| Prologue 鼓動
澄んだ水の底で、銀色の球体が輝いている。
風と漣が水面を静かに渡っていき、冷たい霧が山から降りてくる夜、その球体は確かな呼吸にも似た収縮をはじめる。
まぶ輪郭は波にぼやけ、眩しい光がやがて水色を工夕ーナル・ブルーに染めて、空に流れる羽根雲と区別がつかなくなる。
ドクッドクッドクッドクッ……。
球体の内部から、時限爆弾のような振動音が響きはじめ、やがて光の輪は水を貫いて夜空一面に放射されていく。
ドクッドクッドクッドクッ……。
水鳥が波間から羽ばたいたその瞬間、球体はゆっくりと二つに裂け、空の亀裂に向かって吸いこまれていく。
無数の生命の中から選ばれし二つの可能性が、今、人となるための長い旅を始めたのだ。
T 冬蛍 Chuharu Kiribayashi
神の国から届く清例なグレーの光が闇を優しく切り裂き、脱ぎ捨てられた白衣に降り注いでいる。
まだ人の形と体温を保っている純白の布は、神秘的な空気の色合いを映して、地上に落ちてきた堕天使の羽根のよう。
夜勤明け、全身が地面にのめりこんでいきそうに疲れきっている。
更衣室の窓から見上げる空には、刷毛で羽根を描いたような雲の奥に、目覚めきっていない白く煙った太陽が見えた。
たまらなく煙草が吸いたい。
誰もいないし、一本だけ吸ってしまおうか。
でも椅子に座り込んだら、二度と立ち上がれずそのまま眠り込んでしまいそうなので、下着姿のまま壁にもたれて煙草に火をつける。
帰ったらそのままベッドに倒れこもう。
今日は生理痛がひどくて立っているのがやっとなのに、三六七号室の若い患者が同室の中年患者とラジオの音を巡ってトラブルを起こし、その仲介に最後のエネルギーを吸い取られてしまった。
煙草をくわえながら黒のカシュクールに腕を通していると、後ろから「霧林さん」
と呼ぶ声がする。
振り向くと、宝生聖良が微笑みながら立っていた。早番で出勤してきたばかりなのか、明るいフォーン色のほっそりしたワンピース姿が眩しいほどよく似合う。
先週、ナースステーションで赴任の挨拶をした新顔で、昨日、現場で働きはじめたりばかりだ。
確か、京都の陵西医大病院から移ってきたと言ってたっけ。
病院には場違いな際立った美貌とスタイルが、仲間のナースたちの話題になっていたけど、同僚の噂話に無関心なあたしはその輪に加わらなかった。
「今、夜勤明け?お疲れさま」
彼女は軽やかな美しい声で、あたしに声をかける。抜けるように白い滑らかな肌にうっすらと淡いピンク系のメイクを施した彼女は、きついナース勤務の疲れとは無縁はかな
な、僅げでピュアな美しさに輝いていた。どんよりと疲れた顔で煙草を吸っている自分がどうしようもなく惨めで醜く思え、慌てて背筋を伸ばして、乱れた額の髪をかき上げる。
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