夢は荒れ地を
著者
船戸与一/著
出版社
文芸春秋
定価
本体価格 1905円+税
第一刷発行
2003/06
ISBN 4-16-321910-2
 
8年間行方不明の友人を捜しに、カンボジアにやってきた現役自衛官の楢本。汚職や殺人、人身売買が横行する中で彼が見た“正義”とは。
 

二〇〇一年。現役自衛官の楢本辰次は、PKO後に現地除隊して以来、八年間行方不明になっている越路修介を捜しにカンボジアにやってきます。目的は修介の妻・春美と自分が結婚するつもりであることを伝えるため。修介捜しが難航する中、楢本は汚職や人身売買が横行するカンボジアの現実に直面します。その後、ようやく会えた修介が現地で行なおうとしている「あること」に楢本は驚かされ……。「週刊文春」に連載され、「正義」を根本から問いかけた待望の長篇冒険小説です。



I白昼の闇

おそらく気温はまだ四十度近くはあるだろう。
だが、暑さはさして感じなかった。
額や腋のしたに汗が鰺みだして来るわけでもない。
湿気の少なさのせいだろう。
楢本辰次はサップ河に面したガーデンカフェでスコッチのストレートをちびちび飲みながら煙草を喫いつづけていた。
プノンペンに着いてから三日が経っている。
カンボジアに来るのはもちろんこれがはじめてだ。
夕陽がサップ河の水面を静かに照らしている。
眼のまえの光景から色彩がしだいに抜け落ちていき、いまは黄色と黒だけが輪郭をつくりつつあった。
地図を観るかぎり、サップ河を北上するとトンレサップ湖という東南アジア最大の淡水湖に繋がる。
そこは乾季ですら三千平方キロの面積を持ち、雨季にはその三倍に拡がるらしい。
南にニキロほど下るとサップ河はいったんメコン河と交錯してバサック河と名まえを変える。
しかし、辰次はまだそこを覗いてはいなかった。
すべてはヌオン・ロタと逢ってからだ、単なる観光ですらも。
そう考えながら右手をあげて給仕を呼んだ。
手真似で新しいスコッチを持って来るように命じた。
黄色かった西の地平線がじわじわと薄桃色に変色しつつある。
新たなスコッチ・グラスがテーブルに運ばれて来たとき、ガーデンカフェを取り巻くガーデン灯の照明が点いた。
その直後に痩せた長身がひとつゆっくりと近づいて来た。
サップ河を背にして立ち停まった。
辰次は腕時計にちらりと眼をやった。
針は六時半を指している。
約束の時刻と一分の狂いもなかった。
「お待たせしました、楢本辰次さんですね」滑らかな英語だった。
年齢は三十四、五というところだろう。
眼差しも肝が据わっているように見えた。
「わたし、ヌオン・ロタです。カンボジア・ゴールデン観光から紹介されて来ました。座ってもよろしいですか?」
辰次は頷いてグラスを持ちあげた。
ヌオンがテーブルの向かいに腰を下ろした。
「何か注文してくれ、ただでここを使うというわけにもいくまい」
「気にしないでください、ここはカンボジアです、べつに注文しなくてもだれも文句は言わない」
辰次がカンボジア・ゴールデン観光に依頼したのは一カ月まるまるつきあってくれる通訳兼運転手だった。
その条件はまずクメール人であること。
プノンペンの住民の七割以上が華人かベトナム系だと聞いている。
しかし、情報しだいでは辺境をうろつくことになるのだ、クメール人であらねばならない。
次に、カンボジアの政治状況に明るいこと。越路修介はぼんやりと
異国暮しができるような性格じゃない。
かならずこの地の状況と密接に絡んでいるだろう。
そのためには単なる観光ガイドでは役に立つはずもなかった。
「どこに御滞在で?」
「すぐそばのドラゴン・ホテルだよ。一泊三十ドル。浴室はちゃちだが、その他はたいした間題はない」
「どうです、料理のほうは?」
「中華しかないが、隣りにイタリアン・レストランがある。その隣りはドイツ料理を食わせる」
「よろしいですか、煙草を喫っても?」
「もちろんだ、おれもヘビィスモーカーだし」
辰次はそう言ってテーブルのうえに置いていたパッケージから新しい煙草を引き抜いた。
それを街えて火を点けた。

(本文P.6〜7 より引用)


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