黒と茶の幻想
著者
恩田陸
出版社
講談社
定価
本体価格 2000円+税
第一刷発行
2001/12/10
ISBN4−06−211097−0
華麗にして『美しい謎』 恩田陸のすべてがつまった最高長編


目の前に、こんなにも雄大な森がひろがっているというのに、あたしは見えない森のことを考えていたのだ。どこか狭い場所で眠っている巨大な森のことを。学生時代の同級生だった利枝子、彰彦、蒔生、節子。卒業から十数年を経て、4人はY島へ旅をする。太古の森林の中で、心中に去来するのは閉ざされた『過去』の闇。旅の終わりまでに謎の織りなす綾は解けるのか…?華麗にして「美しい謎」、恩田陸の全てがつまった最高長編。

 


第一部 利枝子

森は生きている、というのは嘘だ。

いや、嘘というよりも、正しくない、と言うべきだろう。
森は死者でいっぱいだ。
森を見た瞬間に押し寄せる何やらざわざわした感触は、死者たちの眩きなのだ。
森の中には、生者と死者とが混在している。
足元には死者が堆積し、木々の梢からは赤ん坊の笑い声が降る。
森の中にはありとあらゆる時間が流れi澱み渦を巻き一時に逆流を繰り返し、常に攪拌されている。
夥しい死者たち。
すなわち、気の遠くなるような時間の蓄積を目の当たりにして、我々は森に圧倒され、畏怖を覚えるのだ。
最初にその旅のことを言い出したのは誰だったろう。
私は彰彦だったと記憶しているのだが、彰彦は節子だったと言う。
節子はそんなこと覚えてないわ、あたしたちみんな酔っ払ってたじゃないのと首を振った。
学生街の焼き鳥屋だった。十数年ぶりに訪れるその細長い店は、社会人と呼ぶにはどこか青臭く、学生にしてはやけに老けている奇妙な年齢層の男たちが占めていた。その彼等から見れば自分たちの方がずっとおじさんおばさんなのであるが、こちらの意識としては彼等を老けていると感じるのだからおかしなものだ。
店は昔の家のような明るさだった。
戸外から足を踏み入れると、一瞬薄暗い印象を受けるのだが、腰を降ろしてお茶を飲んでいる頃には、目がその明るさに慣れてしまっている。
私たちは奥のテーブル席に腰を降ろし、煙草で茶色くなった画用紙にマジックインキで書かれているお品書に目をやった。
その日の主役はまだ来ていなかった。
その前に別口の送別会があるらしく、悪いけど先にやっててくれよ、と蒔生の携帯に電話があったそうだ。
潔がねえ、と節子が眩いた。
最初は意外に思ったけど、考えてみると向いてたかもね。
彼女が続けてそう言うと、他のメンバーはそれぞれ微妙に意味の異なる相槌を返した。
菅谷潔はこの春で会社をやめて、田舎に帰って実家を継ぐことになった。
彼の実家は中規模の個人病院なのだが、彼の父である院長や伯父の務める事務長ら経営陣の高齢化が進むのと同時に経営も硬直化し、ここ数年慢性的な危機に陥っていたらしい。
彼の父は一時病院を閉めることも考えたが、大学病院で内科医を務める潔の兄や、都市銀行で貸付を担当していた潔らを集め大々的な家族会議が昨年の暮れに催された結果、ここは再び一族の結束を固め、世代交替して新たに病院を立て直そうという結論に達したらしい。
ファミリー・ビジネスか。
これから見直されるかもね。
蒔生がビールのジョッキを口に運びながら咳いた。
何を言ってる、今最先端はファミリー・ビジネスだ。
そもそも高度成長期以来、日本は自営業の地位が低すぎる。
大学まで出て大企業に勤めようなんて考えてるのは日本の大学生くらいだというのは有名だ。
彰彦がもろきゅうを齧りながら答え、歯に染みたのか顔をしかめた。
うう、知覚過敏だ。
完治したはずなんだが。
そこに節子が口を突っ込む。
ねえねえ、ファミリー・ビジネスって言葉っていうのはさ、別のニュアンスがあるんじゃないの?
あたしはどちらかと言えばダーティな意味に受け取ってたんだけどな。
ほら、マフィアの血の掟ってあるじゃない。
血の繋がりを大事にするからマフィアの商売のことをファミリー・ビジネスって言うんだと思ってたの。
違う?
節子のおしゃべりを聞くのは好きだ。
彼女は話好きなのだが、どことなくとぼけた感じがあって、邪魔にならない。
適当に気配りがきき、適当に無邪気だ。
話題も多岐に亘っていて、みんなが口を挟みやすい。
たちまち歳月が巻き戻されて、学生時代になる。
懐かしさは人を高揚させ饒舌にするが、そのことに誰もが密かに心の底で差恥と自己嫌悪を感じている。
オニオンスライスって久しぶりに食べたけど、居酒屋で食べるとやっぱりうまいな。
自分ちで作ると、どんなに水にさらしてもただ玉葱臭いだけになっちゃうのよね。
おお、来た来た、主役が。
スーッを着た潔が入ってきて、みんなを見つけると歯を見せた。
その姿を見て、あれっおじさんが入ってきたなと感じた私は、やはり自分も周囲からそう見られているのだと気付きぞっとした。

 

 

 

 

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