手紙
著者
東野圭吾/著
出版社
毎日新聞社
定価
本体価格 1600円+税
第一刷発行
2003/03
ISBN 4-620-10667-4
「白夜行」以来久々の“社会派”大作が登場!殺人犯の兄、差別され続ける弟。希望なき世界を彷徨う人生の行方は?あなたが彼ならどうしますか?あなたは彼に、何をしてあげられますか?

兄は私のために殺人犯になった。そして、私は殺人犯の兄を持つ弟として差別され続ける。断ち切られた兄弟の絆。希望なき世界を彷徨う人生。いつか罪は償われ、傷は癒されていくのだろうか。「毎日新聞日曜版」大反響連載、待望の単行本化

 


“この結末以外 思いつかなかった…” 東野圭吾
「手紙」―終章より―
“あの手紙を読んだ時、涙が止まらなかった。絶縁を告げた手紙は、自分でも冷酷な内容だったと思っている。さぞかし剛志は不満なことだろうと想像していた。だが兄の思いは全く違っていたのだ。
私は手紙など書くべきではなかったのです―。
違うよ兄貴、と思った。あの手紙があったからこそ、今の自分がある。手紙が届かなければ苦しむこともなかっただろうが、道を模索することもなかった。

 

序章

その家を狙ったことに深い根拠はなかった。
強いていえば、多少なりとも家の様子を知っていたことぐらいだ。
しかし剛志が犯行を決意した時、真っ先に頭に浮かんだのはそこに住む緒方という老婦人のことだった。
見事な白髪を奇麗にセットし、品のいい身なりをしていた。
「御苦労様。若いのに、えらいわねえ」そういって小さな祝儀袋をくれた。
後で見ると中には干円札が三枚入っていた。
そんなにもらったのは、引っ越し屋の仕事を手伝うようになって初めてだった。
彼女の表情からは何の邪念も感じられなかった。
皺の一本一本にまで優しさが刻み込まれているような微笑みだった。
剛志がぺこりと頭を下げると、「こら、ちゃんとお礼をいわねえか」と
先輩から叱られた。剛志が十九歳になったばかりの頃だから、四年前ということになる。
江東区木場には材木問屋が多い。江戸時代からそうで、木場という地名もそのことに由来しているらしい。
緒方家に向分うトラックの中で、剛志は先輩から教えられた。
緒方家もかつてはそうした問屋の一つで、緒方商店という屋号を持っていた。ただし本業のほうは殆ど形ばかりで、材木置き場に使われていた土地を別の目的に利用することで、緒方商店は収入を得ていたようだ。
「だから遊んでいても食うには困らないんだろうなあ、きっと」トラックの中で先輩は羨ましそうにいった。
「駐車場だけじゃないぜ、アパートだとかマンションだとかも持ってるに違えねえよ。
婆さん一人じゃ使いきれない金が、毎月がっぽがっぽ入ってくるってわけだ。
だから息子がマイホームを欲しがったらさ、ぽんと金を出せたりするんだよ」
「息子さんの新居って、そのお婆さんが買ったんですか」剛志は驚いて訊いた。
「知らねえけど、たぶんそうだよ。息子は店を継いでないっていってたからな。ふつうのサラリーマンじゃ、なかなか買えるもんじゃねえよ」
先輩が単に想像だけでしゃべっているのは明らかだった。しかし緒方家に着いた時、さほど的はずれでもないかもしれないと剛志は思った。
和洋折衷の家屋だが、今時珍しい平屋だった。
つまりそれだけ敷地をたっぷりと使っているわけだ。家の向かい側に月極の駐車場があるが、そこの看板にも緒方商店の文字が入っていた。
南側には小さな家ならもう一軒建てられそうな広い庭があり、そこには仔牛ほどの臼い犬が歩き回っていた。
ピレニアンマウンテンドッグという種類だと老婦人が教えてくれた。犬は剛志た
ちの姿を見る前から、闘争心丸出しで帆えだしていた。
見知らぬ人間たちの侵入を、早くも察知していたのだろう。
「うるせえな、あのピレ公」箪笥を緩衝用マットで包みながら先輩がこぽした。
犬は犬小屋に繋がれていたが、剛志たちが作業をしている間中、帆えていた。
「だけどあんなやつがいるんなら、年寄りの独り暮らしでも安心かもな。ふだんは放し飼いなんだろ?泥棒が塀を乗り越えたところで、がぶりとやられるぜ」別の先輩がいった。その時の引っ越しは、同居していた長男一家の荷物だけを別の家に移すというものだった。
長男は四十過ぎの痩せた男だった。無口で、引っ越しにも大して関心がないという顔をしていた。
太った妻は終始浮き浮きした様子だった。
立ち去る家のことより、ついに手に入れた新居のことだけを考えているように見えた。
「亭主はあれだな、嫁さんに押し切られた格好で、ここを出ることにしたんだな」例によって先輩が想像を働かせた。
「ふつうなら、ここを建て替えれば済む話だ。
だけどそれじゃあ婆さんも一緒に住むことになる。
たぶんこの家の名義は婆さんになってるはずだからな。
いわば息子一家は住ませてもらってる立場だ。
あのデブの嫁さんは、それがいやなんだよ。
だから亭主にマイホームを買ってくれとせっついたわけだ。
見ろよ、あの嫁さんの顔。自分の天下が来たって調子だぜ」先輩は口元を歪めて笑った。
荷物をすべて積み終えた後、剛志たちは老婦人に挨拶した。
彼女は新居への引っ越しには立ち会わないことになっていた。
「しっかりがんばりなさいね」彼女は剛志にだけ特別に声をかけてくれた。
一番若く、そして頼りなさそうに見えたからかもしれない。はい、と彼は頭を下げた。
それから一年ほどして、緒方家の近くで引っ越しがあった。
休憩時問にコンビニで買った弁当を食べた後、剛志は一人で緒方家の前まで歩いていった。威厳を感じさせる石塀は一年前のままだったが、門まで近づいた時、ほんの少し違和感を抱いた。
それが何なのかすぐにはわからなかったが、庭のほうに歩いているうちに気づいた。あの大きな犬の鳴き声が聞こえないのだ。
石塀のそばに立ち、庭を覗いてみた。犬小屋はそのままだったが、犬の姿はなかった。

(本文P.3〜5より引用)

 
 


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