西日の町
著者

湯本香樹実

出版社
文藝春秋
定価
本体価格 1000円+税
第一刷発行
2002/09/15
ISBN4-16-321190-x
母は夜更けに爪を切った。てこじいの うずまっているそばで。

ふらりと現れた謎めいた祖父に、僕は魅かれてゆく・・・・。忘れられない町、忘れなれない時を瑞々しく描く最新作

少年の日、西の町で暮らす母と僕のアパートに、「てこじい」がふらりと現れた。祖父の生涯と死、母の迷いと哀しみを瑞々しく描く

母は夜更けに爪を切った。
てこじいのうずくまっているそばで、ばちん、ばちんとゆっくり、できるだけ大きな音をたてて。
しゃがみこみ、あるいは片膝を立てて切った。
布団に横になり、肘をついた姿勢で切るときもあった。手の爪だけでやめることもあれば、続けて足の爪を切ることもあった。
そのくせ僕が同じことをしようとすると、吊り上がった大きな目を眇めて言うのだ。
「親の死に目にあえなくなるよ」
「しにめ、って?」
「死ぬとき。ご臨終ですって、テレビでやるでしょ」
おそろしいもののように、僕は爪切りを畳の上にぽとりと落とす。
すると母はそれを拾い上げ、まだそんなにのびてもいない手の爪を切りはじめるのだった。
あかあかと蛍光灯に照らされて、てこじいのうずくまっている真ん前で。
楽爪に苦髪なんて嘘よね、などと眩いたりしながら。
いったいどんな気持ちで、てこじいはあのつねにタイミングのずれる、眠気を誘いながらも眠らせてはくれない音をきいていたのだろうか。
ばちん、という音がするたびに、ぴくんと体を動かすこともあった。
六畳のすみにうずくまり、絵地図の川みたいなしわの刻まれた額を、痩せてとんがった膝小僧に押しあてて、てこじいは間違いなくその音をきいていた。
てこじいが母と僕の住むアパートにやってきたのは昭和四十五年の春、僕が十歳のときのことだ。
その日、学校から戻った僕は、扉の前にへたりこんだ見知らぬ男を見つけるやいなや、
「てこじい?」
と声をかけたのだった。
躊躇いもせずそんなことができたのは、てこじいが眠っているように見えたせいかもしれない。
母は道ばたで寝ている浮浪者を見るたびに、「てこじいもああなっているにちがいない」とか、「ああびっくりした、てこじいかと思った」とか言っていたから。
橋の下や溝の中、あるいは人気のない神杜の湿った石段の上で、僕はまだ会ったことのない祖父の予告篇を幾度も見ていたのだ。
母が考えたような生活をほんとうにしていたのかどうか、てこじいはずいぶんきれいによごれていた。
全身まんべんなく、膜でも張ったようによごれているために、その姿は三月の薄曇りの光にしっくりなじみ、溶け込んでいた。浜辺の漂着物を眺めるときのように、僕はかがみこんだ。無精ひげに覆われた消しゴムみたいなかたちの顔、その顔から突き出た大きな耳、サイズの合っていない消炭色のジャンパー………。
もう一度呼びかけようとしたとき、濁った目が開いた。

(本文P.3〜7)

 
 

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