砂の狩人 上
著者

大沢在昌

出版社
幻冬舎
定価
本体価格 1667円+税
第一刷発行
2002/09/25
ISBN4-344-00240-7
お前は狂犬だ。生かしたままくわえて戻づてこいといわれた獲物を咬み殺したのが、お前なんだ。そんな野郎に今さら現場をかき回されてたまるかっていうんだよ。

暴力団組長の息子ばかりを狙った猟奇殺人が発生。警察庁の上層部は内部犯行説を疑い、極秘に犯人を葬ろうとした。この不条理な捜査に駆り出されたのは、かつて未成年の容疑者を射殺して警察を追われた<狂犬>と恐れられる刑事だった。過激にヒートアップ、ノンストップ1200枚!


タコの大好物は、エビやカニなどの甲殻類だ。
エビ網漁が解禁される前なので、わずか一メートルしか水深がない浅場でも、ちょっとした岩の陰にはイセエビが群れていた。
タコと甲殻類は、どちらも夜の方が行動が活発になる。
ほんの三十センチしか幅のないような平べったい岩の陰から、細長い触角が何本もつきでているのを彼は見つけた。
体を折って、水面から頭をさしこんだ。
シュノーケルに水が流れこみ、わずかな水圧が鼓膜を圧迫する。
逆立ちするように岩の下をのぞきこむと、四尾の立派なイセエビがひしめきあっているのが見えた。
手をのばしつかまえたい欲望をこらえた。ウェットスーツこそ着ていないものの、彼がTシャツにビーチサンダル姿で、船揚げ場から泳ぎだすのを、土地の漁師は見ている。他の魚貝類はともかく、イセエビとアワビは、漁師にとって重要な収入源だ。
その場では見て見ぬふりをするだろうが、密漁者への報復はいつか必ずある。
地元の商店で買物できなくなる、止めておいた車にイタズラされる、くらいならまだいい。
一年前、別荘地の外れにたつ一軒家が全焼した。
冬場のことで、利用者は誰もおらず、放火であることは明らかだった。
犯人はつかまらなかったが、その別荘のオーナーが、ジェットスキーを使った密漁の常習犯であることは、地元では知られていた。ジェットスキーで沖にでて、ウェットスーツにウエイトベルトを巻いて、イセエビやアワビ、サザエなどをあさっていたのだ。
噂では都内の料理店に卸していたらしい。
あまり筋がよくない男で、一度答めた漁師をあべこべに脅したことがあった。
そこまで悪質なつもりはないが、地元の人間にとってみれば、都会から流れてきてひとりで暮らしている男など、とうていまっとうではないに決まっている。
田舎では悪口は増幅され伝わっていく。
お遊びに一尾のイセエビを獲ったつもりが、密漁の常習犯にされたのではかなわない。
あきらめることにして、イセエビは眺めるだけにとどめた。
海面に浮上すると、ためておいた息で、シュノーケルの水を吐きだした。
ビーチサンダルが脱げないていどのスピードで、さらに沖へと進んだ。
灰色のかたまりが動いているのに気づいたのは、十メートルほどいったときだった。
岩陰からでてきたものの、寝惚けてふらついている、といった風情だ。
頭の大きさが握りこぶしよりひと回りほど大きなマダコだった。
彼は水を蹴った。
斜めに水中を突進し、頭のすぐ下をつかんだ。
タコを素手でつかまえるにはコツがある。
ただつかんだだけだと、足を腕にからみつけられ、吸盤で痛い思いをするからだ。
全長が三十センチもないタコであっても、つけ根に近い吸盤だと血がにじむほどの吸着力をもつ。
つかまえたタコを水中でふり回す、それがコツだ。
彼にそれを教えたのは、大昔、伊豆で名うての密漁師だった男だ。
一文字通りな、8の字にふり回すんだ。
そうすっと、タコは目を回して体がまっすぐになる。
そのすきに袋にしまうのさただしタコは脱走の名人だ。
わずか一センチのすきまがあれば、そこから身をくねらせて逃げだす技をもっている。
タコはふり回され、ハ本の脚をのばしたままおとなしくなった。
彼は獲物をしまっていた網袋にタコをつっこんだ。
そのとき、ビーチサンダルが片方脱げた。
舌打ちをした。
右手で網袋の口をつかみ、左手で流れそうになったビーチサンダルをすくった。
両手が塞がり、やむなく顔を水面からあげた。
水中マスクごしに、百メートルほど先の船揚げ場に止まった車が見えた。
漁師の軽トラックの邪魔にならぬよう、崖のくぼみにぴったりと止めた彼の四WDのまよこに停止している。
漁師町ではめったに見ることのない、黒塗りのセダンだった。
その少し先をU夕ーンしていく、白いヘルメットのバイクが見えた。
制服警官がまたがった原付オートバイだ。道案内をさせられたらしい。地元の警官は、彼のことを知っている。
たぶん警視庁から千葉県警に申し送りがあり、地元署はさりげない監視を命じられていたのだ。
保守党一色の地元ではめったに仕事のない公安係は張りきったろう。
しかし三年近くもたった今、問題を起こすようすのない彼に、興味を失っているにちがいなかった。

(本文P.3〜5より引用)

 
 

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