メロス・レヴェル
著者
黒武洋
出版社
幻冬舎
定価
本体価格 1600円+税
第一刷発行
2002/2/10
ISBN4−344−00151−6
全国レベルで人間への讃歌を謳い上げる 、 『メロス・ステージ』開幕!

第一回ホラーサスペンス大賞受賞第一作 

絆を信じて 待つか、走るか─。

21世紀の人間の在り方に疑義を投げかける衝撃作!

怒濤の書き下ろし長編777枚!

 

太宰治の「走れメロス」にヒントを得て、21世紀のデジタル社会、人間のあり方に疑義を投げかける書下ろし、衝撃作。第1回ホラーサスペンス受賞作「そして粛清の扉を」(新潮社刊)で話題をさらった著者による待望の新刊。絆を信じて、待つか、走るか…。勝者には名誉と金。敗者には凄絶なペナルティ。政府公認で選出された10組のペアは、自らを賭して闘った。 (幻冬舎HPより引用)

プロローグ

代々木から乗った総武線の車内は、目一杯効かせた冷房のために外界とは比べられない位快適だった。
それにしても、この鮨詰め状態は何とかならないものか……もっと早い時間に出るべきだった。
先頭車両に乗った予備校帰りの牧文典は、前後を汗臭い中年のオヤジにべったりと挟まれながら、手に提げたディパックを必死に握り直し、ぐっと両足を踏張った。
だが、ドアからは後続の連中が休むことなく押し入って来て、彼の身体とディパックを別の方向へと流そうとする。
歯を食い縛り、周囲の全てに抗おうとしたが、所詮は無駄で無意味な抵抗だ。
自分の手から剥がれる感覚だけを文典に残し、ディパックは手元から消え去った。
だからといって、文典にはどうすることもできない。
総武線は、更に乗車しようとする人の列を中途で断ち切り、ドアを閉めて発車した。慣性の法則で、一斉に乗客が斜に傾いた。
文典の全身に、合わさった他人の体重が、一方向からのし掛かる。
胸部が圧迫され、呼吸が詰まった。
これだけの人数だ。
誰かが、足の一つもどこかで踏まれたりしているだろう。
が、文句は勿論のこと、舌打ちすらする者は居ない。電車がスピードに乗って、やや体勢に余裕が出来た文典は、天を望んで大きく息を吐いた。
夕方六時近くとはいえ、立ちはだかる他人達の隙間から覗く、窓外を走る六月の景色は、未だ十分に明るかった。
斜光線が窓ガラスをオレンジ色に染め上げ、そこを通過することで人体に有害な要素を除去された光が、時折、視神経の奥まで到達して強烈に輝いた。まだまだ一日の終わりを告げる時間帯ではない。
なのに、老若取り混ぜたこれだけ多くの人が、競って帰宅を急いでいる。
文典の正面に立つ前頭部の薄くなりかかったオヤジが、地肌に浮く脂ぎった汗の粒を拭き取ることも叶わず、息苦しそうに唾液を呑み込んでから溜息を吐いた。鼻の曲がりそうな口臭が、ぼんやり外に眼をやっていた文典を襲った。
判り切ったことだが、逃げ場などない。文典は、思わず顔を餐め呼吸を止め、ささやかな反発として顔を横に背けた。
下ろした視線の先で、小さな女の子が眼に涙をいっぱい溜めている。親と離されてしまったのか、不安そうに見上げる黒眼がちな瞳は、落ち着きがなかった。細いのに長い礎毛が、却ってはかなげな印象を強めていた。
かといって、走行中の電車内では、法律によって一切の私語は厳禁だ。
この車内のどこかに居る筈の親は、我が子の安全を確認しようと、そして己れの居場所を示し我が子を安心させようとしても、一声すら掛けられない。
三百六十度を密着してそそり立つ大人達に囲まれているこの子の恐怖は、如何ばかりだろうか。
ひょっとしたら、足が地面に着いていない宙ぶらりんの状態かもしれない。柄にもなくそんなことを考えた文典は、女の子と眼が合った瞬間、ぎこちなく微笑み掛けていた。それを受けて、女の子も涙を堪えて顔を崩した。
それが、こんな窮屈で理不尽な場所の中で、唯一、文典の救いになった。
その女の子を気にしながら顔を起こした文典は、さっきまで一緒にプラットホームに並んで電車を待っていた、同じく高三日曜講座に出席した友人の小林京太が、不自然な格好で、やはり苦しそうに吊り革に掴まっているのを見付けた。
向こうもこちらに気付き、眼で合図を送って釆る。京太は、自分の真横に立っているのが若い女性であることを文典に訴え、そしてにんまりと笑った。
文典は、苦笑するしかなかった。
食欲、睡眠欲と同列にある、古来より続く人類における三大欲の一つ、性欲。
仮にこれが欠落するようなことになったら、人間という種族の絶滅を導く。それがここにきて、性的欲求が生まれ付き弱かったり成長に従って薄くなっていくという者が、男女問わず加速度的な増加傾向にあった。従来から間題視されていた夫婦間のセックスレスや、結婚率の大幅な下落とそれに反比例する離婚率の上昇、男性のEDの問題や精子数の極端な減少、精子そのものが持つ運動能力や生殖能力の低下、卯巣の機能停止、それら全てが引き起こした信じがたい程低い出生率といった事象と結び付けられることによって、これが由々しき問題であるとテレビや新聞で取り上げられるようになって既に数年になる。
十八歳の若者である文典自身にも、そんな兆候が絶対にないとは否定出来なかった。別に、女性の存在に対してのべつ幕なしに強い興味が湧く訳ではないし、具体的に悶々とした感情を覚えたことも、翻って過去数回の記憶しかない。
しかも、そのことで取り立てて困ったこともないから、文典の中ではそれ程重大だとの認識も持っていなかった。
専門家の中には、人類固有の性質変化として、他の動物のような所謂発情期の存在が遺伝子レベルで発芽し、我々はそこへと移行するその過渡期に今置かれているなどと、真面目に発言する者もいた。
京太の笑みには、女性に接している性的喜びが含まれているように見えた。
文典には、そのこと自体はどうでもいいことだったが、しかし考えてみれば、少なくとも脂ギトギトのオヤジよりは若い女性の方が、身体の一部を接触させているという一点に関して言うなら、不快度数は遥かに低いだろう。
そこまで考えて、初めて文典は彼を羨ましく思った。同時に、眼で返事を返す。(本文よりP.3〜5引用)

 

 

 

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