銀の鍵
著者
角田光代/著
出版社
平凡社
定価
本体価格 1000円+税
第一刷発行
2003/03
ISBN 4-582-83149-4
カウリスマキ監督にインスパイアされた、今最も旬な作家とイラストレーターの共作絵本。超カワイイ、超せつない、大人のためのファンタジー。

一切の記憶をなくしたまま、見知らぬ町で、我にかえった「わたし」。ただ空は広く、濃いブルーで、薄い生地のリボンみたいに幾筋も雲がたなびいている―。アキ・カウリスマキ監督の最新作「過去のない男」にインスパイアされて生まれた、もうひとつの物語。

ジャッキー、さようなら。一切の記憶をなくしたまま、見知らぬ町で、我にかえった「わたし」。ただ空は広く、濃いブルーで、薄い生地のリボンみたいに幾筋も雲がたなびいている・・・。アキ・カウリスマキ監督の最新作「過去のない男」にインスパイアされて生まれた、もうひとつの物語。

それは、目が覚めるのにとてもよく似ていたけれど、目が覚めたのではなくて(だって寝ていなかった)、はたと我にかえったのだった。
我にかえってよくよく考えてみると、わたしはそれまでのことをなんにも、覚えていなかった。
目の前にはだだっ広い広場がある。
まだちいさい子どもたちがボールを蹴って遊んでいる。
若い女たちが顔をよせて話しながらアイスクリームを食べている。
そうしてわたしは、広場と向きあうようにして、コンクリートのくずれた塀に腰かけている。
そもそもここで何をしていたんだっけ。
それ以前に、ここはどこなんだろう。
空は広く、濃いブルーで、薄い生地のリボンみたいに幾筋も雲がたなびいている。
遠くどこかから軽妙なリズムの音楽が聞こえる。
何か、空腹を刺激するにおいが鼻先をかすめる。
それで、わたしはだれなんだっけ。
年はいくつで、どんな仕事をしているんだっけ。
どこで生まれて、何を見て育ち、どんなことに腹をたてたりよろこんだり、‘ていたんだっけ。
なんだかへんだ、とわたしは思う。
少し先の女の人が食べている細長いものはアイスクリームだとわかるのに、自分のなまえもわからないなんて。
それじゃなんだか、わたしという存在全部、アイスクリーム以下だったみたいじゃないか。
目の前を、数人の男女がとおりすぎていく。
みんな日に焼けていて、半袖やタンクトップで、騒々しくおしゃべりをしている。
彼らの言葉が何もわからないことに、彼らがずいぶん遠ざかってから気づいた。
頭のなかが真っ白になる。
人々の話している言葉がわからない、わたしは頭までおかしくなっちゃったのだろうか。
宇宙人にさらわれて、記憶ばかりか言語理解能力も ろとも、すっぽり抜きとられてしまったのか。
驚いたことに腹が鳴る。こんなときでもおなかはすく。
広場のまわりにはりめぐらされている、低いおんぼろ塀からたちあがり、流れてくるにおいに手をひっぱられるように、慎重にわたしは歩く。
広場を背にして少し歩くと、煉瓦敷きの商店街があり、食堂がいくつか軒を連ねていた。
串刺しにされた肉がくるくるとまわり、火にあぶられてじわじわ脂を落としている。
ガラスのショーケースのなかに、赤や黄色や青の魚が並んでいる。
入り口にぶら下がっているのは鶏。
店先で肉を焼いている食堂に入った。
店内は暗く、太陽に慣れていた目には、一瞬すべてが黒く染まって見える。
男が近づいてきて何か言う。
何を言っているのかはわからない。
わたしは少し考えて、覚えている料理名をいくつか口にしてみるけれど一塩カルビ、親子丼、トムヤムクン、パスタジェノベーゼ、フォアグラの鉄板焼き赤ワインソースー男には通じない。
男はわたしの手をとって立たせ、店のなかのいろんなものを次々と見せてくれる。
黒いパン、白いパン、ショーケースのなか、赤くてまるいのはトマト、外側が薄むらさきでなかが真っ白なのはたまねぎ。
揚げた芋、店先でぐるぐるまわる肉のかたまり。
何と、何と、何を組み合わせて食べるのかと、訊いてくれているのだと理解する。
わたしは食堂のなかを行き来して食べたいものを次々とさす。
肉、たまねぎ、芋、黒いパン、きゅうり、輪切りのゆで卵。男はわたしのあとをまわり、いちいち大きくうなずく。
わたしの顔より大きな銀の皿に、わたしのえらんだすべてがあふれるほど盛られている。
どうだ、と言いたげに男はわたしを見おろし、にやりと笑う。
自分が大食いだったのか小食だったのかも思い出せないが、暗い食堂の片隅で、わたしはそれらを食べはじめる。

(本文P.6〜9より引用)

 
 


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