発火点
著者

真保裕一

出版社
講談社
定価
本体価格 1900円+税
第一刷発行
2002/07/15
ISBN4-06-211325-2
12歳のあの日、父が殺され、少年時代の夏が終わった

12歳のあの日、父が殺され、少年時代の夏が終わった。

人生を変えた殺人。胸に迫る衝撃の真相。
なぜ友の心に殺意の炎が燃え上がったのか?
魂の根源に迫る衝撃サスペンス。

12歳の夏――。
浜に倒れていたあの人。母のため息。家に寄りつかない父。
――そして事件は起こった。
21歳の今、あの夏の日々を振り返る。刑期を終えたあの人が帰ってくる……。罪と罰の深淵を見つめる魂の軌跡。

 

誰にでも振り返ると胸が痛み出すような、幼いころの夏の思い出がひとつぐらいはある。
夢や希望にあふれて、世界の始まりが自分の足元から広がっているみたいに感じられたあのころ。
水中マスクとシュノーケルさえあれば、広い海を泳ぐ魚たちはすべて友達だと信じていたあの夏の日。
けれど、心躍る冒険に満ちた夏休みは、やがて九月の声とともに終わりを告げる。
八月の夏の輝きは指の問から砂がこぼれ落ちるように味気なく色あせていって消え去り、果てしなく思えていた自分の可能性にも限りがあり、海がとてつもなく広い現実を、少年たちは哀しみとともに学んでいく。
暑い夏ほど記憶に残りやすいのと同じく、痛みの深さは失ったものの大きさを教えてくれる。
少年のような心を持つ人、という言い方がある。
そこには、無邪気だったり純粋さを秘めていたり、少年を肯定的に見ようという眼差しが込められている。
俺は思う。
少年期はもう大人に等しい打算を抱いているし、他人への嫉妬に胸を焦がしもする。
本当の意味での純粋さを持ち合わせているのは、物心つくかつかないかの幼少期の、ほんの一時のことにしかすぎない。
なのに大人は、少年の日々を甘酸っぱい幻想に満ちた言葉で飾りたがる。
成長する日々が貴重であったと歳を経て実感できるからこそ、自分が少年少女であった日々を懐かしく思いたい。もう取り戻しようがない時だから、幼いころの夏が輝いて見
える。
俺は今も時々、少年の日の夏を思う。
波の打ち寄せる堤防で釣りに明け暮れた午後。
家にいるのが辛く、高台から夕陽の茜色に染まる海と港を一人で眺めていたあのころ。
記憶の中の父は、決まって優しげに微笑んでいる。
本当は、笑顔の父と楽しく暮らした日々は数えるほどだったというのに。
母を思うと、涙をこらえる後ろ姿ばかりが瞼に浮かぶ。子供の前で泣き顔を見せるような弱い母ではなかったというのに。
そして俺は、いつも怒っていた。
特に父を亡くしてからは。
たぶん俺は勇気がなかったのだと思う。
中学時代の俺を知る人は、きっと今も誤解している。
確かにあのころの俺は、導火線の短いネズミ花火のように、迷惑で熱い火花をまき散らし、すぐに弾けたがる少年だった。
人を受け入れず、怖いもの知らずの高慢さで相手かまわず拳を振り上げ、威嚇ばかりをくり返していた。
喧嘩は日常茶飯事で、俺は一時期クラスの鼻つまみ者と呼ばれていた。
ただ、これだけは誓って言える。
当時の俺は、仲間とたむろして小ずるい悪さをすることに興味はなかった。
理由は簡単で、俺には小さな両手からこぼれ出てしまう不満をありのままに打ち明けられる友人など、一人もいなかったからだ。
寂しさや悩みや失意を抱えがちな若者は、似たような傷を持つ伸間を見つけては、やたらと世間に背を向けたがる。
同じ痛みを持つ者と一緒にいれば、傷をなめ合えるし、ぬるま湯のように届心地のいい共感も分かち合えた。自分たちを理解してくれない世間に牙をむくことで、せめてもの自己主張ができたし、同時に憂さも晴らせた。
社会という大海へこぎ出す勇気がないという点では、彼らも俺も同じだったろうが、俺は彼らの甘えた誘いに乗るつもりはなかった。
そもそも俺と同じ痛みを持つ者は、連中の中にいなかった。おまえの辛い気持ちはわかる。
世間なんて冷たいものさ。いくら同情の言葉をかけられようと、傷の痛みを理解できないという点では、わかったようなことを言いたがる世間も彼らも変わらなかった。
だから、俺はいつも一人だった。一人きりだと思っていた。それもこれも、俺に勇気がなかったからだ、と今はわかる。
中学は義務教育なので、問題もなく卒業はできた。母親を困らせるつもりなのか。
お母さんには君しかいないじゃないか。
早く安心させてやったらどうだ。
善意の説得や世間の目という圧力に屈し、俺は高校へ進学した。
けれどそれは、息苦しさに囲まれて暮らす日々がまた三年間続くことを意味した。
高校でも、俺はやがて中学時代と変わらない好奇の視線にさらされた。
他人の不幸は真冬のインフルエンザのように人の口からロヘと伝わり、噂という流行の風邪にかかって熱を上げる者もいれば、保菌者になって無関心を装う者もいた。
きっと彼らも悪気はなかったのだ。心優しき人々の反応はあきれるほど同じで、気遣おうとするからこそ、態度や言葉の端にぎこちなさが出てしまうにすぎない。けれど、水の中でもがく犬を川岸から眺めるのも同じ行為だと気づく者はいない。
水の中でもがく俺にとっては、息が詰まる毎日だった。
「親を殺された者が、そんなに珍しいか!」
ある朝、俺はクラスメートの視線に耐えきれず、そう叫んで教室という水の中から飛び出した。
多少は胸のつかえが取れ、つかのま呼吸は楽になった。

(本文P.7〜9より引用)

 
 

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