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 半島を出よ 上
著者
村上龍 /著
出版社
幻冬舎
定価
税込価格 1890円
第一刷発行
2005/03
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ISBN 4-344-00759-X
 
財政破綻し、国際的孤独を深める近未来の日本に起こった奇蹟。
 

本の要約

2011年、北朝鮮「反乱軍」を名乗る特殊部隊が来襲し、福岡市中心部を制圧した。日本はこの危機をどう乗り越えるのか?財政破綻し、国際的孤立を深めた近未来の日本で勃発するドラマを、現実を凌駕する想像力で描いた問題作!



オススメな本 内容抜粋

米軍払い下げの簡易ベッドに寝ていたノブエは、ニワトリの鳴き声で起こされた。
テントの中にニワトリがいて、地面にこぼれている食べ物のクズを突いている。
目は覚めているが、ノブエはまだちゃんと目が開かない。
左手首を目の前に持ってきて腕時計を見た。
短針は十一時を指していたが、本当に十一時かどうかわからない。
もう二十年以上も前に親友のイシハラにもらった時計だったが、譲り受けたときからすでに狂っていた。
何百回捨てようと思ったかわからないが、他の時計を買うのが面倒くさかったのと、イシハラと別れてからは彼の形見のような気がして、捨てられなかった。
イシハラと一緒に過ごした日々の記憶は強烈だったが、どこか白昼夢のようにぽんやりとしている。
うまく思い出せないというわけではなくて、沼に沈んだ死体のように記憶が脳のどこかに隠れてしまっているかのようだった。
他にも仲間がいた。スギオカ、ヤノ、カトウともう一人。
他の固有名詞はほとんど覚えられないのに、イシハラの名前は忘れることがない。
イシハラの時計は半世紀前に作られたスイス製だった。
白い文字盤に銀色の針が貼りついている。
ノブエはその時計を見るといつも感傷的になってしまう。
ビニールシートを利用して作ったテントの向こう側がぼんやりと明るい。
ビニールシートを二重に折りたたんで支柱に被せ、裾を広げて三方を地面に留めるという単純な作りのテントだった。
不透明の青いビニールシートの壁には窓がない。
だから外の天候や様子がわからない。
外からは人の話し声が聞こえてきて騒がしいが、この場所が騒がしいのはいつものことなので、今何時ごろなのかもわからないし、外がどんな様子なのかもわからない。
しかし、なんでおれのテントにニワトリがいるんだ。
そう思いながらノブエは簡易ベッドからからだを起こそうとして、陣き声を上げた。
右肩と左の肘が痛い。
右の腕が上がらなかった。
左肘は関節がきしむような痺れた感じもある。
両腕をかばうようにして簡易ベッドの中で寝返りをうち、右手でからだを支えてそうつと起きあがった。
ニワトリが突いているのは焼き芋の皮の切れ端と、串にこびりついているつくねの残骸だった。
テントの中に置いた石油缶の中では薪がくすぶっていて、そのせいだろう、目と喉が痛かった。
一酸化炭素中毒で死んだホームレスが大勢いるらしくて、石油缶ストーブをテントやバラックの中に入れないようにというNPOからの通達があったが、寝る前に火を消すわけにはいかなかった。
十二月に入って急に冷えてきたからだ。
火がないと関節と腰が痛んで明け方に目が覚めてしまう。
「ノブエさん、すみません、うちのケンちゃんがおじゃましてませんか?」
重ねたビニールシートをめくって、前歯が四本しかない男が顔を出した。みんなからクリと呼ばれている男で、本名は栗山とか栗田とかいって、確か元銀行員か商社員だった。
ケンちゃんって何だ、ひょっとしてこのニワトリか。
ノブエは不愉快そうな声でクリと呼ばれている男に言った。
「そうなんです。あ、やっぱりそうだ。ひとんちに入っちゃダメだっていつも言い聞かせている
んですけどねえ。ケンちゃん、おいで。ノブエさんが迷惑しているでしょう。早く出てらっしや
い」
クリと呼ばれる男はビニールシートの合わせ目からからだを差し入れて手を伸ばし、ニワトリ
を捕まえようとしている。
「ニワトリに言って聞かせてもわかるわけねえじゃねえか。それにここはひとんちじゃなくて、テントだよ。人の家じゃなくて、ホームレスのテントなんだよ」
ノブエが咳き込みながらそう言うと、クリと呼ばれる男は、怒られていると思ったのか、からだをこわばらせて緊張した。
ノブエはこのあたりのホームレスやNPOに恐れられている。
この公園に住み着いたときから、他の住人たちはノブエに恐怖心を持ったようだった。
ノブエには伝説があった。
改造拳銃で何人か人を殺したとか、面白半分で燃料気化爆弾を作って府中市の一画を吹き飛ばしたとか、そういう逸話だ。
昔のことだし、ノブエ本人は伝説などどうでもよかったが、その迫力のある顔と、生命とか幸福とか平和とか世の中でもっとも大切だとされているものを全部無力化するような笑い声のせいで、ここの住民やNPOから特別扱いされていたのだった。
ケンちゃん、こっちいらっしゃい、ほら、ノブエさんが怒ってるじゃないの、ひとんちに入っちゃダメなんだから。
男はニワトリの腹の下に手を差し入れて抱き上げ、テントの外に出した。
本当にすみませんでした、よく言って聞かせますから。
男はノブエの顔を見て、怯えた表情のまま去った。
何がよく言って聞かせますだ、とノブエは笑いながら眩いた。ニワトリに言い聞かせるなんて無理に決まってるじゃねえか。
ノブエは、クリと呼ばれる男が言ったことが急におかしくてたまらなくなり、簡易ベッドから起きあがり、さらに大きな声で笑い始めた。
ククククククと最初は鳩の鳴き声のような笑いだったが、やがて顔が歪んで、からだをくの字に曲げて腹を押さえて笑いだし、そのうち涙を浮かべながらバカ笑いを始めた。こうやってイシハラと一緒によく笑ったなと昔のことを思い出しながら笑った。爆発的に笑うと、肘や肩の痛みを忘れることができた。
立ち上がると頭が天井のビニールシートにぶつかってしまう。
笑い終えたノブエは涙を拭いながら、足元に置いた手鏡を取って自分の顔を見た。右の頬に傷痕がある。
頬骨のあたりから顎にかけて縦に十センチ近く裂けている傷で、歳を取るとシワと見分けがつかなくなるだろうと思っていたが、数年前から傷に沿って肉が陥没してきて、その大きな傷痕がますます目立つようになった。
鏡はよく中年の婦人が使うような白い木の柄がついた楕円形のもので、髪の毛と活力と肌の張りを失った五十過ぎの男の顔が映っている。
しかもこの十数年床屋に行っていないので、額の生え際にわずかに残った髪の毛が、セーターのほつれた毛糸のように顔に垂れている。
まるでクモの巣が貼りついているようだった。上下の歯が一本おきに抜けている。
残った歯も灰色の歯石がついて歯茎もどす黒く変色していた。毎日見ているとはいえ、とノブエは思った。
これはひどい顔だ。このあたりの連中はみんなおれを恐がっているが、こんな傷痕があって、こんな顔の人間を見たら、おれだってビビるだろう。
ノブエはそう眩いて、掛け布団代わりにしていたダウンコートを着て、傷痕を撫でながらテントの外に出た。

(本文P. 5〜7より引用)



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