自分に向かなくなったことを嘆いている、と考えるとしたら早計だ。
もちろんそんな妻もいるだろうが、少なくとも、自分にとってそれはさほど重大なことではない。
前はいつだったか忘れるくらいの時間、たとえば数ヵ月というような間があいても、夫婦としての関係に影がさすようなことはない。
むしろ、夫とのセックスはどこか気恥ずかしさがつきまとう。
もちろん、他に義理立てるような男がいるわけではなく、ただセックスがなくても買物帰りにちょっと手をつなぎあったり、休日の朝に士郎のベッドに潜り込んでぐずぐずと微睡んでいたりすることで、十分に満たされた気持ちになる。
「欲しいのか、子供?」
改めて士郎が尋ねた。
「ものすごく積極的に、というわけでもないけれど、いてもいいんじゃないかって思ってるのも確か」
「そうか」
再び士郎は考え込む。
「士郎はどう?いらない?」
「いや、いらないわけじゃないさ。別につくらないと決めてたわけじゃないんだし。ただ、ピンとこないというのが本当のところだけど」
「確かにね。育てるのはやっぱり大変だろうし」
「子供かあ」
士郎が天井を見上げる。
「その子が成人する時、俺は六十過ぎか」
「私は五十八、ううん、五十九ね」
「すごいな、何か」
「そうね、すごいわよね」
自分たちにそういう年代が来るということが想像もつかなかった。
と言っても、二十年前も、今の年齢の自分に想像がつかなかったのだから当然かもしれない。
「子供ね」
士郎がまたため息混じりに口にした。
「でも、できないってこともあるわけだから」
結子は再びコーヒーカップを口にした。
「そりゃそうだけど」
「もしできたらって話だから」
やがて士郎が顔を向け、眩くように言った。
「それも悪くないかもしれないな」
結子は士郎を見た。
「いいの?」
「俺たちにとっては、最後のチャンスかもしれないしな」

(本文P.3〜5 より引用)


このページの画像、引用は出版社、または著者のご了解を得ています.

当サイトが引用している著作物に対する著作権は、その製(創)作者・出版社に帰属します。
無断でコピー、転写、リンク等、一切をお断りします。

Copyright (C) 2001 books ruhe. All rights reserved.