クチュクチュバーン
著者
吉村万壱/著
出版社
文芸春秋
定価
本体価格 1238円+税
第一刷発行
2002/02
ISBN 4-16-320720-1
 
蜘蛛女、巨女、シマウマ男、犬人間…意味あんのかよ、こんな世界!第92回文学界新人賞受賞作。
 

蜘蛛女、巨女、シマウマ男に犬人間……。デタラメな「進化」の行方は。奇想に次ぐ奇想で選考委員の絶大な支持を得た文學界新人賞受賞作。



!
一カ所に留まっていても仕方がない、とは誰もが思い、人々は移動をやめなかった。
混乱は続いていたが、何が起こりつつあるのかまったく分からないという人間は少なくなってきていた。
それでもこんな質問をする子どもがいる。
「母ちゃん、怖くないか?」
子どもにそう言われた母親は、脇腹から余分な腕(脚かもしれない)を六本生やしている。
まだ充分に動かないその余分な腕は、生まれたてらしい桜色をしていて、薄皮の下に真新しい血管が透けて見える。
摘むと大福餅のような感触だ。
これのためにセーターの両脇を切り裂いてあるが、十一月だというのに寒くはなかった。
裸でも過ごせる高い気温が、もう丸一年続いているのだ。
空の色は相変わらず安定しない。突然真っ黒に暗転するかと思えば、オーロラのような七色の光の帯が猛スピードで天空を走り抜けたり、眩しい閃光が空一面を照らしたりする。
鳥はほとんど見えなくなったが、たまに鳥よりもっとずっと大きなモノが飛んで地上に大きな影を落としていた。
「怖くなんかないよ」と母親は言ったが、時々襲う激痛には我慢ならないと思うことがあった。脇腹から生えてきた腕は、皮膚を突き破って出てきた。最初は虎かと思ったが、動かそうとすると手足のように動くので単なる庇でないと分かった。新しい神経網が形成されているらしい。
これ以上大きくなるなと念じたが日々成長し続け、今では明らかに腕だと分かるほどになった。
成長の激しい時期というものがあり、大きくなるたびに痛くてたまらない。
「もうすぐ指が生えるよ」そう言って笑ったが、成長が終わらない限りこの新しい腕が最終的にどういう形になるのか見当もつかなかった。子どもはその不安を知っている。
「手がたくさんあったら、何かと便利だろ?」「うん………」
体全体の骨格も変形してきており、肩の肉が盛り上がって前屈みの姿勢でないと苦しくなりつつあった。
それにつれて頭は後ろに傾けていないと座りが悪い。
それは、このままいけば自分が犬のように地面を這う恰好になることを予測させた。
犬ならまだよいが、両いまいま手足とこの忌々しい六本の腕を合わせると十本脚である。蜘蛛の化け物になってしまうと思うと、真っ黒な大穴を覗き込んだように足がすくんだ。
「母ちゃん、お腹空いた」
慎一は六歳だった。春江は心の中の大穴を消すために頭を振った。
どんな無様な恰好になっても、この子を生かし続けなければならない。こ
の子を護るのよ。
こんな時代になってしまったからには、何が起こるか皆目分からないということを前提に物を考えなければならないのだ。
蜘蛛の化け物になることが、自分と慎一の生存の条件であり、唯一の武器かもしれないのである。
「頑張りなさい。もう少し行けば、炊き出しがあるから」
「うん……」
「食べないと、死んでしまうよ」
「うん……」
この頃慎一の「うん……」という煮え切らない返答が気になっている。何かもっと言いたいことがあるに違いないのに、それを呑み下している。それは、言いたいことをうまく言語化出来ないということだろうか。それとも何か隠しているのか。
(本文P.〜 より引用)


このページの画像、引用は出版社、または著者のご了解を得ています.

当サイトが引用している著作物に対する著作権は、その製(創)作者・出版社に帰属します。
無断でコピー、転写、リンク等、一切をお断りします。

Copyright (C) 2001 books ruhe. All rights reserved.