輝く日の宮
著者
丸谷才一/著
出版社
講談社
定価
本体価格 1800円+税
第一刷発行
2003/06
ISBN 4-06-211849-1
 
美人国文学者が水の会社の役員との恋愛を経ながら、失われた源氏物語の一章の謎を解く。日本文学の可能性を極限まで広げた傑作。
 

丸谷才一、10年ぶりの長編小説!物語の核となるのは、『源氏物語』に現存しない「輝く日の宮」の巻。紫式部が「書いたかもしれない」幻の巻を小説内で再現し、日本文学史をたどった読み応え十分の一冊。舞台設定は現代でありながら、歴史の時間を自由自在に行き来する展開に引き込まれます。

本書より
しかしそんなに気負つていても、作者としての不安は、寝殿造の邸の下を流れつづける水のやうに絶えなかつたらう。どんな小説家だつてそれが普通かもしれないが、この場合は特別な条件が加はつている。心配になる一番の理由は、道長が、あれほど認め、褒めてくれるくせに「輝く日の宮」を除いた形で流布させ、しかもそれについて、関係が生ずる前はもちろん、親しい仲になつてからも、何も語らないことだつた。あの巻なしの形で読んだのでは、当然、筋はみちのくのをだえの橋さながら、たどりにくくなるのに、不思議なことに読者たちは、脱落ではなく飛躍と取つたやうである。いや、もつと気もそぞろな読み方で、読んだり聞いたりしているのだらうけれど。つまりあの処置はあれでよかつたのか。でもあれではあんまり、などと彼女は悩んだ。



花は落花、春は微風の婀娜めく午後、純白の水兵服の上衣に紺の衿、繻子のタイふうはりと結んで、プリーツ寛けくつけた紺のスカートの娘、三番町の路すたくと歩み来つて、小ぶりの門に松寓と表札のある二階家へ。
迎へ出た婆やが、制服の肩の花びら二つ三つ摘み、ちらくと宙に舞はせ、「まるでお芝居の雪。」
と眩いてから、
「お帰りなさい、真佐子様。図書館はお目あての本、ございました?」
と問ひ掛け、答へる暇もあらばこそ、
「さうく、さつきお使ひが……、」
と差出せば広やかな玄関の薄闇に角封筒の白ほのか。
「郵便屋さんぢやなくて?」
「はい、小さな男の子。片眼に黒い眼帯をしてましてね。飛んだ海賊気取り。」
「おや、誰かさんと同じ好み。」
と調戯つたのは婆やの宝物が真佐子の読み古しを拝領の『宝島』で、就中、片足のシルヴァーが大のお気に入りだからである。
受取つた封筒の所書と宛名をちらと見たきりで、娘が灰暗い階段を昇り、天窓から四角く、しかし櫻の葉叢に妨げられつつ滴り落ちる乏しい光で確かめると、やはりその涼しい筆蹟は中橋一馬のもの。
すらりと丈の高い男の面影思ひ浮べながら六畳の部屋に入り、封を切ればザラ紙に、

真佐子様

漸く時間が取れました。
この世の名残に一度お目にかかりたい。ぜひいらして下さい。
五時、麹町郵便局の奥の方テレビのある辺。簡易保険、年金の前の椅子。
屹度出向きますからお待ち下さい。

                        中橋一馬

と凶々しい言葉まじへて、胸の痛くなる走り書。しかも先日書き送つた便りのことは一言も触れてゐない。
母なる人に電話をかけたときのおろおろ声の応答では、
「戻りましたら渡しませう。」
とのことだつたのに。とすれば己の家に久しく立ち寄らぬ日々なのか。
抑この若者は父の親友の息子で、幼いころから顔見知りの間柄。
とりわけ去年は一度は音楽会に一度は歌舞伎へ、二人で行き、これはもちろん嫌ひではない暗標だけれど、口づけ一つしたことのない伸なのに、去る正月、唐突に便りがあつて、婚約を破棄したいと寝耳に水の文
面。真佐子が驚いて母に質問ると、「お前に言はずにそんな約束をするものですか。江戸時代ではあるまいし。」
とのことだつたし、父に問へば婚約話のことに無言のま・大きく頭を振つた上、暗然たる面持で、
「赤くなつたので心配だと言つてゐたが……叛徒とかいふ仲間と聞いた。」
と長大息し、
「許嫁の件は何かのせいでの妄想だが、それを取消さうといふのは何か物騒なことを企て々ゐるために相違ない。」
と憂ひ顔で臆測するのであつた。

 

(本文P.3〜5 より引用)


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