今夜誰のとなりで眠る
著者
唯川恵/著
出版社
集英社
定価
本体価格 1500円+税
第一刷発行
2002/12
ISBN 4-08-774618-6
失った恋、求める愛。

ひとりの男の死がもたらす静かな波紋…。立ち止まり、振り返る女たちに、いま、新しい選択が待っている。唯川恵の最新恋愛長篇小説。

 

午後から降り始めた雨が、隣のマンションの壁を黒く濡らしていた。
真以子は手を止めて、ぼんやりとその影絵のような模様を眺めていた。
こうしていると、ほんの五分前から眺めていたような気もするし、朝からそうしていたような気もする。
足元には茶色と黒のブチが入った猫が丸まっている。
右目の見えないその猫とは、もう八年も一緒に暮らしている。
この古ぼけたマンションに越してきた日、近くの駐車場で拾った猫だ。
まだ手のひらにのるような大きさだった。
右目が欄れていて、膿が涙のように溜まっていた。
いけないものを見てしまったような気がしていったんは足早に通り過ぎたが、結局、立ち去ることができなかった。
たぶん、生き物に気持ちが惹かれる時、誰もがこう思うはずだ。
私に似ている。
真以子も同じだった。
みじめったらしく、そこに蹲っているしかない猫が自分と重なった。
猫はそばに行っても、抱きかかえても、家に連れ帰っても、翌日、近所の獣医に連れていっても、まったく鳴かなかった。
右目はもう手遅れだと言われた。
家に帰り、教えられた通りにミルクを与えた。そのミルクをすべて飲み終えてから、ようやく顔を上げ「ミイ」と短く鳴いた。
名前がそれで決まった。
パソコンの画面には、手付かずの仕事が映っている。
明日の朝には仕上げなければならない七ぺージ分のレイアウトがそのままだ。
気が乗らない、などと不満を言えるような立場ではないことはわかっている。
与えられた仕事はこなさなければならない。
たとえそれがどんなに興味のない健康食品の記事だとしても、贅沢など言えるはずもない。
締切を守らなければ、来月から依頼は来なくなる。
雑誌の誌面の文字や写真をレイアウトする作業、デザイナーと呼ばれる仕事をするようになって十年がたった。
今も時々思うことがある。
私はどうしてこんな仕事をしているのだろう。
大学を卒業して、最初に就職したのは公立の図書館の司書だった。
別に本が好きだったわけではなく、図書館ならば、静かで落ち着いた毎日を過ごせるような気がしたからだ。
その頃、まだ二十歳を少し過ぎたばかりだというのに、真以子は自分の若さが鬱陶しくて、早く年を取りたいと望むような女の子だった。
広尾の公園の中に建つ図書館は、期待通り静かで落ち着いていた。
しばらくは心穏やかに過ごしたものの、じきに、居心地が悪くなった。
結局、二年勤めて、自分が本当は少しも、静かで落ち着いた毎日を過ごしたいなどと思っていたわけではなかったことを知った。
求人広告で見つけた小さな出版プロダクションに応募し、採用された。
そこは図書館勤めとは対照的で、デスクで同じ仕事を五分も続けていられないような忙しさだった。
人数が少ないこともあり、真以子は何でもやらされた。
編集作業から、取材、原稿起こし、デザイン、校正といった具合だ。
忙しさは、真以子を「考える」という面倒なことから解放してくれた。毎日、ベッドに倒れ込むと朝まで死んだように眠った。
二年で、会社は倒産した。
ベテランの女性社員が独立し、自分の編集プロダクションを持った。
真以子も来ないかと誘われたが、今までのような仕事量を抱え込める自信はなかった。
生理が三ヵ月も来ないような生活だった。
出版全般に関しての経験はある程度積んだ。
その中で、自分にいちばん合っていそうな仕事を続けることにした。
それがデザイナーだった。
結局、フリーという形で始めた。
メインはその独立した女性の会社の仕事だが、それだけでは食べることはできず、他に、今まで付き合いのあった出版社や雑誌社を回って、何とか生活のメドがつく仕事を得るようになった。
贅沢ができるわけではない。
けれども、贅沢を望んでいるわけでもなかった。
家賃が払えて、食べることに困らず、足元で丸まっているミィと生活できればそれでいい。

(本文P.3〜5より引)

 

 
 


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