覘き小平次
著者

京極夏彦

出版社
中央公論新社
定価
本体価格 1900円+税
第一刷発行
2002/09/25
ISBN4-12-003308-2
生きているから怖いのか 江戸の闇に蹲る男 隙間から覗く眼

生きているから怖いのか――幽霊しか、演じられない大根役者・小平次。粋で粗暴な多九郎。美しく、怠惰なその妻・お塚。山東京伝の名作怪談を、現代に甦らせる待望の書き下ろし長篇

 

木幡小平次

小平次は、何時も然うしている。
頸を胴躰に深く埋もれさせ、脊椎も折れよう程に轡曲て、貧弱な顎を突き出し、腰を浮かせて固まっている
。左手では自然薯の如きふたつの膝頭を抱え、右手では爪先立った右足の踵を摩っている。
踵は荒れていて、輝割れた皮が厚く盛られているので、触れても感覚がない。
指先は乾いた鏡餅の如きそれを感じているのに、踵の方は何の反応もない。
己が自身に触れているのに、一向そうした感触がない。
触れている己が小平次ならば、この身体は誰方のものか。
否、この躰こそ小平次なのだとして、触れている主体は何処の誰奴か。踵を弄うだけで小平次は、小平次というものから、もっと荘洋とした何かに薄まることが出来る。
希薄になるのは心地良いことだ。このまま薄まって薄まって、微昏がりに雑じってしまえれば、小平次は殊の外幸福である。だが、それでも、どれ程希薄な心持ちになっても、己は矢ッ張り小平次という塊だ。
ぎゅっと固まって、暗の裡で孤立している。
闇が深ければ深い程、惜かに輪郭は曖昧になるのだけれど、芯の方は濃ゆく固まっているように思えてしまう。だから小平次は微昏がりは好むけれども、真の闇は畏い。
例えば、瞼を閉ざせば暗闇はすぐに訪れる。
だが、眼を塞げば世間が消えて岡くなるのかと問えば、そんなことはない。
己が消えて無くなるのかと問えば、そんなこともない。
不可視くなることで己が此処に居ること其処に在ることがより明瞭としてしまうのだと、小平次は思う。
世間が漠くなればなる程に、肌は外と裡との圃ぎ合う境界となる。目を瞑れば己も世間もなくなるが、途端に身体の表面は薄膜となってしまうのだ。それは薄い薄い、絹より薄い膜なのだけれども、それはまた、決して破れることのない膜である。裡と外とをきっかり仕切る幕である。
肌に外気が触れる度、裡の内気が満つる度、己の像はくっきりとする。
小平次はそれが厭だ。
何ごとにつけ小平次は、淡く、閑やかで、冷ややかなるを好むのだ。
昏黒の中に身を置くと、冷えている筈の肚の中が濠ったかのように覚え違う。
すかすかと稀い筈の胸の中が詰まっているかのように覚え違う。がらんどうの筈の頭の中心に核でもあるかのように覚え違う。
眩い陽光の下は最初から適わぬのだけれど、真っ暗闇とて大差ない。
だから小平次は、いつも微昏がりに居る。そして、両の眼を確乎りと明けている。
湿っても乾いてもいない、灰昏く冷たく、挨の匂いしかせぬ納戸の中で、身を屈め、首を突き出して、いつもいつも、眼球が乾く程に瞼を見開き瞳を凝らし、凝乎としているのである。
納戸の戸襖は僅かに開けられている。
閉めてしまえば裡は闇となる。だから必ず開けてある。
その、細い細い縦長の隙間こそ、小平次にとっての世間である。
その細い細い縦長の隙間から漏れ入る幽けき光だけが小平次を照らすのだ。
否、それは、照らすという程の強さはないのだ。その明かりは頗る頼りなく、幻燈のように痩せっぽちの自が姿を微昏がりに浮かび上がらせるだけだ。浮かぶ姿は、腺鹿としているというよりも、寧ろ透けているかのようである。
そして小平次は、自分が果敢ないものであることを確認する。稀薄であることを堪能する。
羅のように滑らかで、厚みも温もりもない。
その、まるで幻像のような肉体から、更に小平次は後ろに退く。
その為に小平次は踵を摩る。指先の覚えが小平次を薄膜の外へと誘う。
そうして、いいだけ薄まって、小平次は漸く落ち着く。
眼と指。
小平次はそれだけのものになる。
だから小平次は、いつも然うしているのだ。
微昏がりの押入れの中、身を屈め踵を撫で乍ら、一寸五分の隙間から世間を覗く。
縦長の世間はいつも夢幻のようで、それでもあちら側こそ真実なのではあろうから、矢張り我こそが夢幻なのであろうかやと、小平次はそう思うているのである。

(本文P.5〜7より引用)


 
 

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