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 魂萌え!
著者
桐野夏生/著
出版社
毎日新聞社
定価
税込価格 1785円
第一刷発行
2005/04
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ISBN 4-620-10690-9
 
とことん 行きなさい! 若い人には、まだ 想像できない世界
 

本の要約

夫の急死後、たった一人で世間という荒波に揉まれ、漂流しつづける主婦・敏子。大反響の毎日新聞連載小説、待望の単行本化!



オススメな本 内容抜粋

第一章  混乱


隆之の棺を載せて、霊枢車のドアが閉じられた。
斎場の前に集まった参列者が一斉に手を合わせる。
だが、関口敏子は、遺影を胸の前で抱え、ぼんやりしていた。
夫が死んだ、という実感がないままに、通夜や葬式が勝手に進行していく。
胸の中が空っぽで、思う存分泣きたいと思っていても、その力さえもなかった。
突然、ごうっと音がして風が吹いた。
小さな旋風が回転して砂塵を巻き上げ、参列者の髪を乱した。
老女が喪服のワンピースの裾を押さえ、名前も知らない親戚の子供が目を擦った。
旋風は離れがたいように、霊枢車の周囲をくるくると巡って、一向に去らなかった。
「お父さんが、皆にさよならって言ってるんだね」
長女の美保が泣き腫らした顔で囁いた。
美保は、葬儀の問中、泣きじゃくっていた。
三十一歳にもなったのに、立ち居振る舞いも言動も子供っぽい娘は、自分の悲しみを受け止めるのに精一杯で、母親を気遣うところまではいかない。
敏子は空を見上げた。
二月の曇天が陰轡に広がっているが、寒くはなかった。
まだ二月の初頭だというのに、春めいた日が続いている。
葬式には幸いだが、それも凶事めいて感じられる。
奇妙なことに、出棺の時も、家の前だけに同じような旋風が吹いた。
敏子は、隆之が住み慣れた家に別れを告げているように感じられてならなかった。
この風も、不意の死を迎えた隆之が、無念の思いで吹かせているのかもしれない。
敏子は、旋風が移動したり、たゆたう様を眺めた。
さようなら。
心の中で呼びかけた途端に脱力しそうになり、敏子は必死に持ち堪えようと背を伸ばした。
「お母さん、お母さん」
敏子を呼ぶ声がした。声に苛立ちが感じられる。
霊枢車のドアの前で、白木の位牌を片手で持った長男の彰之が顎をしゃくっていた。
早く乗れ、と言いたいのだろう。
彰之の声がした途端に
旋風が収まっている。
「あーあ、いなくなっちゃった」
美保が残念そうに肩を落とし、敏子と一緒に霊枢車に歩きかけると、彰之が怒鳴った。
「お前はバスだよ。お母さんと俺が霊枢車」
「兄貴、うざいんだよ」
美保が仏項面になった。
マイクロバスの中には、親戚たちに混じって、彰之の妻、由佳里と、四歳と二歳の孫たちがすでに座っている。由佳里は関心のない顔で、集まった人々を眺めていた。
「采配振るっちゃって馬鹿みたい」
敏子は美保をたしなめた。
「あなたたち、喧嘩しないでよ」
久しぶりに顔を合わせた彰之と美保は、二人きりの兄妹なのに、何かといがみ合っている。
「だって、偉そうじゃない。あたしだって最後くらいお父さんと一緒にいたいよ」
美保はぶつくさ言って、バスに向かった。
ロスアンジェルスで何をしていたのか、葬儀のために八年ぶりに帰国した長男は、顔にも腹にも贅肉を付け、やたらせっかちで、場を仕切りたがる男に変貌していた。
勿論、結婚したことも、子供が生まれたことも、時たま来る手紙や電話で知らされてはいたが、妻の顔も孫の顔も写真でしか見たことがなく、今回が初対面である。
「ああ、疲れた。葬式って、やたら疲れるね」
動きだした霊枢車の中で、彰之が自分の肩を揉みながら言った。
「時差ぼけじゃないの」
敏子は、背後に夫の遺骸が横たわっているのを意識しながら言った。
あれだけ顔を見たがっていた息子の帰国が、自分の葬式のためだったと知ったら、夫は何と感想を洩らすのか、聞いてみたい気がした。
しかし、夫はもう二度と物言わぬ存在になったのだ。
またしても気持ちが沈んでいく。
敏子の気も知らずに、彰之はのんびり言った。
「てか、日本だね。俺、日本に疲れるよ。忙しなくてさ。葬式も何もかも、流れ作業じゃない」
「流れ作業だから、いいのね」
敏子の眩きに、彰之はさすがにはっとして、押し黙った。
敏子は、運命が急転した三日前のことを思い出していた。
遥か昔の出来事のようにも感じられた。

 

 

(本文P. 7〜9より引用)



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