プロポーズ
著者

向井亜紀

出版社
マガジンハウス
定価
本体価格 1238円+税
第一刷発行
2002/09/06
ISBN4-8387-1408-4
私たちの子どもを生んでください。・・「ノブの遺伝子を残したい!」・・

喜びの妊娠が一転して悪夢へ。子宮喪失、ガン克服、そして選んだのは代理出産。新しい命の誕生を願って、ムカイは代理母のいるアメリカに飛んだが・・・。未来を見つめ、さまざまな困難に力強く立ち向かった向井亜紀の、愛と再生、そして涙のドキュメント!

プロローグ

「みんな、見て。こんな変わった毛虫を見つけちゃったのよ」
母の声に、兄と妹、そして私の3人がバタバタと走り出す。
「何?何?何だって?」
目はらんらんと輝き、もう好奇心のかたまり。
「ほら」と母が差し出すバケツの中身を我先にのぞき込んだ。
「うわっ!スゴイね、これ。こんなの初めて見たよ」
「本当、大っきい!」
「ちょっとお、触んないほうがいいよ。かぶれちゃうよ」
小さなバケツの上で、兄弟3人の頭が押し合いへし合いし、口々に感嘆の声を上げた。
誰かが昆虫図鑑を持ってくると、場はますます盛り上がる。
「これじゃない?」
「違うよ。ここがブチになってるもん」
「そうだよ。それにこっちはもっと黒っぽいよ」
私たちは飽くことなく、そのヘンテコな生き物を見つめていた。
毛虫はやがてさなぎになり、ある日突然、蝶や蛾になる。
「亜紀、さなぎが孵ってるわよ!」
学校から帰った私に母がそう告げたときのあの高揚感は、今でも忘れることができない。
一目散に走っていって、バケツに被せたフタ代わりのスケッチブックをそっと開ける。
「ウッヘーiチャドクガだったのかあ。スゴイねえ。モスラにカビが生えたみたい!」
「こんなの見たら、みんなびっくりしちゃうね。裏山へ逃がしにいく?」
そう言いながらも、今にも飛び立ちそうに触角を動かしている大きな蛾から目を離すことができなかった。
最初は葉っぱを食べて、はいずり回っていた毛虫が、カチカチのさなぎになって動かなくなり、「あれ、死んじゃったのかなあ?」と思った矢先に、今度は突然まるで違うカタチの生物となって目の前にあらわれる。
生き物は不思議で、命は驚きに満ちていて、幼い私には、その一つひとつがきらめきだった。
小学校4年生の時、父に買ってもらった顕微鏡で初めて自分の細胞を見た。
内頬の粘膜をスプーンでこすり、それをプレパラートにのせて、レンズに顔を近づけると、キラキラ光るおはじきのような物体が目に飛び込んできた。
人間は細胞の集合体だったんだi
それが私の人間理解の第一歩。
女の子にしては珍しいかもしれない“理科系アタマ”は、こうして芽吹き、その後順調に育っていった。
大学では、生物農芸学を専攻した。
失恋した時、「こんなことでいじけていたら、私の体の中にある何億というミトコンドリアに申し訳ない」などと大真面目に日記に書いたこともある。
理科系にもほどがあると笑われそうだが、やはり恋も生物学もロマンチックなものだと思う。
ちなみにミトコンドリアは、人間を含めた動物の細胞内の呼吸をつかさどる細胞内の小器官。
元々は別の生命体だったものが、動物の体内に取り込まれ、共存するようになったのだと勉強した記憶がある。
共存してもらっているのに、勝手にいじけてゴメンね。
自暴自棄になっちゃダメだね。
そんな気分だったのだろう。
実は、パソコンや携帯電話のメールアドレスにも生物学用語を使っている。
何かいい名前はないかと考えると、浮かんでくるのだから仕方がない。
根っからの生物好きで、我ながらあきれてしまう。
宇宙の中で、地球の中で、この日本の中で、私はなんてちっぽけな存在なんだろう。
そう思うと同時に、私の中にはものすごくたくさんの細胞があり、そしてその一つひとつの細胞は奇跡のように完壁なのだとも思う。
一つひとつが、宇宙のようにすごいんだぞ、と。
失敗した時、自分で自分が嫌いになりそうな時。
私はそう考えることで、自分を立て直そうとしてきた。
生物である自分を確かめることは、私のおまじないなのである。
2年前、子宮頸ガンのため、私は子宮を失った。
お腹の中で育っていた16週の赤ちゃんと一緒に。
記者会見の席で私はこう言った。
「初めて高田と会った時、この人の遺伝子は絶対に残したいと思ったんです」
後で「遺伝子を残したいなんて、一体そんな発想、どこから出てきたの?」とあきれる人、「いやあ、あれは名言だったね」と言ってくださる人、いろいろだった。
けれど、「遺伝子を残したい」という言葉は、こんな“理科系アタア”ゆえか、ごくごく自然に口をついて出たものだった。
もちろん、10代や20代の頃には、恋愛や結婚に、ほんわかとした夢や憧れも抱いてきた。
今も胸がキュンとするような恋のお話は大好きだ。
一方で、「男と女が結ばれる」と聞けば、できたての胚の中で二人の染色体がプチュッとくっつく図をしっかり想像してしまう。
「高田家としては、希望を捨てていません。いつか卵巣から卵子を取り出して受精卵を作り、アメリカヘ渡って、代理母になってくれる人を探すという方法もあるんじゃないかと。そんな希望を持っています」
あの日の記者会見では、少し迷ったけれど、代理出産の可能性もお話した。
子宮はなくなったけれど、私には2つの卵巣が残っていた。
ほんのわずかでも可能性があるのなら、たとえ一纏の望みでもそこに光が見えるのなら、私はチャレンジしたかった。
高田の遺伝子を受け継いだ赤ちゃんが欲しい。
どうしてもその子に会ってみたい。
「なぜあきらめられないの?」と聞かれたら、それは私の生物としての本能だからと答えるしかない。
蝶や蛾が飛び立っていく姿を見た時から、自分の細胞を顕微鏡で見た時から、私はここへ向かって走り続けてきた気がする。

(本文プロローグから引用)

 
 

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