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 明日の記憶
著者
荻原浩/著
出版社
光文社
定価
税込価格 1575円
第一刷発行
2004/10
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ISBN 4-334-92446-8
 
若年性アルツハイマーを告げられた佐伯には、記憶を全てなくす前に、果たさねばならない約束があった。
 

本の要約

「まずお歳を聞かせて下さい」「ここはどこですか」「次の三つの言葉を覚えて下さい。いいですか、あさがお、飛行機、いぬ」「今日は何曜日ですか」「さっきの三つの言葉を思い出して、言ってみてください」人ごとだと思っていたことが、我が身に起きてしまった。最初は物忘れ程度に思っていたが、若年性アルツハイマーの初期症状と告げられた。身につまされる傑作長編小説。



オススメな本 内容抜粋


「誰だっけ。ほら、あの人」
最近、こんなせりふが多くなった。
「俳優だよ。あれに出てた。外国の俳優だ」
代名詞ばかりで、固有名詞が出てこない。会議室に並んだ顔が一斉に見つめてくるのだが、炭酸ガスのように頭の中から抜け出てしまった人名を、私はいっこうに思い出すことができなかった。
その男優の姿形は浮かんでくるし、何年か前にヒットした主演映画のニュースや宣伝は嫌というほど目にしていたはずなのだが。
最初のひと文字は「キ」?いや違う、「ブ」だったっけ?
「昔の人ですか?」
私に向けられた顔のひとつがそう言った。
すっかり年寄り扱いされちまっている。
「いやいや、まだ若い。童顔でさ。何年か前に映画がヒットしただろ。あの映画」
まいったな。
映画の題名までど忘れしてしまった。
検索キーを押すようにこめかみを指で叩き、困惑した顔を向けてくる面々に、すがりつく視線を投げかけた。
「ほら、豪華客船が沈んじまう話」
私と同じ営業部の安藤が膝を叩いた。
「なんだ、タイタニックですか。もしかしてレオナルド・ディカプリオのこと?」
こともなげにすらすらと答える。
うらやましいかぎりだ。
最近、知っているはずの言葉がとっさに出なくなることが増えた。
ことに横文字の固有名詞がいけない。
「そうそう、ディカプリオ。やれやれ、やっと出てきたよ」
私が安堵の息を吐いて、紙コップのコーヒーを手にとると、周囲から笑いが起きた。
制作部の人間たちだ。
CMプランナー、コピーライター、アートディレクター。
みんなまだ若い。
「年々、物忘れが多くなってね。君らもあと二十年もすればわかるよ、な」
最後の「な」は、出席者の中では私についで年長のCDークリエイティブディレクター─に向けたものだ。
四十そこそこのこの男は、私の視線から逃れるように身をよじって両手を振った。
「いえいえ、僕なんぞ佐伯部長の域にはまだまだ」
彼の大げさなしぐさにまた笑い声。
私も笑った。
別に面白くはなかったが。
「じゃあ、僕はあと二十五年はだいじょうぶだな」
いちばん若そうな茶髪のアートディレクターが憎まれ口を叩く。
広告代理店の人間、特に彼らのようなクリエイティブの若手は、上の人間を恐れずにずけずけものを言う。
若い頃は上司によけいな媚ぴへつらいをする必要がない社風が好ましかったが、勝手なもので、自分が上の立場になると、つい、もう少しへつらってくれても構わないのだが、と思ってしまう。
まあ、部長とはいえ、それほど偉いわけでもない。
広告代理店の営業部門は、課長職を置かないのがふつうで、そのかわりにたくさんの部があり、部長がいる。
対外的な信用を得るための誇大広告のようなものだ。
「部長もそろそろお年頃ってやつですかねえ。後半のほうのお年頃」
安藤まで調子に乗って言う。
「馬鹿なこと言うなよ。まだー」
四十九だと言いかけて、口をつぐむ。
先月、ついに五十の大台に乗ったことを思い出したのだ。
近頃は自分の年齢すら忘れがちだ。何かの折に記入する時、ペンを止めて考えてしまうことがある。
もちろんすぐに思い出すのだが、なぜか、自分の書いたその年齢が、いつも嘘のように思えてくる。
笑わせるつもりなど毛頭なかったのだが、おかげでアイデアが煮つまり、硬直していた会議室の空気が少しやわらいだ。私はまた忘れてしまわないうちに、「ディ」が「デ」にならないように注意して、一同に語りかけた。
「ディカプリオを今度のCMに出せないかな」
それまで場をしきっていたCMプランナーが不服そうな顔をする。
「いやあ、いくらなんでもそれは……いま検討中のコンテに合いませんし」
それはわかっている。
予算管理をしているアカウント・エグゼクティブが口を開く。

 

 

(本文P. 3〜5より引用)



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